三十八 長春宮(六)
政務があるから忙しいのではないかと
王が王宮内とはいえ視察に出向くとなれば、警備のための兵士を集めなければならず、準備に多少時間がかかるということで、午後からと決まった。
午前中は執務室で仕事をした稜雅は、昼餉を蓮花と一緒に摂り、そのまま西四宮へと向かった。
本来であれば王や王妃は馬車か輿を使う距離だが、
「一昨日の夜に煙が上がっているのを見たときは近そうに見えましたけど、結構遠いのですね」
普段から歩き慣れていない蓮花は、西四宮に通じる外回廊を歩いているだけでくたびれてきた。
実はこれは西四宮に行くのを諦めさせるための稜雅の作戦なのではないかと疑ったほどだ。
「王宮は広いからな」
常に身体を鍛えている稜雅は、蓮花の歩調に合わせながら進む。
西四宮の入り口の門は半壊していた。
ここは反乱軍がなだれ込んだ際に門扉に閂が掛けられていたので破壊したのだと、稜雅は蓮花に説明した。
門をくぐってみれば、中は広々としていた。
しかし、やはり国王軍と反乱軍の戦いにより、殿舎は破壊され、庭は踏み荒らされ、一昨日の小火でさらに追い打ちをかけるように焼かれたため、廃墟と呼べる状態になっている。
あまりの惨状に蓮花は黙り込むしかなかった。
博や
視界に入っていない部分もかなり悲惨な状態だろう。これではとても他の妃を迎え入れられる状態ではない。
西四宮の惨状は想像以上だったが、現実として受け入れるしかない。そこからどうするかを、王妃である自分が考えなければいけないのだ。
後宮として利用されている四つの殿舎の中でも、長春宮は比較的元の形を保っていた。
しかし、中は荒らされており、辺りには調度品や衣類のいくつかが散乱している。隼暉が討たれた後、反乱軍の兵士の一部が略奪を行ったか、国王軍の兵士が同様の真似を働いた可能性がある。
柱や壁のあちらこちらには傷が付けられており、床板も土や血の足跡で汚されている。殿舎の状態がましだとはいえ、掃除をすればすぐに住める状態でもない。
(こんなところで
巽妃がどのような気持ちでここに隠れていたのか、蓮花には想像がつかなかった。
このような場所でも実家で暮らすよりはずっと居心地が良い、と彼女は思っていたのだ。反乱軍がこの後宮になだれ込んできた際は恐ろしい思いをしただろうし、女官や下女たちが傷つけられる様も目にしたはずだ。
詳しくはわからないが、この後宮では隼暉によって殺された妃や女官たちの他に、反乱軍に抵抗して殺された女官たちもいると蓮花は聞いている。稜雅がどのような指示を出していたかはわからないが、反乱軍の兵士たちは武器を手にした女たちを見過ごすわけにはいかなかった。相手が女子供であろうと、兵士たちは刃向かってくる相手と戦わなければ自分が殺されるだけなのだ。
(死んだ人々は悼まなければならない。でも、わたしは王妃としてさらにこれからの後宮をどうするかを考えなければいけないのよ)
現実を目にして、蓮花の中に新たな決意が芽生えた。
国王や宰相に任せておくと、この後宮は後回しにされることは明白だった。
稜雅はいまのところ蓮花以外の妃は迎えるつもりがないと言っていたから、後宮の必要性はほとんど認識していない。せいぜい、王妃の部屋に透や博が入り浸るのが目に余るくらいだろう。
宰相である
蓮花が妃のための殿舎が欲しいと言えば、
即位して間もない稜雅は、隼暉によって荒らされた王宮をどのように変えていくかはまだ決めかねているはずだ。宰相や官僚たちと相談しておいおい決めていくだろうが、王宮内よりも王宮の外に目を向けなければならないことも多い。なんといっても反乱によって国内は大いに混乱した。まだ、沈静化したとは言い切れず、どこに隼暉の支持者が潜んでいるかもわかったものではない。
王宮の整備に目を配れるのは、王よりも王妃となるだろう。
(まずは、この王宮に古くから残っている呪いを祓わなければ、多分なにも変わらないのだわ)
隼暉に取り憑いたものは、いずれ稜雅や他の
呪いがどのようなものかははっきりしないが、この王宮の内廷である倖和殿では、歴代の王やその子供たちが呪いの影響を多少なりとも受けてきたはずだ。それは隠蔽され、王宮の外に漏れることはなかったのだろう。
(大叔母様はこの後宮で起きていることをどれくらいご存じだったのかしら。三食昼寝付きでお友達がたくさんできる花園だと本当に思っていらっしゃったのかしら)
尋ねようにも、大叔母は先日身罷った。
反乱軍が
「どうだ? なにか怪しい気配はあるか?」
兵士を自分たちの会話がはっきりと聞こえない場所に配置し、稜雅は轟に尋ねた。
「そうだな――――」
轟はゆっくりと後宮を見回した。
「なにかいるようには感じるが――」
方士としての知識はほとんどないらしい轟は、横目で
一方、芹那に抱かれた甯々は、いつになく目を爛爛と輝かせて辺りを見回している。うなり声は上げていないが、歯を剥き出しにしており、かなり周囲を警戒している様子だ。
(昼間だから、精魅や幽鬼の気配は少ないのかしら)
澄んだ空を見上げた蓮花は、純白の雲がゆっくりと流れていく様を眺めた。
温かな風が蓮花の襦裙を翻している。
戦場のように荒廃した西四宮だが、鳥たちのさえずりが響き、折られていない木々のさわやかな葉擦れの音があたりを支配する。
どこかに泉か池があるのか、こぽこぽと水が湧き出すような音もしている。
妃たちが暮らす区画なので、数日前まではさぞかし美しい場所だったはずだ。
ここ十日ほどは一切手入れされていないのか、雑草が生え始めている。いかに毎日庭師達が丹精込めて整えていたかがわかろうというものだ。
「酷いものね」
蓮花が思わず声に出して呟くと、隣に立つ稜雅が顔を顰めた。
「そうだな。このような状態になっていたとは……思わなかった」
隼暉を討った後、西四宮に足を踏み入れたのは今日が初めてだったようだ。
即位して以来、ずっと東四宮と
勝者は敗者の終焉の地を後から見舞ったりすることはないのだろう。
「死んだ者たちが無念さを抱えたまま幽鬼となり、いまでもここで彷徨っていても不思議ではないな」
神妙な顔で稜雅が呟く。
「大丈夫か?」
蓮花の顔色が悪いと感じたのか、稜雅は手を伸ばして蓮花の指を掴んだ。
(冷たい……)
春の日差しの下だというのに、触れた稜雅の手は冷え切っている。
視線を上げて稜雅の顔を見つめると、太陽の陰になっておりよく見えなかった。
「このような場所は、見ていて気持ちの良いものではないだろう? できるだけ早く、瓦礫だけでも片付けさせることにしよう」
(もしかしたらこの辺りを漂っている幽鬼の念を稜雅は肌で感じているのかもしれない)
それは、目に見えるものより不気味なはずだ。
かさり、と音がしたので蓮花たちが視線を向けると、蛇が一匹、柳の木の下を進んでいる状態だった。
甯々はその蛇を獲物として認定したらしく、ぐるるぅと唸って芹那の腕の中から出ようともがいた。
「蛇を食べては駄目!」
芹那が甯々を締め上げて叱りつける。
蛇は甯々に視線を向けると、するりと草むらの中に姿を消した。
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