二十三 桓邸

 夕刻、自室で書物を読んでいたかんばくは、使用人から「お嬢様にお会いになりたいという方がいらしているのですが」と困った様子で声をかけられ、しぶしぶ書物に栞を挟んだ。

 彼の妹であるれんは、昨日王の妃として王宮に入った。多分、この屋敷に戻ってくることは一生ないだろう。それでも桓邸には彼女の部屋がそのまま残されている。いずれは片付けることになるだろうが、母が「でも、陛下に気に入られなくて帰ってくるかもしれないし」と不穏なことを言ったので、すぐに片付けなければならない事情もないからということで残してある。

 あのゆうりょうが蓮花を気に入らないわけがないだろう、と博は考えたが、稜雅がこの屋敷から出て行って八年近くが経過している。彼が心変わりしていないとは言い切れない。今回の婚姻は王家と宰相の政略的なものであるから、もし稜雅が蓮花を気に入らなかったとしても、蓮花がすぐに実家に帰ってくることはないはずだが、世の中なにごとも「絶対」ということはない。

 そんなことを考えつつ、使用人と一緒に屋敷の裏門へと向かった博は、煙管きせるをくわえてぼんやりと土壁にもたれかかる鼠色の衣を纏った痩せた長身の男に「あんた誰だ」と不躾な視線を向けられる羽目になった。


「妹に用事があるというのは、君か」


 三十代くらいの印象が薄い男を上から下まで吟味し、博は冷ややかに尋ねた。


「妹はすでにこの屋敷にはいない」

「そうらしいな」


 男はくわえていた煙管を唇から離すと、ゆっくりと煙を吐きながら答えた。


「侍女は?」

「妹の侍女もいない」

「――そうか」


 男は残念そうにうなだれた。


「君の名は?」

ごう

「ふうん。とにかく、中に入れ」


 屋敷の裏口とはいえ、貴族の屋敷が建ち並ぶ界隈だ。

 妙な格好の男が屋敷の周囲をうろついていると噂になるのはよくない、と博は判断した。

 内乱はひとまず収まったとはいえ、まだまだ城下は治安が戻ったとは言いがたい。宰相に反感を持つ貴族はそれなりにおり、稜雅が即位したことで王宮から放逐された貴族たちは、宰相が新王に進言したせいだと逆恨みをしているはずだ。

 まつりごとの世界では、どうしても私利私欲に走る者が出てくる。

 博は学者としての道を志しているが、父や兄の仕事とまったく無関係ではいられない。さらに、妹が王の妃となった現在、博も桓家の一員であることをこれまで以上に意識せざるを得なかった。

 ひとまず博は轟を自分の部屋へと連れて行った。

 応接室を使うほどの相手かどうか判断がつかなかったからだ。

 使用人を下がらせた博は、床にどっかりと座った轟に尋ねた。


「妹からなにか渡されているか?」

「…………これを」


 懐から轟が折りたたんだ紙を差し出す。

 広げて中身を確認した博は、妹の出て行ったままの部屋に勝手に入ると、文机の下に隠すように置いてある葛籠つづらを持ち出した。それを自分の部屋で開けると、中に入っている折り紙、押し花、色あせた紐、変色した手拭いなどと一緒に放り込まれていた黄ばんだ紙切れを取り出した。


「これだな」


 折りたたまれた紙を広げ、轟が出した物と一緒に左右に並べる。

 真ん中で切り割かれた紙は割り符のようになっていた。

 そこには「甯々」の文字と、獣の肉球のようなものが墨で押されている。


「とりあえず、妹の知り合いであることは間違いないようだな」


 妹に割り符を教えたのは博だ。

 身分証のようなものでできるだけ偽装できないようにするにはどうしたらいいか、と尋ねられた際に、紙に文字を書いてふたつに割れば、それを別々の人間が保管し、再会したときにふたつを揃えて確認するのだと伝えた。

 まさか目の前の男に渡すためだったとは予想外だったが、妹の交友関係は多少変わっているので、とやかく言うつもりはない。

 この「ねいねい」という字は妹が飼っている化け猫の名前だが、なぜか妹の文字ではなかった。侍女の字でもなさそうだし、男が書いたような字に見える。とはいえ、兄のとうの字でもない。

