地獄道

 荻野川おぎのがわ――その名の通り荻野新宿おぎのしんじゅくに流れる川である。

 西を南北に貫通。飛び越えられるような小さい川ではないが、子供が渡れるほどに浅い。長雨や嵐の後でも無ければ子供の渡河とかでも事故も起きようのないほど。

 ゆえに橋は少なく、街道に近い南側はともかく北側は特にである。しかも古くなりいつ壊れてもおかしくない。橋げたには穴が空き、上を渡れば不穏な音が響く。次の嵐は耐えられまいと誰もが思うほどの橋が一つだけ宿場の北側にはある。

 だけども誰も直そうとしないし、お上に陳情もしない。

 あまりに人が通らないからだ。

 その橋の向こうには辻がある。川沿いの道と橋から山へ至る道の辻が――

 川沿いの道は橋から北へは草木で覆われ、獣も通っていないよう。南側には川岸に降りる一か所だけが草が生えていない。人が通っているのはここだけと見える。その川への道に通ずる人の足で踏み固められている地面は山へと至る道へと通じていた。

 その人の通る辻――道と道の交差する位置に張り出したように地蔵がある。

 ウロを備えた枯れた木。子でも受けるかのような大きなウロの巨木の下に六体並ぶ地蔵があった。

 六地蔵――地蔵と言えば六体並ぶものであるが、では何故六体なのか。

――それは六道ろくどうという考えに基づく。

 六道とは人々が生まれ、死に輪廻りんねする世界のこと。その名の通り六つの世界がありどの世界に生まれるかは前世までに負った業が決める。

 良い世界もあれば悪い世界もある。

 良い世界でも良い生き方を出来るし、悪い生き方も出来る。

 悪い世界でも良い生き方を出来るし、悪い生き方も出来る。

 どの世界でも業を負うこともあれば、悟りに近づくこともある。

 故に人は迷い、まどい、わずらい、苦しむ。

 良い世界でも、悪い世界でも、人は艱難かんなんあえぎ、救済を求む。

 故に地蔵は六体なのである。

 どの世界でも六つの内のどの道であろうと、漏らさず衆生を助けるために地蔵六体でそれぞれを目を配っているのだ。


 六地蔵の一番右、ここの場合で言えばもっとも川下に位置する地蔵。山を背に橋を通して向こうの田畑を望んでいる地蔵。七沢石の特徴である白っぽい粒が目立つ地蔵――名を大定智悲地蔵だいじょうちひじぞう

 右手に錫杖しゃくじょう、左手に宝珠ほうじゅ。垂れた大きな耳、厚ぼったいまぶたを閉じ、横一直線の目に眉と一体となった通ったというにはあまりに通り過ぎている鼻筋を持つ――いわゆる地蔵と言えばの地蔵である。

 それは真夏の明け方の事。早朝のまだ暑くなりきる前のこと。川から吹く風がまだぎりぎり気持ちよい涼気を運ぶ――はずだった。

 その日のそれは石の鼻すらひん曲がり兼ねない匂いを伴いやってくる。

 どこか覚えのある匂い。鉄の錆びたような、それでいて生臭い。

――血の香り

 大定智悲地蔵だいじょうちひじぞう六道ろくどうの一つ、地獄道じごくどうにて苦しむ衆生を救うためにいる。

 故に血には慣れている。にも関わらず鼻が曲がるほど、むせ返るほどの血の香りに歪まぬ顔をしかめたくなった。

 ただの血の香りではない。ただ濃いだけでない。地獄の底でも滅多に嗅がぬほどの死の香り。夏の夜明けの太陽すら沈めるほどの腐った香り、早朝の爽やかさをけがしてよどませるほどの呪わしい香り。

黒く見えるほどのまがつ風に当てられて、ここ一月の間珍しく備えられていた滅多にないお供え物の団子を吐き戻したくなる。

 地獄を伴って地蔵の前を通ったのは――男だった。

 けがれた風を伴って歩く男。

 夏の山の力強い深緑の着物を赤黒く染めた男。

 下側が同じく赤黒く、凶そのものの色をした西瓜すいか大の麻袋を右手に提げた男。

 草臥くたびれ、疲れ果て、足取りは重い。今にも倒れそうな、地獄の底で見たような足を引きずるように歩く男。

 それでも目は地獄の悪鬼の如くであった。罪人を見るくらい色がある。負った罪、負った業にて責め苦を受ける罪人をけして許さぬ強い意志を持った目。唇を噛み血を流しながら歩く男。

 果たして手に持った荷物と、男のどちらを救えばいいのか――

 地獄道から数えきれぬ衆生を救って来た地蔵をして見送るより他になかった。



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