十一 泰和殿(一)
東の空が白み始めると同時に、侍従が起床の挨拶をする前に臥所から出る。自身で夜着を脱いでいるところに侍従が部屋に入ってきて着替えを手伝う。粥と汁物の簡単な朝食を済ませると、すぐ
身体が鈍ってきていることを如実に感じられて、とにかく彼は気持ちが悪くて仕方がなかった。
「陛下におかれましては寝不足のご様子ですね。新婚だというのに朝からご機嫌麗しくないようですが、昨夜はお妃様とどのようにお過ごしになりましたか? そういえば深夜に西四宮で小火騒ぎがあって大変だったと伺いましたが」
朝から爽やかな作り笑いを浮かべる宰相補佐の
「うるさい、独身貴族」
渋面で稜雅は椅子の横に立てかけてあった剣の柄を握る。
「どうせ
「小火騒ぎについては昨夜の内に報告が届いています。
「巽家で、変死者?」
剣を鞘から抜きかけていた稜雅は、初めて聞く話題に手を止めて聞き返した。
「まだ陛下のお耳には入っていませんか? 巽家の使用人で二人ほど変死者が出ているそうですよ。巽家は隠していますが、まぁ、都合が悪いことほどなぜか外に漏れるものでしてね。あ、昨夜陛下がお妃様の部屋から閉め出されたこともすでに官吏たちの間で知れ渡っています」
「すぐに官吏全員に、口が軽い男は出世しないと通達しろ。あと、巽家の使用人の変死についての詳細を」
王の一挙手一投足は常に周囲の目に晒されていることを理解はしているが、稜雅はまだ王宮での生活に慣れていない。
公子だった父が健在だった頃は城下の屋敷で両親と暮らしていたが、使用人の数は少なく、彼らの行動を逐一監視するように見ている者などいなかった。
「巽家で使用人二人が変死しているのが昨日見つかったそうです。どうやら獣に噛まれたような跡があり、野犬にでも襲われたのだろうということなんですが、その使用人は二人ともここ三日ほど屋敷から出ていないらしく、他の使用人たちが気づかない間に屋敷内で野犬に襲われるなんて珍妙なことがあるだろうかということで現在極秘で調査中です」
「野犬……」
「喉やら腹やらに噛み跡があったっていうんで一応は野犬ってことになっているんですけどね」
「
「精魅? どうでしょうね」
「巽妃が精魅に憑かれているかもしれないという話は聞いているのだろう?」
反応を窺うように稜雅は透に尋ねる。
「聞いていますが、それは王妃様がおっしゃっているだけでしょう?」
透は
「
「甯々ねぇ……」
透は口調を砕けさせると、唇を歪めた。
「ところで、蓮花は甯々を猫だと主張しているが、あれは本当に猫か? 透はどう思う?」
「どう見ても猫じゃないだろ。といって、犬でも
「やはり、精魅か」
「多分、というていどだが。異形だからな。新種の猫だと言われたらそうかもしれないし、獅子や豹ではないとも言い切れないが、精魅の可能性が高い。どういう種類かはわからないけどな。普通の猫や鳥を飼えばいいものを、妹はそこらへんで手に入る動物では満足しないんだ。前によく喋る九官鳥を贈られたときなど、二日で飽きたといって母に譲っていたしな」
「なるほど。贈り物をするときはよほど珍しいものでなければ気に入ってもらえないということか。もしくは、本人が欲しいと言うものを用意するしかないか」
「精魅を捕まえて贈ったら案外喜ぶかもしれないけどな。そういう魑魅魍魎が恐ろしいという感覚が妹には欠如しているんだ。生きている人間の方が怖いと言うんだが、まぁそれには同意できるな」
書物の束を王の執務机の上に置くと、透は腕組みをしてため息をついた。
「王宮で気をつけるべきは、精魅や幽鬼より人間であることは確かだ。隼暉を討ったことでこの王宮は生まれ変わったように見えているが、それは王と官吏の顔ぶれが多少入れ替わっただけに過ぎない。王宮の体質そのものが変わったわけではないし、十日やそこらで変わるものでもない」
透の説明に、稜雅は頷く。
「巽妃が王宮に戻ったことと、巽家で変死者が出たことになんらかの繋がりがあるのかどうかはわからないが、生きた人間や精魅、幽鬼のすべてに注意を怠るな。王宮内ではどいつもこいつも怪しすぎて、油断も隙もない」
「お前の忠告は、胸に刻んでおく」
「巽妃は隼暉の寵愛が深かったわけではないが、一度手がついた後にずっと放って置かれた妃というわけではない。それなりに隼暉は巽妃を臥所へ呼んでいる。隼暉は正妃を定めていなかったから、巽妃は正妃候補のひとりに目されていて、そのため後宮では他の妃から妬まれて孤立していたところもあったようだ。隼暉が死んだ後は、巽妃は隼暉から粗雑に扱われていたと侍女が主張したので巽家へ戻されたが、女官の間では寵姫のひとりに数えられていた」
「つまり?」
「巽妃にしてみれば隼暉が死んで都合が悪かったし、巽家に戻されたことを喜んでいなかった、ということだ。巽家でなにがあったのかは知らないが、いくら実家の居心地が悪いとはいえ、前王の妃が勝手に王宮に戻ってくるなど奇妙だろう?」
「確かに」
前王である隼暉を倒して半月が経過したが、王宮が一新されたわけではないことは、稜雅も身に染みて感じていた。
隼暉が死んでも、前王が遺したものは一掃されていないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます