新助

 それはまだ煤宮の門に穴が空いていない頃の話。

 中庭には所狭しと門人が並んで罵声を上げ、刀を振るい、それを避け、塀沿いには延々と走り続ける者たちが修行をしていた。

 今と違い、騒がしくも狭苦しくもあった。埃も立たぬほどの湿気が立ち、春先でも汗が引かぬほどの熱気に包まれる。


「誰か居ないのかっ!!」


 そんないつもの風景に声が響いた。

 野太く勢いのある声は庭を通り抜けて、道場の中にまで届く。更には稽古中に響く声をも打ち破り、長谷野はせのの耳へと届いた。


「何のようだ? 道場破りか?」

「違うっ!」

「違う? 何がだ? 小童。睨みつけているではないか」

五月蠅うるさい! 元からこの目だ! 良いから上の奴を呼べ!」


 長谷野が行くまでにも騒ぎは大きくなり続ける。

 応対した弟子たちにも食ってかかる勢いの野太い声の主は長谷野が門につくまでずっと言い合いを続けていた。

数十の弟子たちに囲まれてひるまず。大きな身体の弟子たちを前にして負けぬ大声で対する。長谷野の足取りは軽くなろうと言うもの。

 道場破りでもそうでなくとも興味を引かれた。


「どうした?」

「あ、師匠。この者が師匠を呼べと」

「おお! あんたが道場の主か。どうか俺を弟子にしてくれっ!」


 男はまだ前髪も落としていない子供だった。

 大男に怯まぬ勢い、大勢に負けぬ大声を出す子供は新助しんすけと名乗った。


「新助が弟子入りに来たのは、確か12,3の頃じゃ」

「父も子供の頃から――それで、山中やまなかとはその頃に?」

「うむ――まあ新助は着の身着のままと言った感じでな。勝手に家から、奉公先から出てきたとのじゃろうと。理由を付けて帰そうとしたのじゃがのう。これが言うことを聞かぬ。梃子てこでも動かぬ。じゃから一つ試してやることになった」

「試しですか」

「そう、お主らは――まあ、今となってはそのような必要ないが。昔はここで二十人からが寝泊りしておったからのう。道場を使わねば追いつかなんだ。誰彼構わず弟子にとは行かない時代であったのよ」

