夜明け
真夏のじっとりとした空気の中、
背に張り付くような気持ち悪い感触のゴザから身体を起こす。あけ放たれたままの戸の向こうは薄く赤い光が上ってきている。
「朝――か」
早朝とは思えぬ気温であるというのに冷えて硬い身体を引きずり起き上がった。
還暦を過ぎてもまだ現役、まだ現役と思ってだましだましやって来た長谷野の身体はついに老いに追いつかれた。
年々細っていく腕と筋が痩せ行く足。寂しさと惨めさが浮かぶ。
身体も年々重く感じるようになった。もはや飛んで跳ねて刀を振るうのも自由にはならない。
とはいえここ最近とみに身体が重くなった半分は新之丞のせいだ。もとい新之丞の無事を祈願していたせいである。
つい三日前まで夜中と明け方に川に入って
熱に浮かされていたのは一日とはいえ、本調子にはまだ遠く――
「よっ」
と、土間に降りるだけで試し斬り並みの気合いを要した。
土間には壁際に四つ、中央に二つ、都合六つの
その内の一つ、もっとも遠い勝手口側の黒緑の
開けば中から甘い匂いが土間を包む。
弟子から下品とも言われた飲み方であるが、どうしても止められない。一度、盃に移して飲むなどまどろっこしく感じる。
「少し、酸っぱいか? 早く飲み切らねばのう」
もう一杯飲み、更にもう一杯。甘酒を飲むごとに気力が充実していくのが分かる。目が覚めた身体に力が戻った。
その後、長谷野は部屋に戻り褌一丁の格好の上から白い
誰も居ない道場の中央に正座し、目を閉じ手を合わせた。
「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」
長谷野家は代々利を重んじている。
食事と言えば大鍋で全員分を一度に作り、柄杓から直接甘酒を飲む。
洗う物を減らせば手間が減る。
手間が減ればそれは刻が空く。
刻が空けばその分利を取りに行けるというわけだ。
一対一を想定した剣法が戦場にて果たして役に立つのか? そんな疑問の元、種々の武芸を習って来た。先代も先々代もそのまた前もその前もだ。
ゆえに煤宮を初めて見たその瞬間に虜となったのも、長谷野大膳には理解できた。
今の世では卑怯と
だが太平の世の邪道は戦場の正道である。
武士とは戦のためにいるのが理。
長谷野の利は煤宮を選び、この
「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」
上る朝日に道場は熱され、身体に浸透した甘酒が汗となって出ていく。
手を合わせては弟子の無事を祈り続ける。
「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」
この真言は
長谷野家は浄土真宗の門徒だからである。
真宗を選んだのはかつての所領の領民が『南無阿弥陀仏』と唱えていたから。熱心な信者というわけではない。利によって神仏を選んだのだ。
故に道場には仏像、神棚の類は置いていない。祈る場所のない長谷野は顎を上げ、朝焼けの空を目掛け真言を唱え続けた。
「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」
これは
当然長谷野の利は
「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」
助太刀――仇討ちへの同行も考えたが叶うことはなかった
老いた身では一時の戦いは出来ても、旅には付いていけるか分からない。
新之丞の助けになれることと言えば修行をつけること。
賊に負けぬように鍛え、仇を討てる技を身に付けさせ、武具と薬を与えること――そして今となっては祈願だけ。
「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」
この日ノ本にてもっとも武家に信奉されている神と言えば
かの
その武の神と言える
神であり仏でもある。二つの名、二つの姿。これは
かつて仏は
信仰とは
神、超越者、人の上位存在、絶対正義の言葉を借りることで、それを信仰する民に法を守らせやすくなる。
故に朝廷は神を定義し、社を作り、神に信託された証として
古今、洋の東西を問わず、統治とはそうして行われたと書物から読み解ける。
そして神とは統治者の都合で変わりゆくもの。
この日ノ本であれば朝廷。その権力争いでも信仰は変わり、神の立場も変わる。
仏教という別の信仰で広まり、今度は神が追い詰められた。
これにいち早く対処したのが
その宇佐八幡が託宣を受けた。
『大仏の
古い神の由緒正しい社によって仏の正統性を主張してくれた。円滑に信仰の変化を民に受け入れさせることが出来るとあって時の朝廷の喜びは見ずとも分かる。
そして朝廷より仏教守護の神――八幡大菩薩の名を得たのだ。
さらに時が経ち、仏教の優勢は確たるものになる。今度は仏が神を取り込むことになった。それを
神とは仏が
本来の姿――
そして八幡神の
「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」
もっとも、この過程に長谷野は興味を持っていない。
ただ八幡神の本地仏が阿弥陀如来であるということに利を見出した。
阿弥陀如来は
八幡神は『弓矢八幡』と呼ばれ数多の武家から敬意を払われる武神。
