十 獄舎-未明

 そんまつが衛士によって連れて行かれた獄舎は、たい殿でん内の北の端に建てられている。

 石造りの堅牢な建物だが、この場所に王宮が築かれた当初は要塞として使われていたと伝えられている場所だ。まだろうこくの内政が安定していない頃のことだ。

 現在は王宮を護るための高楼が別の場所に建てられているが、この古い要塞を壊すとなると出費がかさむので、他に使い道はないかと思案した結果、三代前の王の時代から内部を改装して獄舎として使用している。

 収容できる囚人は十人ていどだ。

 ほとんど利用はされていないが、懲罰を与えられた者が数日間投獄されることはある。

 ゆうじゅんが死んだ後、新王に反意を持つ者が一時的に投獄されていたが、現在は王宮の外にある監獄に移され、裁定を待っている。

 ほとんど窓がなく風が流れていないせいか、よどんだ空気と腐臭が獄舎内に漂っている。

 屈強な衛士たちはその臭いに顔をひそめ、吐き気をもよおしたほどだが、巽茉梨は虚ろな表情のまま不規則に足を動かし歩いていた。そして万が一に備え、一番奥にある扉が強固な独房に彼女は入れられた。

 前王の妃だった貴婦人だけに、衛士たちはどのような扱いをすれば良いのか決めかねていた。

 ひとまず水差しと椀を房の隅に置き、炎が点いた手燭を房の外の壁にかける。これで房の扉ののぞき窓から明かりが差し込むので、房の中が真っ暗になることはない。ただ、房内に手燭を置くと自身に火を点けようとする者もいるため、房の中には原則火を持ち込まないことになっていた。

 あとは薄い布団が畳んで置かれているだけだが、ずっと独房の中に放置されているためかびの臭いがする。虫が湧いている恐れもあるが、獄卒は囚人のために布団を干すことはしない。床に虫や鼠の死骸が落ちていても取り除くこともない。

 夜が明ければ瓦一枚分もない窓から光が差し込むが、最奥の独房の窓は西向きのためまだ暗いままだ。


「あぁ、これでようやくひとりになれました」


 衛士たちが去り、獄卒も最奥の房からは離れた監視部屋へ移動したことを足音で確認してから、巽茉梨はかすれた声でぼそりと呟いた。

 薄墨を流し込んだような暗闇の中、土や埃で床が汚れていることなど気にせず彼女は壁に向かって正座をすると、それまでの虚ろな表情から一転して恍惚の笑みを浮かべる。


によってじゅんおうが刺されたときはどうなることかと思いましたが、わたくしは無事王宮に戻って参りましたわ、ご主人様」


 かすかに壁に反響する彼女の声に答える者はいない。


「新たに王位に就いたゆうりょうは、ご主人様のことを知らないようです。この王宮に張り巡らされたご主人様の呪いをあの王に教えられる者はもうおりません。ご主人様の存在に気づいた甫妃は、隼暉王の侍従が始末しました。ご主人様のお望み通り、この王宮はまもなく游一族の霊廟に変わりますわ」


 そのときを今や遅しと待ちわびるように両手で胸を押さえ、彼女はひとり喋り続ける。


「忌ま忌ましいきんしゅうぐうの封印はさきほどわたくしが燃やしました。本来であればご主人様のぐつである隼暉王が王宮内のすべての封印を解き、ご主人様の最初の贄となるはずだったのに、やり遂げる前に甫妃に刺されて倒れ、結果として游稜雅に討たれてしまうことになるとは、口惜しく存じます」


 ふう、と彼女はため息をついたが、特に残念がる様子はない。


「まさかわたくしがご主人様の手足となって働くことになるとは、思いもよりませんでしたわ。隼暉王のお召しがあったあの夜、ご主人様にお見初めいただいたこと以上の驚きですわ。わたくしの細腕でご主人様をお助けすることなどできぬと思い、隼暉王がこの国を壊していく様をただ邪魔が入らぬよう見張り、最後は贄としてご主人様にこの身を捧げることだけを生き長らえるよすがとしておりました」


 埃と煤で汚れた彼女の髪がゆらゆらと揺れる。


「愚かなる游一族は、游稜雅を最後に血を断ちます。新王は妃を迎えましたが、あの妃に王の子を産むひまなど与えません。妃のそばにいる獣は気になりますが……あれはなにか、ご主人様に害をなす存在のように思えてなりません」


 ごとん、と椀が暗闇の中、なんらかの力がかかったようにわずかに床から浮いて落ちた。


「しかし、所詮は獣。人語を解し、ご主人様の存在に気づいたとしても、せいぜい鳴き声を上げるくらいしかできぬもの。脅威にはなりえないはずですわ」


 目を細めて椀を見つめながら彼女は語る。


「游稜雅が隼暉王の取り巻きたちのほとんどを捕らえ、一部はすでに殺害されたとのこと。この王宮でご主人様のために動けるのはわたくしひとりだけのようです。しかし、さきほどの游稜雅と妃の様子を見る限り、わたくしがおとなしいふりをしていればすぐにこの獄舎から出してくれることでしょう。まさか妹がわたくしを獄舎に入れるように進言するとは予想だにしておりませんでしたが、あの妹もわたくしがご主人様の命を受けて動いているとは気づいていないはず。少々わたくしの気が触れているくらいに思っているのでしょう」


 今度は椀が動くことはなかった。

 暗がりの中、椀を凝視しながら彼女は喋り続ける。


「いにしえにご主人様を葬り、そのむくろの上に宮殿を建ててご主人様を封じた游一族が潦国とともに滅びるのもまもなくでございます。この呪われし王宮に戻ってきた游稜雅が死ねば、護るべき存在を失った王宮はれきと化し、游一族の廟となるのですから」


 ほくそ笑んだ彼女は、ゆっくりと自分の身体を抱きしめながらそのまま静かに床に倒れ込んだ。

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