「それで――試し。一体どういうものですか?」

「それは無論。似たような年の子に――作太に当てた」


 入門を希望する子供の試し。普段であればそこまで注目の集まることはない。

 だが、この時ばかりは違った――相手が作太であったから。

 まだ入門して二月、それも内弟子ではなく通いの門人としての身である。それでも既に道場内の誰しもが一目を置く存在だった。

 まだ小さく、身体を作ることが優先でほとんど木剣を握ることもないというのに。試しに持たせたのは数えるほどであるというのに。

 瞭然たる才能は誰の目にも明らか。

 それが見られるとあっては道場には男たちが溢れんばかりに押し寄せるのは必然。ただでさえ暑く苦しく、獣臭くすらある煤宮の男たちが肩を寄せあい詰まる。


「お主ら、自分の修行をだな――」

「師匠無粋ですぞ! 子供同士の喧嘩。見守るのが大人の役目でしょうに」

「おい、作太舐められるんじゃねーぞ!」


 いるだけで圧のある男たちに囲まれるというのは子供には酷。

 作太を当てたのは失敗だった――そう心配したが、新助は怯むことなかった。大人たちなぞ目もくれないどころか作太を指をさし、眉を跳ね上げ、声を張った。


「なんで相手が子供なんだ!」

「お前も子供だろ」


 周囲からの揶揄する言葉にもやはり負けじと「うるせぇ!」と言い返す。


「どう戦うかを見る。勝てなくともよい。強さや戦いへの姿勢を見る試合である」

「師匠は俺が負けるって思ってんの? 村で俺に勝てる子供なんていないぜ」

「おいおい、小僧! 師匠と呼ぶにゃはえーぞ!」

「すぐそうなるんだよ!」

「そうはならない」

「ああん?! なるんだよ!」

「ならない。何かを見せるなんかさせるかっ」


 珍しくとげのある言葉を発した作太を見て、長谷野の口の端が持ち上がった。

 現在の道場で作太はもっとも年が下となる。幾ら才があっても大人を相手に勝てることなどなくて当然。それもあって作太はどこか冷めたところがあった。

 だが今回の相手は同世代。意識をするのは必然。

 ひと目わかるほどに語気は荒れ、木剣を握る手にも力を込めている。


「やれ! 作!」

「お前ならやれる!」

「いいや餓鬼に賭けるぜ俺は! 煤宮らしいじゃねぇか!」


 弟子たちの咆哮がそれを後押しする。

 煤宮の剣士たれば品格と礼儀より先んじるは罵倒。

 相手が子供だろうと、いや相手が若いからこそ囃し立てねばならない。

 道場を沸き立たせる賭場のような活気が最高潮に達すると長谷野は号令をかけた。


「はじめ!」


 作太の天稟てんぴんは目と頭にあると長谷野は考える。

 木剣を持たせたといっても受けの練習を少しだけで、構えも技も教えてはいない。

だが作太の構えは十全である。

 右手、片手持ちの斜構え。いつでも逃げられるように後ろに重心を持ち、いつでも左手は追えるように少し上げ。

 既に構えの意図を完璧に理解している。

 最初からそうだった。煤宮の奇異ともいえる戦い方を最初から理解していた。

 横目で見ていただけ、長谷野の声や師範代の怒号も耳に入ったかもしれない。だがそれでも煤宮の必然に辿り着くには早すぎる。理解できないままで道場を去るものもいるというに。教わることもなく口働きから構えの理に到達していた。