 どちらにしても、この二枚が元は一枚の紙を割ったものであることは間違いなさそうだ。


「それで、妹にどんな用事だ」


 博が尋ねると、轟は煙管をくわえながらしばらく黙り込んだ。


「――王宮に入れてもらう約束を取り付けていた」


 目の前の博に話して良いものかどうか散々迷った様子だった轟は、歯切れの悪い口調でようやく答えた。


「そうか」


 いつの約束だ、と思ったが、博は追及するのをやめた。


「では明日、日の出とともにさきほどの裏口に来い」


 博が小声で告げると、轟は驚いたように目を丸くした。


「あ?」

「僕の従者という名目で、明日君を王宮に連れて行く。僕は、反乱が治まったのに学館が開かれないことについて、そろそろ王や父に陳情しに行こうと思っていたところだ」

「俺を連れて行く、と?」

「うちの使用人として、君をひとりで王宮へ行かせるには少々胡散臭い感があるからな。僕の従者として連れて行けば、君の身なりが粗末でも王宮の衛士たちも通してくれるだろう。着物は用意しないからな。その格好のままでいいだろ」

「……あんたはずいぶんとお人好しだな」

「そうでもない。君がなにものかは知らないが、その割り符を持っているから妹のところに連れて行くだけだ」


 博が答えると、轟は珍妙なものを見るような目つきをした。

 別に人助けをするつもりはない、と博は口を開きかけて、そのまま言葉を発さずに閉じた。

 博は国の教育機関であり最高学府であるとくがくかんで勉学に励む学生だ。

 兄の透のように官僚になるつもりはなく、学者を志している。

 游じゅんが王位に就いて以降、篤学館は閉じられ、現在もそのままになっている。

 新王が即位したのだからそろそろ篤学館も再開されるだろうと待っているのだが、いまのところその知らせはない。

 学友たちから、篤学館はいつになったら再開するのかと博のところに次々と問い合わせがきている。教授のところにも問い合わせをしているのだろうが、宰相の息子である博に尋ねるのが一番早いと思っているのだろう。

 この三年間、ほとんど部屋に籠もって自学に励んでいた博は、そろそろ学友たちと弁論を戦わせたいと考えていたところだ。

 屋敷に籠もっていたのは妹の蓮花も同じだが、こちらは自堕落な生活にすっかり慣れきっていたらしく、王のもとへ嫁ぐと決まった途端に忙しく支度をする羽目になり「面倒臭い」を連発していた。

 王の妃になるのだからそれくらい当然だろう、と博が嫌味を言ったところ、蓮花はすこし考えてから「家を出る日は博お兄様も正装して見送ってくださいな」と要求され、博は面倒な身支度を早朝からする羽目になった。徹夜で読んでいた書物は閉じさせられ、顔を洗い、髭を剃り、母が使用人たちにあれこれと指示をしながら博の髪結いや着替えに口出しをしてきたので、妹の「面倒臭い」という気持ちがすこしだけ理解できた。

 というか、博にとっては妹の存在そのものが面倒臭い。

 なにしろ蓮花は面倒なものを引き寄せるのが得意だ。

 屋敷の前で子供を拾ったり、父が匿った訳ありの王族の息子に気に入られたり、暴君に目を付けられたり、新王に妃として望まれたり、ほとんど屋敷から出たことがないはずなのに轟のような破落戸ごろつきめいた素性不明の男と知り合いだったりするのだ。


(そういえば、甯々を拾ったのも蓮花だな)


 見た目は化け猫か精魅だ。

 蓮花は幼い頃から精魅や幽鬼などの異形を好んでいた。

 どこが気に入っているのかはよくわからないが、滅多に見られないところが良いのかもしれない。

 甯々のような化け猫は、他の誰も同じような猫を飼っていない、という一点が蓮花の自慢なのだ。

 轟を裏門から送り出した博は、妹の部屋に入ると、書棚に残されていた精魅に関する書物を手に取った。誰かから貰ったらしいこの書物が妹の愛読書であることを、彼は知っている。


(せっかく王宮に行くのだし、持っていってやるか)


 蓮花の部屋の書棚には、精魅や幽鬼の書物がすべて残されている。

 彼女はこれらの愛読書を王宮に持ち込もうとしたが、母親に断固反対されたので、仕方なく残していったのだ。


(ちょうど良い荷物持ちも見つかったことだし、土産があれば蓮花も喜ぶだろう)


