四十四 後宮-微睡

「大叔母様。後宮ってどんなところ?」


 後宮で女官として働いていた大叔母は、れんが尋ねるたびいつも笑顔で答えてくれた。


「きれいなお妃様がたくさんいて、楽しくおしゃべりをしたり、楽器を演奏したり、踊ったり、お庭を散歩したりするところ。お食事は美味しいし、お菓子も毎日食べられるし、珍しい料理だって出てくるし、遊び疲れたら昼寝をして、ゆっくりと過ごせるところ」

「いいなぁ。とっても楽しそう」

「とても楽しいところよ」


 王宮は外から眺めたことはあるが入ったことはない蓮花は、美しい色の瓦屋根で覆われ、いくつもの堅牢な壁に囲まれ、高楼がいくつも建っている宮殿の奥にある後宮を夢想した。


「この香炉は、わたくしが仕えていたお妃様からいただいた物なの。鳥籠のような作りになっていて、中で小鳥が香を嗅ぐような仕草をしているでしょう」

「えぇ! とっても素敵!」


 大叔母が仕えていた妃がどのような女性かは想像しようがなかったが、精緻な作りの香炉は蓮花も気に入った。

 中には香木や練香は入っておらず、小首を傾げた小鳥の人形だけがじっと耳を澄ますようにしている。


「わたしもいつか後宮に行ってみたいわ」

「そうねぇ。蓮花ならいつか、後宮に入れるかもしれないわね」

「大叔母様のような女官になれるかしら」

「蓮花ならきっと、女官ではなくお妃様として入ることになるでしょうね」

「お妃様?」

「そう。あなたならお妃様になれるわ」

「ふうん。お妃様も楽しい?」


 大叔母のような女官として暮らすことは間違いなく楽しそうに感じた蓮花だったが、妃が楽しいのかどうかはいまいちわからなかった。


「お妃様も楽しいと思うわ。後宮にはお妃様がたくさんいらっしゃるのよ。美しい方、可愛らしい方、歌がお上手な方、舞が上手な方、刺繍が得意な方」

「わたし、どれにも当てはまらないわ」


 がっかりしながら蓮花が呟くと、大叔母はころころと笑った。


「あなたは大人になったら、てい公子のご子息と結婚するのでしょう?」

「そういえばそうだったわ」

「もし、碇仆公子のご子息が王になったら、蓮花はお妃様になるわね」

「多分、りょうは王様にならないわ。だって、いまは都から遠く離れたところにいるんですもの。王様になるには、都でお勉強をしなければならないんでしょう?」

「どうかしら。王様になるために、地方で勉強をされる公子もいるんじゃないかしら。でも、そうねぇ。蓮花はお妃様になるよりも諸侯の奥方になって地方に行ってのんびりと暮らす方が向いているかもしれないわねぇ」

「向いている?」

「お妃様は、王様のご寵愛を得られなければのんびりと後宮で暮らせるから楽しいのだけど」

「ご寵愛?」

「もし、王様のご寵愛を得たら、苦労することになるわ」


 軽く眉を顰めて大叔母は小声で呟いた。


「後宮で王様のご寵愛を得ない方が幸せになるなんて、妙な話だと思うでしょうけれどね」


 そのときの蓮花は、妃たちが王の寵愛を競うようになると不幸になるのだと思っていた。

 王の寵愛を得て、子を身籠もり、妃としての地位が上がるにつれて、誰よりも王の寵愛を得る妃になりたいという欲が湧くのだろう、と。

 実際に妃になることが決まった際、蓮花は王宮での生活は大叔母が話していたような楽しいものになると思っていた。

 王の寵を競い合う妃は他にいないので、楽しくおしゃべりをしたりする相手はいないが、のんびりと過ごせるものと考えていた。

 しかしいまなら、大叔母がなにを言わんとしていたのかがわかる。

 王の寵愛を得た妃は、王宮の暗部を見る羽目になるのだ。後宮でひっそりと隠されてきたゆう一族にかけられた呪いに巻き込まれることになるのだ。

 妃たちは自分が腹を痛めて産んだ王の子が呪いから逃れられるよう、赤鉄鉱の護り石を首にかけるのだ。歴代の王の妃たちは、呪いがどのようなものであるかははっきりとは認識していなかったが、我が子を呪いから逃がすために苦心してきたのだろう。