「どうした? このまま何も見せないつもりか?」

「お前こそ、あんだけ言って待ってるだけか?」


 ただまだ口働きはつたなかった。機も悪く、相手の気にも障れない。

 新助が何かを見せなければならない試しであるということに救われた。


「へっ、腰抜けが。行くぜ! うらぁぁっ!」


 新助は村の力自慢であろうと長谷野は見ていた。

 精悍で自信ある顔つきは、ただの村の子ではない。何か裏付けが必要。ここに弟子にくるのだから金はない。行き成り弟子を要求するならばそれは腕だろう。

 その腕とは力任せな――剣術とほど遠いただの力自慢から来るものと見ていた。

 だが新助の振りは鋭かった。

 鍛錬の跡が見て取れる。自信になりうる。形になっていた。

 自分で考えて修行をしたのであろう。振るごとに問題点を洗い出して改善をしたのであろうと。努力の跡すら見える。同世代に負けないという自負を持つに相応しい。

――が相手が悪かった。

 いつもより前掛かりになっているにしても作太の目にはそれは通じない。

 後から動いたはずの作太は木剣を合わせ、かちあった木剣の背に左手を追わせる。


「え、なんだ――と」

「くっ、お前――?」


 新助の木剣は飛ばされ床を転がり、作太の足は上から踏まれて床を軋ませていた。

 二人の顔が同時に歪み、長谷野の顔はこれ以上ないほど笑みとなった。

 新助は最初から剣術での勝負には勝てぬと思っていたのだろう。自分の領域で勝負をするつもりだったのだ。逃がさぬために足を取った。

 対して作太は力で勝ちに行った。自分より細い相手に木剣を飛ばされるという屈辱を与えに行ったのだろう。

 長谷野の顔は明るい。煤宮の未来を照らす二条の光を見たからだ。


「舐めるなぁぁっ!」

「負けるか!」

「待て待て待て。もう良かろう」

「子供の喧嘩ではないのだぞ!」

「師匠笑っていないで止めて下され!」


 二人は床を転げながらもみ合っていた。拳を膝を時には額をぶつけて。実に不様で実に煤宮らしく実に泥臭く実に――


「素晴らしい!」

「いや、師匠。頼みます」

「弟子入りだ! 弟子入りを認めるぞ」


 二人の首根っこを掴み持ち上げる。それでも取っ組み合いを止めない二人の間に顔を挟んで長谷野は叫んだ。


「新助はその日からすぐにここで暮らすことになった。もっとも最初は外で寝かせておったがのう」


 新之丞はピクリとも動かず長谷野の言葉を聞いていた。

 長谷野の話が止まったのを確認して、声に出したのはやはりこの名前。


「――山中やまなかは納得したのですか?」

「無論じゃ。単なる刀の腕比べではないからの、より煤宮的だったのはどちらか? 言うまでもない。作太も分かっておったよ」

「そうですか」

「儂には細かいことは分からぬが、二人の仲は良かったと思う」

「良かった――?」

「良く話す間柄ではないがのう。意識はしあってはおった。大きくなって同世代たちが入って来ても常に視界の端に捉えているような。だがけして憎しみではなかった。互いの研鑽を見ては、負けじと努力する。力を認め合っておったしのう」


 目を瞑し、思い出せるだけの景色を浮かべても二人は常に比べていた。

 中庭の端っこで声を出している時から、どちらがより大きな声を出せるか。

 真ん中で鍋を囲って要る時も、どちらがより多く平らげられるか。

 周りを走っている時だって、どちらがより早く、長く走っていられるか。

 山に入れば、どっちの獲物が大きく、美味いかどうか。

 互いに声を掛けずとも、目を合わせずとも、意識をして負けた方が頬を膨らまして更なる研鑽へと至る力へとなっていた。

 それは良い関係であると長谷野は信じていた。いや信じようとしていた。かつての煤宮の良き時代の微笑ましい思い出であると信じたかった。


「ですが、何かあったのでは――何か、恨むような何かが」

「分からぬよ。あの二人にそこまでの間になろうとは」

「そんな――では突然、狐に憑かれたとでも、それを信じろというのですか」

「そうさな。確かにそう言ったのは嘘だ」

「――嘘?」

「そう。仇討ちなぞという利のない行為に刻を取られて欲しくはなかったからのう」

「私には意味がある!」


――仇を討った後にその様を晒しておいてか?


 こうなるのではという危惧が完璧に当たった姿の新之丞に、長谷野は掛ける言葉が見つからなかった。


「儂には分からぬ。分からぬのだ」

「それは何故――!」

「何故――か。あの日の二人の姿があったからかも知れぬな」


 二人の気鋭の弟子の成長は著しく、もはや生半な稽古では修行にならない。二人が二十を超えた年に成り身体が出来上がってからは長谷野は余所に出かけることが多くなっていた。

