三十七 長春宮(五)

「いまから、西四宮に行くわ」


 れんは再び椅子から立ち上がると宣言した。


ばく兄様もいらしてはどう? 西四宮には宮女たちのための図書室があると聞いているわ。門外不出の書物があるかもしれないわよ」


 腰が重い博に蓮花は餌をちらつかせてみた。


「稀書があれば良いが、どうだろうな。ま、この男を連れてきたのは僕だから、この男を西四宮に連れていくなら僕も行くしかないだろうな。しかし、西四宮は男子禁制なんじゃないのか?」

「いまは後宮として使われていないから大丈夫よ。反乱軍によってかなり破壊された上、一昨日は小火ぼやで殿舎の一部が消失しているから、ほとんど廃墟状態だそうよ」

「ふうん。で、なんで西四宮に行くんだ?」

ちょうしゅんぐうになにかあるんじゃないかと思って」

「長春宮?」

「一昨日まで、西四宮に隠れ住んでいたじゅん様の妃がいるの。いまは獄舎に囚われているけれど、彼女は西四宮にとてもこだわっていたわ。だから多分、あそこにはなにかあるのよ」


 確信はない。ただの勘だった。


「西四宮にはなにかあるのよ」


 昨夜見た夢をぼんやりと脳裏に描きながら、蓮花は告げた。


「博兄様もせっかく王宮にいらしたのだから、中を見学していかれたら良いわ」

「建築学は僕の専門分野外なんだが」

「分野外だからといって見聞を広めないのは愚かではないかしら?」

「確かにそうだな」


 妹に丸め込まれた博が椅子から立ち上がろうとしたときだった。

 なんの前触れもなく部屋の扉が開けられた。


「王妃のところに怪しげな男が訪ねてきていると聞いたが――」


 朝議から戻ってきたところなのか、略式の袍を纏ったりょうが入ってきた。

 女官長が告げ口したのだと蓮花は察した。

 妃の部屋の隣に王の部屋があるというのは、こういうときはわずらわしいものだ。


「怪しい男というのはそなたか?」


 ごうに視線を向けた稜雅が険しい表情になる。

 蓮花が「彼は――」と説明する前に、博がすっと稜雅と轟の間に割り込んだ。


とくがくかんを再開しろ」

「――――は?」


 挨拶や礼はなく、博は簡潔に用件だけを告げた。


「いますぐ、篤学館を再開する旨の触れを出せ」


 自分よりも頭ひとつ分背が高い稜雅に対して、博は淡々と命令口調で言い放つ。


「陛下。それは兄の博です」


 次兄が名乗りもせずに話し始めたので、蓮花が紹介する羽目になった。


「あ、あぁ、博か。久しぶりだな」


 博に気圧される形で稜雅は挨拶をした。

 どちらが王だかわからない、とその場にいた全員が思った。


「兄は篤学館の学生なのです。ところが前の国王陛下が即位されると同時に篤学館が閉鎖されてしまったので、この三年間は自宅で独学に励むしかなかったのです。陛下が即位されたからにはすぐにでも篤学館が再開されるだろうと期待していたのですが、なかなかその報せがないので、直接お願いに参ったのですわ」

「しかし、それなら俺のところに願い出ればいいではないか。なぜここにいる?」

「父と長兄のところに行ったら、わたしに用件を伝えておくようにと追い返されたそうです」

「……あいつらは、王妃をなんだと思ってるんだ」


 蓮花の説明に、稜雅は呆れ返った。


(博兄様は、ひと目で稜雅がわかったのね。服装は国王にしては地味なのだけど)


 博が少年期の稜雅の顔を覚えていたかどうかはわからない。

 蓮花は次兄が人の顔をなかなか記憶しないことを知っている。使用人の顔は半年ほど見続けても、たまに「新入りか?」というほどだ。きんの顔は三日で覚えたが、それは蓮花が常に屋敷の中で芹那を連れ回していたからだ。

