餓鬼道

 山寺の麓、荻野川を臨む辻の六地蔵に朝日が当たる。

 毎朝、山寺から下りてくる一番若い坊主は水を運ぶ。寺のかめを満杯にするため都合五度。毎朝精を出す――のであるが、修行不足の若い坊主は愚痴の一つも吐く。

 若者の愚痴とは成長の余地でもある。その日は「眠い」と言いながらも丁寧に身体を拭くものだから、こそばゆくも可愛らしくあると右から二番目の地蔵は感じた。

――名を大徳清浄地蔵だいとくしょうじょうじぞう

右手を上げ手掌を見せた与願印よがんいんを結び、左手には宝珠を持つ立ち居姿。その眼光は地の下、五百由旬ゆじゅんにある餓鬼たちの住処――即ち餓鬼道を見守る地蔵である。

 長年晒された風雨で目蓋がすり減った地蔵である。そのぎょろついた目を隠すように笠を目深に被せると寺へと戻っていくと、一抹の寂しさがこみ上げる。

 滅多に人の通らぬ場所。朝を過ぎれば人が通らないことが多く。夏には川の向こうでの野良仕事ですらあまり人は見ない。たまさか水遊びに来る子供たちがいる程度。

 ただ、全身を露わにした朝日の下の橋を渡る影があった。

 寺の僧ではない。白い着物に大股歩きで。

 寺の客でもない。額に皺を寄せた不機嫌な容貌。

 背の高い、ガタイの良い、それでいてどこか小さく見える男が橋を渡って来た。

 まだ若い男が大股のまま、一瞥もくれずに地蔵の前を過ぎていった。

 苛立ちすら見える顔に、救済の文字を頭に浮かべつつも地蔵は別のことを思った。

かつて六体の五体が満足だったのは何時のことだったか――と。

 地蔵たちが安置されたのは今よりも百年以上は前のこと。長らく風雨に晒され続け子供たちにもいたずらをされ続け、心ないものにも遭って来た。故に石の身体はヒビや欠けも目立ち、五体満足な地蔵は居ない。

 あるものは耳が欠け、あるものは顔の凹凸がすり減り、あるものは指が折り取られあるものは首がなく、あるものは衣が剥がれ、あるものは頭が削られている。

 地蔵は若い男を、獣の――不浄を喰らった匂いを発する男を見て思い出す。

 その炎を宿した目、焼かれたように苦しみ歯噛みするまるで餓鬼のような顔を見て思い出す。

 それは自分の左二つ隣、右から四番目の地蔵の首のこと。

 果たして地蔵は若い男を見送り、石の身体で吐けぬ嘆息を感じた。



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