この二柱に同時に祈願を出来るという利にしか興味はない。
「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」
勿論これが身勝手だと長谷野自身も思っていた。
二柱の神仏に同時に効率よく祈ろうと言う身勝手さ。
さらに弟子の仇もまた自分の元弟子であるという自らの業の深さ。
果たしてこれで神仏に祈りが届くのか。
ただそれでも祈らざるを得ない。
だからこそ懸命に祈った。身体を壊しても、具合が悪くとも、暑気に当てられても祈り続けた。一心不乱に。
果たして神仏にその祈りが届いたのか。
少し間の抜けた昨年入った弟子の声が耳に入った。
「師匠ー新兄がぁ」
長谷野はどこかへ、知らぬ天へと向けて深く頭を下げて立ち上がった。中庭へ至る戸を、いつもよりも力を込めて開く。
朝日というには少し高い、昼前の陽光の下に居たのは弟子たちだった。
伝助と利吉に支えられた新之丞の姿があった。
鼻をついたすえた匂いに顔を歪める。
だが、新之丞は動いていた。怒気を孕んだ目は相変わらずだがまだ息はある。
とはいえまだ息はあるというだけ。
鮮やかな深い緑の着物は血に塗れて
精悍で生気溢れていた肌は、血の気の引いた土気色に。
一人で立つことは出来ず、両側から伝助と利吉に支えられていた。
やる気のない弟子の声に安堵した自分に怒りが沸き、怒りが声を荒らげさせる。
長谷野は声を張り上げもう一人の弟子の名を呼んだ。
「松原ぁぁ!」
「今、暫くっ!」
がちゃがちゃと音立てて、薬箱を持って松原が飛んで来る。
もっとも長谷野は怒りを松原にぶつけたわけではない。
この場にもっとも相応しい男を出来るだけ速やかに呼ぶために声を張り上げた。
「伝助。利吉。新之丞をこっちに。師匠縁側を汚します」
「うむ」
長谷野は剣術道場の主であり、生傷の耐えぬ環境に長く居た。
挙句金のないものだから、当然のように医術の心得はある。
特に
松原は蘭学を学んでいたようで、特に医術に関しては玄人はだし。宿場の町医者に手伝いに行った際には、本職になれと言われるほどの腕前。
故に松原に任せて静かに心中で祈った。
「新之丞大丈夫か?」
「は――い、少々――深く――」
「任せておれ、このくらいの怪我すぐに――うっ」
乾いた血が固まってにかわのようになった着物を切って脱がすと皆絶句した。
伝助利吉は言うに及ばず、長谷野も息を飲む。それほどの傷だった。
切り傷や打ち身は数えきれず、むしろ無事な部分を探すほうが早い。恐らく長谷野が治療をするなら死を覚悟するほどに酷い状態。
だが横目に見た松原の顔は真剣な眼差しだが悲壮感はない。怪我が深刻ではなく、治療出来るという安堵と自信が現れていた。
「どうだ?」
「見た目ほどは酷くないです。血は派手に見えますが、恐らく返り血もかなりの量を浴びたのでしょう。まー骨もやられてますが。指と違って元に戻るかと」
「そうか、それなら」
「ただ――」
と言って右手を持ち上げる。
脇には膏薬が塗られ――いや埋められていた。穴が空いているのだろう。傷がまだ塞がっていないほどの深い穴。どろりと血が流れると新之丞が呻く。
「うっ」
「深いな。少し我慢しろよ。伝助」
「うっす」
呼ばれた伝助が薬箱から取り出した瓶の液体で傷を洗う。
その間に懐から巻いた白い布を取り出す。縁側に転がし広げれば中には医療の道具が入っていた。
針と糸を用意して、利吉に腕を抑えさせると傷口に針を刺す。
「よーし動くんじゃないぞ」
「はい」
皮を突き刺すごとにぴくりと新之丞の眉が跳ね、口の端に力が籠る。
見てる長谷野も右脇がこそばゆい。
「うえ、痛くねぇのか?」
「――痛い、さ」
「ほー痛いか。なら安心だな」
「はい」
「なら大丈夫だ。よし、頑張った。後の傷は洗って木綿を巻けばいいだろう。伝助、利吉で部屋に運んでやれ」
「はいっ!」
新之丞を運んでいくのを見届けて松原の顔はようやくいつものように綻んだ。
「いやー無事帰ってきましたね」
「うむ。良かった。本当に良かった」
「では師匠。私は食事の用意をして参ります。今日は腕によりを掛けますよ。味噌も野菜も肉も一杯使いますからね」
「ああ、好きに使え。足りなければ買って来るがよかろう」
「はい、それでは早速!」
言うが早いか薬箱を置いたまま走り去った。
長谷野は一人、取り残された。
じっとりとした風が吹く中、混じる血の匂いに気付く。
鼻が匂いを掴み、目がそれを捉えると、心臓が大きく打ったのが聞こえた。
新之丞が戻ったことは実に喜んでいる。安堵もしているし、肩が軽くもなる。胃に重くのしかかっていたものが取れた気分だ。
が、同時に胸に去来する別の思いもあった。
いやずっと抱えていた思いだったのかもしれない。
ぽっかりと空いた胸の穴を今一度思い起こさせた。
「――作太」
新之丞を引きずった跡。その終点には無造作に転がされた麻袋が一つ。中には西瓜程度の大きさの物が包まれている。
眉を
「作太」
凶行に及んだことを憤ればよいのか。
止められなかったことを悔めばよいのか。
才気を失ったことを悲しめばよいのか。
風はまだ重く粘る湿気を孕んだ夏の盛りだと言うのに。
長谷野は震える肩を抱いて膝を付いた。
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