看板娘
昼日中、
看板娘は一人店を切り盛り、ところ狭しと店を駆け回る。席に案内し、茶を持ち、時に話をして。汗を飛ばして働いていた。
「まったく、取って食わぬというのに」
「え、食べないんですか?」
「食べぬわっ、
「ひぃ、お、お代ここに置いてくよ!」
最後の客も宥仁が顔を向けるだけで逃げるように走り去っていった。
幾ら狭い店内に二人きり。幾ら狭くとも
「そんなに怖い顔しているか? うーむ」
「顔というより――今のは馴染みの方でしたから」
「馴染みなら、猶更であろう。初対面でないなら恐れる謂れもないはず」
「でも和尚様を良くご存知ということですよ!」
この手の商売をしていればしつこい客というのはいるもの。宥仁はその手合い――迷惑客とでも言うべき輩から娘を守ったことがある。
お代を受け渡しで手が触れることは当たり前、だがその客は手を握った。
にっこり笑って「他のお客様がおまちですので」と振りほどこうとするも、力の差は歴然。振り払えない娘に、へらへら笑う客。柄の悪い、腰に一本刀を差した浪人に周りの客も口を挟めないでいた。
恐怖で涙が出そうな娘、かさに懸かかる男が嫌に大きく見えた――実際に大きく、いや高く持ち上げられていた。
宥仁に赤子のように持ち上げられた男は、ついには娘の手を離す。
そして思い切り外へとすっ飛んでいって、腰から落ちた。
その時の憤怒の形相と馬鹿げた大きな体躯は恐怖を感じるに十分。助けられた娘がそうなのだから、あわよくば娘に近づきたい男たちの恐怖のほどは計り知れない。
なので宥仁が来れば男たちは緊張で茶も喉を通らず、用事を思い出したりしては店を出ていく。宥仁もそれを気にしているのか、来店はいつも夕暮れである。
「ふむ、まあそれはいい。ところで先日の侍であるが――」
「昨日も聞かれましたが――連絡は未だ付かないので?」
「その調子ではこっちにも来ておらぬか」
珍しく気落ちした様子の宥仁。普段の豪快な笑いはどこへやら。苦虫を噛み潰したようとはこのこと。
あの後、あの侍と宥仁の間に何があったのか。と娘は気にはなったがわざわざ別の場所で話をしたのだから聞くのも
「いらっしゃったら、
「うむ、頼む」
じっと地面を見つめたまま頭が上下した。
重苦しい空気の中、宥仁は茶を一息に
「さて――馳走になったな」
数えることもなく銭を取り出す。宥仁の大きすぎる手が掴んだ銭は明らかに多い。しかも受け取った銭には銀の輝きも混じっていた。
「え、これ――銀まで」
「何、愚禿が来れば客も帰りおるからな。少しは穴を埋めておかねばならん。ま、娘の茶の値には少し足らぬかも知れぬがな」
「もう、気を使うなんて柄にもない」
「柄にもないか?」
「ええ、まったく」
「そうか、柄にもないか。ガッハッハ」
大きく肩を揺らした笑い。いつもよりはやはり勢いが足りなく「また来る」と出て行った後ろ姿もどこか小さく見えた。
どこか寂しさも想起させる姿、娘の気分すらも落ちる。
そんな陰鬱な気分は入れ替わるようにして入って来た客が吹き飛ばした。
「頼もーう」
水茶屋に似つかわしくない大仰な挨拶、大仰な挨拶の割には可愛らしい声。入って来た客は声に似合った可憐な姿。汗が光る笑顔の眩しい女性だった。
「いらっしゃいまし。どうぞお好きな席へどうぞ。今お茶をお持ちします」
この店の女の客は珍しい。
この店が看板娘目当ての男ばかりと近くに住む女衆は寄り付くことはない。講の客も結局は先導師という大山の人間が案内するので同じ。地元の女ではなく、大山講の参加者でもない女が、店が空いている時に来た時しか女の客は来ない。
「ん? ああ、ありがとう」
「あ、お待たせしました。ここに置きますね」
「いやー暑い。ほんと梅雨開けたと思ったらすぐこれだもん。いやになるよねぇ」
旅には似つかわしくない柄の入った桜色の着物だった。
外した笠の下の髪型が娘の目を奪う。
大きな布で
緑の着物に、手にした笠の枝のような色。さしずめ頭に咲くは桜の
「ん、女が来るのは珍しい?」
同じくらいの身の丈で、少し年上、二十くらいだろう。しゃなりとした艶やかさでなくきびきびとした出来る女の所作は娘のなりたい姿に重なった。
であるからぼうと見つめるのもやむなし。
「貴方みたいな看板娘がいるんだもんね。男衆が放っておかないわ。やっぱここでもあれ? 茶一杯に何文も何文も見せびらかせるように張り込んで男気とかいっちゃう輩が集まる感じ?」
「は、はは、まあ」
「あんなんで俺の女感だされてもねぇ」
「お客様ですから」
「あらお行儀いい子ね。やっぱお客の前で――って客いないじゃん? あ、ごめーんもう締めてた? 無理に入ってきて悪いね」
「いえ、その。今日は特別というか。それに仰る通り女性のお客様は珍しいので――むしろゆっくりしていって下さい!」