 しかし、呪いは長い年月をかけて王宮を蝕み、そしてじゅん王によって後宮のあちらこちらで流された血により息を潜めていた呪いが動き出した。

 游王朝を滅ぼすために。


(後宮を閉じたままにしていても、呪いは消えるわけではないのよ)


 かつて妃たちは後宮にびこる呪いについて口を噤み続けた。

 けれどもう、呪いは自ら姿を現そうとしている。

 呪いは後宮から這いだし、王宮すべてを飲み込もうとしているのだ。


(お父様はきっと、游王家にかけられた呪いを信じないでしょう)


 瞼を開けた蓮花は、ほうっとため息をついた。

 見慣れてきたせきぐうの自室の天井は、華やかな四季の花々が描かれている。


「蓮花様、ご気分はいかがですか」


 枕元で控えていたきんが、目覚めた蓮花の顔を覗き込んでくる。


「わたし、倒れたの?」

「はい。陛下がここまで運んでいらっしゃいました」

「そう…………」


 意識が途切れる寸前に目に映った光景が脳裏に浮かび、蓮花は胸が締め上げられるような感覚を覚えた。


「お水、飲まれますか?」

「えぇ、そうね。いただくわ」


 素早く硝子の杯に水差しから水を注ぎ、芹那は蓮花に差し出した。


「すぐに陛下に蓮花様がお目覚めになったことをお知らせしますね。蓮花様が意識を失われたものですから、陛下は物凄く真っ青になって心配されていました」

「それは申し訳ないことをしたわね」

「侍医に診察していただきましたが、特に悪いところはないそうです。恐ろしい場面に遭遇してしまったので、蓮花様の意識が耐えられなかったのだろうとおっしゃっていました。あ、思い出さないでくださいませ」

「目を覚ました瞬間に思い出したわ」


 杯に口を付けながら蓮花は苦笑いを浮かべる。


そん妃が、消えたんですって。わたしは自分の目で彼女が消えるところは見ていないけれど、彼女が消えた後に襦裙だけが残っているところは見たわ」


 渇いた喉を潤すようにゆっくりと水を口に含みながら、蓮花は頭の中を整理するように言葉にした。


ねいねい、いる?」


 蓮花は水を飲み続けながら姿が見えない愛猫を呼んだ。

 ぐるぅ、と寝台の下から甯々が這い出してくる。


「巽妃が刑部の省舎から消えたの。でも、王宮からは出ていないと思うわ。探せるかしら」


 ぎいっ、と歯ぎしりをするような音を立てて、甯々はにやりと笑ったように蓮花には見えた。


「探す気があるならさっさと探しに行きなさいな」


 芹那が追い立てるように言うと、甯々は尻尾をゆっくりと振りながら悠々と歩を進めて臥所から出て行く。


「あれは、居場所に目星がついている顔よね」

「はい。あたしもそう思います」


 甯々は王宮に来て以来、よく姿を消すようになった。

 どこをほっつき歩いているのかはわからないが、気まぐれで散歩をしているだけではないと思われる。


「先日の西にしよんぐうで小火があった日、甯々は巽妃を気にしている風だったわよね」

「精魅かなにかの臭いが付いているのかと思いましたが」

「甯々はきっと、わたしたちには見えないなにかが見えていたのよ」

「どうでしょうね。所詮は方士崩れの化け猫ですから、期待しすぎるのは禁物ですよ」


 芹那な辛辣な言葉を放つと、稜雅へ報せるための女官を探しに出て行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る