 どうせ退屈しているに違いない、と博は考えた。

 王宮に妃として入ることを蓮花が父から告げられた日、彼女は王宮がどのような状態であるかまったくわかっていなかった。宰相である父も、まったく語らなかった。

 博は兄からあるていどの話は聞いていたが、通常であれば妃の住まいとなる後宮は反乱軍が入城した際に大部分が破壊され、倖和殿の一部も損傷が激しいという。

 王が妃を娶るというのは政略的なものでも慶事のはずだが、いまの潦国ではたいしてめでたくもなんともないらしい。王となった稜雅の基盤固めとして外戚が必要なのであって、妃というのはひとりいるだけで金食い虫なのだと透はぼやいていた。

 蓮花は生まれたときから都にあるものであればなんでも手に入る環境で育った。

 金で買えるものはなんでも買えたので、彼女の日常の中において贅沢という言葉は金で買えないものにしか適用されなかった。

 偶然屋敷の前で泣いていた女児を拾って遊び相手にしたり、庭に迷い込んできた化け猫を手懐けて飼ったりするのは、金では手に入らないものらしい。

 そんな妹の理屈は、博も理解できないわけではない。

 彼にとって、金では手に入らないものは知識だった。

 桓家に生まれた彼には潦国で最高の教育を受けるだけの資金があったが、いくら勉強しても彼は自分がすべての知識を身につけられないことを理解していた。

 いったん篤学館を離れ外国で勉強をしてみようか、と留学を検討し始めたときに、游隼暉が王位に就いた。そして、篤学館は閉鎖された。


(そういえば、篤学館が閉鎖されて、ちょうど外国に留学を検討していた学生は全員、教授たちからの推薦をもらえなくなったと聞いたな)


 妙なことに、留学が決まっていた学生たちも、潦国から出ることを許可されなかった。

 潦国は国を閉ざしたわけではないが、周辺諸国との往来が極端に減った。


(篤学館が閉鎖される半年前にかく国に留学したちょうが、一時帰国もできなくなったと手紙を送ってきていたな。確か……そうだ、王の息子が塙国の学館に留学してきたから学友として世話をしなければならなくなったと書いてあったな)


 游隼暉の即位後、潦国から留学目的で出ることができたのは、王の息子ひとりだったことを思い出す。

 王の息子は篤学館に所属していたわけではなく、私塾で誰かに師事していたという話もなかった。王族の息子であれば屋敷で家庭教師に学ぶことも多いが、学問を究めることを望む者であれば博のように一度は篤学館の門をくぐろうとするはずだ。

 それなのに、王の息子は篤学館には一度も足を踏み入れたことはなく、どのような経緯なのか塙国の学館へと留学した。

 その後、博は学友の楪と再会していない。

 かんきんの乱が起きて以降、塙国からは一切手紙が届かなくなった。

 游隼暉が討たれたのだから、そろそろ楪が塙国から帰国するかもしれない、と博は考えた。


(確か、游隼暉の息子が帰国したという話を透がしていたような……)


 蓮花が王宮に入ると同時に、父と兄も王宮から帰ってこなくなった。

 どうやらふたりは仕事が忙しく、帰る暇もないらしい。

 蓮花の入宮までは、ふたりとも準備のために王宮と屋敷を往復していたが、蓮花が妃として無事王宮に入って以降は、帰宅する理由が作れないのだろう。

 王が代わったからといってがらりと国が安定するほど政は単純ではない。


(楪からなにか連絡が入っていないか、透に調べてもらうことにするか。楪は塙の算学の書物をたくさん持ち帰ると息巻いていたが、荷物だけでも先に実家に送っているかもしれないしな。游隼暉の息子についても、父と透に聞いてみることにするか。塙国から戻ったのであれば、それなりに珍しい学術書を持ち帰ったかもしれないし、会う機会を作ってもらいたいものだ。そういえば、息子はなんという名前だったか――)


 世間知らずという意味では、博も蓮花と似たり寄ったりだった。

 なにしろ博は、すべてにおいて学問が主体だったのだ。

 游隼暉の息子についても、王である父親の伝手で留学できた公子、くらいの認識だった。

 もしくは、新しい王である游稜雅の従兄。

 政治的な視野では、博は游隼暉の息子――游かいけいを見ていなかった。


 蓮花の愛読書をなにげなく開いて読み出した博は、日没間近になって下男が灯明台に火をともしに部屋に来るまで、黙々と精魅についての解説書を読み耽っていたので、游隼暉の息子のことについてはその頃にはすっかり頭の片隅から抜け落ちていた。

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