十六 獄舎-黄昏(一)
石畳に響く
壁の一番上にある小さな窓から見える空は、茜色に染まっている。
夕餉を運んでくる獄卒にしては足音がゆっくりとしていた。
今日は一日、誰もこの扉を開けていない。
獄卒が運んでくる食事は、扉の下にある小さな扉から差し込まれる。粥の椀と水差しが盆に載せられて届けられるだけだ。彼らはなにも話さず、ただ黙って食事だけを独房の中に入れていく。
この獄舎には現在、巽茉梨以外の囚人はいないらしい。
人の話し声は聞こえず、窓の外から聞こえる鳥や草木の音だけが響いている。
心地よい静寂に、巽茉梨はほぼ一日まどろんでいた。
「巽妃。そこにいらっしゃるのか?」
扉の向こう側から、若い男の低い声がかすかに響いた。
人の気配のようなものは感じられないが、不思議と声は独房の中まではっきりと聞こえた。
埃や黴などの臭いに混じって、嗅いだことのない芳香が漂ってくる。袍に焚きしめた薫香のような匂いだ。
「…………どなた?」
どうやら空耳ではないようだ、と思いつつ巽茉梨はしわがれた声で尋ねる。
喉から声を発したのはほぼ一日ぶりなのでかすれたものだったが、まともに声が出たことに彼女は安堵した。
同時に、獄卒ではなさそうな柔らかな声音に、疑問を感じる。
自分を取り調べるために新王が寄越した官吏でもなさそうな、優しい口調の男だ。
別に急いでここから出して欲しいわけではないので、幾日放っておかれても構わなかったが、獄卒や官吏以外の男が自分に会いに来る理由がわからなかった。
「
明瞭な男の答えに、ぼんやりとしていた巽茉梨の意識は一瞬で覚醒した。
「巽邸で、使用人がふたりほど不審な死を遂げました。あなたの仕業ですね?」
巽茉梨は
(あれが成功したとなれば、昨日、西四宮に仕掛けた
「巽邸で使用人たちを襲ったものは、方士に始末させました。あなたがあのようなことを実行する役目を担っていたとは、ついぞ知りませんでした」
男の言葉に、巽茉梨は寒気を感じてぶるりと身体を震わせた。
淡々とした語り口なのに、なぜか男の言葉すべてに巽茉梨は全身に悪寒が走ることに気づいた。本能で感じる男に対する言いようのない薄気味悪さに恐れをなした。
「あなたは、游隼暉から預かっているものがありますね?」
口を押さえたままの巽茉梨が返事をせずにいると、男は特に答えを求めていたわけではなかったのか、言葉を続けた。
「ご存じだとは思いますが、あなたが游隼暉から預かったものは、とても危険なものです。かつて
知っている、と巽茉梨は答えかけて、なんどか喉の奥に声を閉じ込めた。
すべては游隼暉の最初の妻の軽率な行動によって起きた結果だ。
游隼暉は自分の妻を殺した存在に取り憑かれ、きょうだいを次々と殺し、王位に就いた。そして、甥である
すべては主人の仕組んだことだ。
「あなたの実家である巽家は古くからこの地で暮らしている一族ですから、この
男は淡々と諭すように巽茉梨に告げた。
「いずれ
そんなことは最初からわかっている、と巽茉梨は心の中で叫んだ。
最後は捨てられても、なにかひとつでも傷跡を残せればそれで構わないのだ。自分自身がこの世に存在していてもなにひとつ成せないことの方が、たまらなく無念なのだ。
「王はいずれ、あなたに取り憑いているものの存在に気づくでしょう。游一族の者であれば、それを祓うことができます。父は迂闊にもそれに取り憑かれてしまいましたが、新王はその亡霊に取り憑かれることなく、祓うことができるでしょう。一方で、あなたが游隼暉から預かったものを所有し続ける限り、古き亡霊の呪いは成就しません」
男の説得に、自分は主人から預かったものを渡すつもりはない、と無言で意志を貫き通すため、巽茉梨は自分の両腕を抱えた。
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