 自分の、二人の修行のため、新しい技を覚えなければならないと判断したからだ。

 大抵はどちらか一方と一緒に出かける。さすれば残されていた片方は更なる研鑽を望むから。

 ただその時は長谷野は一人で出稽古に行った。


「師匠、稽古を!」

「では私が相手を努めましょうぞ」

「俺だ! 俺がやる。大体作太。お前はこの間出稽古に行ったであろうが」

「お前とてその前に行ったろう。しかも江戸に」


 我先にと身体をぶつけながら前に出る姿はいまだ子供のよう。


「ええい、やめよ」

「止めませぬ!」

「嫌です」

「そんなところばかり息が合いよって。よかろう双方と手を合わせる。まずは――」


 二人は手を上げ襲い掛かるようにして「はい、はい!」と声を上げた。

 苦笑いしながら少し考えた長谷野が指名したのは新助。


「よっしゃぁぁぁ!」

「なっ、師匠――」

「順番だ順番! 下がれ作太。さあさ師匠!」


 煤宮にて”稽古をつける”といえばそれは当然”受け”となる。

 逃げることを美徳に捉えるほどの剣術である。まずは受け、さらに受け、どこまで言っても受けを行うが常の修行。

 多種多様な技を受け切る多彩な防御術こそ煤宮としての力になる。

 故に長谷野は出稽古にて新しい技を覚えてくるのである。

 長谷野が扱える得物は刀だけに留まらない。

 槍、長刀、弓、鎌、手裏剣から柔に至るまでありとあらゆる武術を修得してきた。

 今日この時、選んだのは刀。

 二人を順に相手するのであれば同じ得物が都合よく。後腐れを残さぬように見せた技を使わないほうが良い。と考えた。もっとも幅広く戦えるのはやはり刀である。


「今日は二桁受けますぞ」


 対峙する弟子は片手持ちの斜の構え。

 新助は力が強い。食働きの効果がもっとも顕著に出た例だろう。腕の太さは長谷野に勝るとも劣らず、膂力は煤宮随一。構えも力を全面に押し出した圧を持っていた。

 ならば圧で負けるのは頂けない。

 この立ち合いで選んだ構えは――上段。

 もっとも前掛かりな構えであった。


「新助――死ぬなよ?」


 木剣とも言えど、上段からの全力の打ち下ろしをまともに喰らえば死。少なくとも長谷野はそのつもりで息を吐いて丹田に力を込め、圧を発した。

 だが、新助もさらに前ににじる。

 この狭い道場で、周りを弟子たちに囲まれた圏内ではどこにも逃げ場はない。

 ならば圧に屈して下がれば受けそこなう。

 長谷野の本気を前にして、今までの新助ならば取る行動は二択。無理と分かっても逃げるか、ヤケと知っていて突っ込むか。

 だが今回は違った。冷静に生き残る術を探った結果に見えた。

 果たして弟子が成長を見せようという心意気に、長谷野の腕が本気の興りを選ぶ。


「おおおおおぉっ!」


 軋み、反らせた木剣を振り下ろし受け手ごと破壊するつもりの一撃。弟子への信頼の証の振り下ろしへの返答は力でなく技だった。

 振り下ろしの木剣へ、横からの一撃。ずらされた木剣は空を切り床を穿った。

 だがそれは想定内、弟子の成長曲線への期待はまだ一段上にある。

 もう一つ答えを聞くために長谷野は前へと出た。

 片手打ちの弱点、両の手の間という超接近戦への解答を。


「ここに入られては行けないと教えなかったかな?」

「くっ!」


 この間合いでは刃で人を斬れはしない。打刀の長さでは刺すのも困難。そこで使うのが柄頭での打突やぶちかまし――なのだが、これは片手では威力が出しづらい。

 長谷野は低く、低く入って肩で右手を押し上げるように外してしまう。がら空きの新助の腹へ、木剣を握ったままの両拳をめり込ませた。

 分厚く鍛え上げられた腹の感触に、思わず口の端が持ち上がってしまう。

 いやに軽い、まるで羽を打ったかのように軽く触っただけの感触だった。


「ふはっ」


 軽やかに背後へと飛んで衝撃を逃がして見せた弟子の成長に口から声が出た。


「だがっ!」


 前に出る速度、飛んで逃げる速度。

 果たしてどちらが早いか。果たしてどちらの体勢が十分か。

 詰将棋であった。

 飛んで逃げた新助を追い掛けるように突き。身を捩って躱せば体勢は崩れ、次いでの薙ぎにはもう伏せる他ない。そして返しの下段で――


――とった


 確信の下段払いは空を斬った。

 視界から新助が消える。

 左、右と目を動かしても姿は映らない。


「上っ!」


 周りの声が導いた先、中空に新助があった。

 鴨居に引っ掛けた左手の指四本で身体を支えている。