 人の顔を見て「目がふたつ、鼻がひとつ」などとのたまう次兄が、どのように人の容貌を記憶しているのかは謎だが、蓮花や透とは違う見え方をしているのかもしれない。


「篤学館のことはきょうに伝えておく」


 結局、稜雅も伝言係らしい。


「再開の触れが出るまで、ここで待つ」


 自宅と篤学館と書店しか行き来しない博が、珍しいことを言い出した。

 蓮花は「おや?」という顔をして次兄を見る。


「この部屋は、かん邸ではないのだが」


 困惑した表情で稜雅は博を見つめた。

 とうに続いて博までもが妃の部屋に入り浸る状態となりそうなので、どうしたら良いのかわからないようだ。


「僕に帰って欲しければ、さっさと国王の権限で篤学館再開の触れを出せ。宰相の認可を待つな」


 ぴしゃりと博が告げたので、稜雅は肩をすくめる。


「宰相の言いなりになっていると、そのうち欲しくもない妃が増えて、妹は王宮から出て行くかもしれないぞ」

「それは困る」

「だったら、いますぐ王として篤学館の再開を裁可すると宰相に告げてこい」


 国王より無位無冠の学生の方が偉そうに脅している。


「わかったわかった」


 駄駄を捏ねる子供の相手をするような口調で、稜雅は博をなだめた。


「で、その後ろの男は誰だ?」


 怪しい男については、稜雅は見過ごす気はないらしい。

 なにしろ妃の部屋は初日から千客万来なのだ。


「轟、ですわ」


 博がどのように説明しようか考えあぐねているのを見かけて蓮花が説明した。


「轟は、芹那の父の仕事仲間で、方士なのです。子供の頃に話したことがあると思うのですが、この本をわたしにくれたのは方士をしていた芹那の父なのです」


 蓮花は卓上に置いてあった精魅図鑑を手に取り、公子の似顔絵は頁の中に挟み込んだ。


「それは、蓮花が一番気に入っていた精魅のことばかり書いてある書物だな」


 読み込まれてくたびれた本に視線を向けた稜雅は、懐かしそうに目を細める。


「いまでも一番お気に入りの本ですわ」


 蓮花は精魅図鑑を抱きしめて宣言した。

 芹那の父が方士であったことは、蓮花は幼い頃に稜雅によく話していた。

 稜雅が興味を持っているいないなど関係なく、蓮花は図鑑を開いては稜雅に精魅の説明をした。子供向けの書物ではないため文章は難解だったが、蓮花は中に書かれている意味を理解するために国語の勉強を熱心にしていた。


「兄がこれを持ってきてくれたのです。実はこれ、王宮に持ってきたかったのだけど、母に反対されて荷物に入れることができなかったのですわ」

「なるほど。で、なぜ博はそこにいる方士を連れてきているんだ?」


 蓮花は轟を紹介した際、轟という男が芹那の父の仕事仲間であるとは言ったが、目の前の男が同名を名乗る別人であることは告げなかった。誤魔化しが効くような説明をしただけで、嘘偽りは口にしていない。


「西四宮には精魅や幽鬼が出るという噂があるらしいじゃないですか。ですから、方士に確認してもらうのが一番ではないかと考えましたの。それに、獄舎に捕らえているそん妃もなにかに憑かれているのであれば、早めに方士に祓ってもらうのがよろしいでしょう?」


 蓮花がすらすらと説明すると、稜雅は顎に手を当てて「まぁ、そうだな」と同意を示した。


「すぐには後宮を再開できないことはわかっていますが、いまからできることをひとつずつ片付けていくことが肝要かと存じます」


 もっともらしい蓮花の言い分に、稜雅はため息をついた。


「学館を再開しろと言う兄と、後宮を再開しろという妹か」

「どちらも必要不可欠だと思いますわ。ねぇ、博兄様」


 蓮花は次兄に賛同を求めた。


「後宮が必要かどうかはわからないが、学館は国民の知識向上のためには必要不可欠だ。国民の教育が欠ければ、国の人材が育たず、国益に反する」

「後宮だって、王家の繁栄、ひいては国の繁栄のために必要不可欠です」


 きっぱりと蓮花が言い切ると「そういうものか」と博はわかったようなわからないような返事をした。

 ひとまず、博が轟を連れてきたことについては、なんとなく稜雅が認める形となった。

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