「ふふ、ありがと。じゃあもう一杯頂戴。折角だから一緒に飲みましょ」
やはり大人の女性の余裕を持っている。
「その格好――旅でございますか? その割には筥迫しかないようですが」
胸元から半分覗く深い夏山の緑を思わせる
出かける時に小物を入れておくものであるが、旅には心もとない大きさ。
見たところ他に荷物はない。
近場なら娘が知らぬわけもないし、ここのことを知らぬわけもない。
日帰りにしてはもう遅い。伊勢参りにしては荷物が少なすぎる。
――なればどこから? という娘の疑問を理解した女性は身の上を話始めた。
「ああ、昨日まで江戸にね。お屋敷勤めの年季が明けて実家――
「なるほど。お屋敷――武家屋敷ですか! いいなぁ。格好いい。女中さんですか? それで
「まあ――うん」
今までのキレがなくなり歯切れ悪く、目線は湯呑の
「そんないいもんじゃないよ? いやむしろ悪い!」
「わる――?!」
「だって、もうちょっと聞いて? もうその武家の――息子がぼんくらで」
「ぼんくら――武家のご子息なのですよね?」
「ああ、ごめん口が悪かったわね。その”馬鹿”息子がね」
もっと悪い。と突っ込みたいところだったが女性の口は止まらない。相当溜まっていたのだろう
「まあ? 旦那様も奥様も皆いい人――いやちょっとケチだったけど。このご時勢、ケチくらいで丁度いいんだけどさ。それに筥迫も着物も頂いておいてケチも悪いか。まあ気前がいいんだけどさ。クズ息子がね。下品で下衆で下卑た奴なのよ。こっちは
「――触ってんねん?」
「とんねんだったかな? なんか
「た、大変なんですね。屋敷勤めも」
「そらそうよ。あ、まだ抜けないなぁ。それで馬鹿息子を蹴っ飛ばしたってわけ」
「えっ、無事――ですけど。何もなかったんですか?」
「頭を擦りつけて詫びるか、出てけと。勿論喜んででて来たってわけ。いやま、多分勤めを紹介してくれた伝手みたいな? なんかウチの家業をどうこう脅してたけど」
「けど?」
「伝えたら父上は腹抱えて転げてた。母上もそんなことで潰れないって余裕だったし大丈夫なんじゃない?」
「ええっ本当――でございますか?」
「まあこれだけ良いお土産貰ってるしね。怒ってるのは阿呆一人だけでしょ」
「な、なるほど」
豪気とはこういうことを言うのだろう。
見た目は可憐で、華奢な身体で、けして大きくない体躯だというのに。どこか宥仁と被る豪快さがある。
「それで実家に昨日戻って――んー人が居なくてね」
「誰も? あれでもお父様は先刻いると」
「あーそう、そうなんだけど。そろそろ戻ってないなかな? って奴が居なくてさ。ちょっと探しに出たってわけ」
それにしても手持ちがなさすぎるし、荻野からここまではちょっとには遠い。
なら何か。娘は考え思いついたのは――
「
「と、殿って――んー男ではある。けど殿ってほど丁寧に言うような奴じゃないよ」
「でも殿方なのですね」
「ん、まあ?」
「どのような?」
「どのようなって」
「こちらにお見えかも知れませんよ」
「んーこういうところには来ない――と思うけど」
「分かりませんよ!」
「まあ、そうね」
「でしょでしょ。ささ、どのようなお方なのです?」
「んー何年も会ってなかったからなぁ。あー結構おっきいかも。剣術やってるしね。身体もこう腕とか、貴方の顔くらいあるんじゃない?」
「そんなに――?! それはまた」
娘の頭に浮かんだのは宥仁の腕だが、流石に違うだろう。
女性の様子から同じ年くらいのはず――
「御召し物は? その例えば色とか?」
「んーあ、これと似た色着てるって言ってたかな。目立つか。この色なら覚えてる? 緑の着物で二本差し――ん、片方が短いんだけど。それで陰気な顔してる男」
正解は分かったが、娘の顔は晴れない。
思いついた顔の涼を感じさせる精悍さと、女性の芯のある可憐さはお似合いだったからだ。
少し翳った顔をまるで考えごとをしていたような表情に変えて
今、思いついたように晴れやかに答えた。
「ああ、あのお侍様ですね!」
「ん、見たの?! やっぱこっちかぁ。いやー正解、あいつの行動は読めてんのよ。どうせ人の多い東海道通らないと思ったし、そしたら西に行くにはここ通るしかないからね。それで西に抜けた? 私の読みなら富士の裾野にでも行きそうなんだけど、どこに行くか言ってた?」
娘は素直に宥仁との
仇討ち相手を知っている宥仁の寺に向かったはず。
少なくとも宥仁が探しに毎日来ているからどこに行ったかは知っているはずと。
「そっか、ありがと行って見るよ!」
「あのお名前は?」
「ん、私?
名を告げ立ち上がり、笠をつけて立ち去る。
きびきびとした所作には颯爽という言葉が良く似合うと娘は思った。
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