「はっはっは! やるおるっ!」

「終わりですかな師匠!」

「いやはや、ここまでとはな。弟子の成長とはかくも早いものか。見違えたぞ」

「もっと見せますぞ。師匠は老いる。私はまだまだ強くなる! 誰よりも――」

「はっ、それ以上は残り半分を受けてから吠えるが良い」

「そうさせて頂こう! さあ来いっ!」


 調子乗り。それは新助の悪癖。”来い”と吠えた場所は壁際である。それを見逃す長谷野ではない。それを見過ごすは相手が弟子でも礼を欠く。

 右手側からの逆袈裟の構えを見せれば、反対側に逃げようとする。

 もはや新助の動きは長谷野の理の中。

 逃げ道を封じるように大きく左に踏み込めば、もはや逃げる場所はない。

 受けを強いた。

 逆袈裟に新助は左手を沿えて受けるも、それも掌中。

 元より決める攻撃ではない。今の新助の予想の付かない行動を制御するための一撃である。両足を踏ん張り、腰を入れて、当たった木剣を持ち上げた。


「うおおおっ?!」


 新助の身体を壁に押し付けるようにして浮かび上がらせる。浮いて逃げ場をなくしてから右足での蹴りを腹に見舞った。

 無論、蹴りでは不十分。死に至らしめることは出来ないからだ。

 であるからそのまま蹴り足を離さず、地に引き倒しながら馬乗りになった。木剣を振るうもまだ新助は受けて見せた。


「まだまだぁ!」


 上下になった鍔ぜり合い。結果は火を見るより明らかでも、気勢を上げる。弟子の気概に応えるように。木剣から右手を離して拳を顔に叩きつけた。


「見事であった。惜しかったな九手だ」

「ぐっ、くそうっ! くそくそっ! くっそぉぉ!」


 極軽くとはいえ拳が顔に当たったというのに、元気よく大の字で悔しがる。


「それだけ悔しがれれば十分。次は十手受けてみせい」

「無論!」

「よし! 作太。前に出い!」


 が、作太は他の弟子の後ろに隠れたまま動こうとはしなかった。


「どうした?」

「いえ師匠。お疲れでは? 息が弾んでおりますが」

「ふっ、抜かせ。温まったところよ」

「後で疲れてたから――と思われても溜まりませぬ。この通り新助もそれを危惧してどきませぬ故」

「儂の心配をするとはな。はっはっは、のけい新助――構えよ作太」


 笑って見せたのは口だけだった。

 笑えぬ冗談にいつもより低い声で脅すような口調になって、初めてこれは口働きと気付いた。


「はっはっは! なるほど、儂に仕掛けおるか」

「口を使っては行けないとはただの一度も聞いてはおりませんでしたので」

「確かにそうは言っておらんかったな」

「――剣でも?」

「はっ、攻撃は隙を生む。忘れたわけではなかろう? 受けの数を競う稽古で自ら隙を産もうというのか?」

「必殺であれば?」

「末代まで抜かれぬであろうな」


 と言うと作太は薄ら笑みを浮かべて木剣を構えて見せた。

 作太は新助に比べれば身体の出来は悪い。競うように肉を喰らっていながら、腕は大して太くならなかった。身の丈が伸びた分だけ、少し細身にすら映る。

 だがそれでも煤宮で一、二を争う腕前なのは間違いない。

 膂力と口上と体力が物を言う煤宮にあって、それらを補ってあまりある技量。構え一つとってもそれは見てとれた。

 同じ片手持ち、同じ斜の構えでありながら決定的に違う。

 力感がなく、余裕がある身体の捌き。どこを見ているか分からないようで、どこでも見ているような目。

 寺の生まれだからというのもあるだろうが、どことなく菩薩を思わせた。

 艶のある構えに、手にした木剣にも抜き身の輝きすら感じる。

 いや、気のせいではなかった。

 揺蕩う剣先から発するは――殺気。

 確かに受けの稽古に手出しは禁止しては居ない。もっとも攻撃すれば隙を生じる。受けた手数が物言う稽古で、わざわざ手出しをしようという者は居なかった。

 が、来る。長谷野は確信した。

 確信したが故に真剣となった。

 弟子たちもその空気を察したのか静まる道場には、二人の吐息だけが響く。

 丹田に気をため、足指に熱を送る。足指を使ってじりとにじり寄った。

 真剣さながらの緊張感に、喉が張り付くように乾く。

 道場の中心を軸に二人はゆっくりと円周を描く。

 張り詰める緊張に、最初に音を上げたのは外周の弟子。呼吸を忘れるほどであったのであろう大きく強く、どこか間抜けな吐息が漏れる。

 作太の目が菩薩のそれから戻り、長谷野の視線とついに絡んだ。


「っっぇぇい!」


 初手は突き。長谷野の中でもっとも早い攻撃で、もっとも殺意の高い一撃。

 未だかつて見せたことのない真剣に殺す気の突き。

 長谷野の最速の一撃が――ずれた。

 ずれたように見えた。作太はほとんど動かず、最小の動きで顔の横を通された。

 驚きは一瞬。更なる驚きで上書きされる。


「攻撃は隙を生む」


 作太の右手が上がっていた。

 構えで宣言した通りの反撃――それも完全な機。

 最速の突き、全力であったからこその隙。木剣で受けるには間に合わず、足を使うには遅すぎる。


「ちいっ!」


 ただ一つ甘かったのは右手一本での横薙ぎだったということ。それに大して作太の腕の太さが足りなかった。

 木剣を持っては間に合わなくても、手を外せば話は別。左手を木剣から外し、肩を捩じって上から手の甲で持って叩き落とした。

 作太の右手と、長谷野の左手は不十分な体勢であっても押し負ける差ではない。

 作太の木剣は床を突く。

 そして二人の距離は至近距離であれば、長谷野は作太の両手の間に入る。


「隙が生まれたのう」


 既に長谷野はぶちかましの構え。

 後ろに飛べば新助と同じ詰み。だが新助と同じ逃げ方は作太には無理。

 故に必勝――だが、相手が作太であれば長谷野は緩めない。新助相手と違う柄頭を叩き込む、より強くより早いぶちかましを選んだ。


「なんだとっ?」


 作太が駆け上がって行った。

 ぶちかましの肘に足を乗せ、肩を踏ん付け天を舞う。

 一瞬でも遅ければ無防備にぶちかましを喰らうし、早ければ飛びあがる力を生まず頭から地に転げただろう。

 だが地を転げたのは長谷野の方。

 地など久しく這っていなかったが、心は天にも上る気持ちだった。


「だがっ」


 中空からの斬撃は幾ら作太でも精彩は欠く。伏せれば届く道理もなく。飛びあがり過ぎて体は崩し、不様な落下を見せる。

 起き上がり様の無情な蹴りで壁に打ち付ければもはや為す術はなかった。


「――参りました」

「うむ、受けも回った分も合わせて四手としようか」

「あー負けた。四手か」


 そういうとさっきまでとはうって変わって惚けた顔で大の字に倒れ込んだ。


「だがようやった。儂が地を這うなぞ何年振りか。最後はいつか覚えてもおらんぞ」

「そうだ。むしろ俺の負けだ」

「何を新助――お前は九手だろうよ。こっちは四手だぞ。半分以下だ。幾らお前でもこの数を間違えるわけなかろう」

「当たり前だ! だが俺の負けだ」

「いや、私の負けだ」

「いや、違う。俺だ!」

「私だ!」


 いつまでも互いの負けを譲らない姿に道場はいつしか笑いで溢れた。


「が、それが最後じゃった」

「最後――ですか?」

「そう、最後。二十になった年だったかな。作太は剣を置いた」

「置いたとは剣術を辞めたということで?」

「うむ、すぐ翌朝。挨拶してな。出て行った。それからは会ってすらいない」

「何故? 何故なのです? まだ父を、母を斬るまでには大分間が――」

「あるのう。だが事実会っておらん。元より寺の子。いずれ僧になる定めだっただと儂も納得していた――のだがな」

「そんな――一体。じゃあどこであんな恨みを――」

「分からぬ」

「父が道場を任された時は?」

「大分後のことじゃ。作太が居たら変わったと言われればそうじゃろうがの。だが、決まったのは翌年で道場の完成が二年じゃ。それで恨むであろうか」

「じゃあ一体、二人の間に何か――心当たりは師匠!」

「分からん。儂には分からん」


 長谷野はまた嘘を付いた。

 二人の間にあったことそれ自体は長谷野は知らない。知りたくもない。

 作太が恨んだ理由も知らない。

 だがそれは作太”が”なら知らないというだけ。

 作太が居なくなってからの荒れ様と、口汚く罵る新助を長谷野は知っている。その怨念ともいうべき執着は異様と言う他なかった。


「どうすれば――じゃあどうすれば一体――」


 苦しむ弟子にこれ以上苦しむことを言うことはない――と嘘をついた。

 思い出が美しく会って欲しいという願いが口を開くのを許さなかっただけなのに。

 どの道、この後のことを知らぬからと他者に任せてしまった。

 

「どうしても知りたくば、この後の作太の足取りを追うしかあるまい」

「この後――」

「そう山寺じゃ」


 何かを決意するように唇を噛む新之丞が去るまで何も言えず。

 自らの老いが心根にまで届いたことに嗚咽した。

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