影殺し

 一つ疑問があった。

 それは何のためにこれがあるのか。

 奥伝を読んでも出てこない。

 修行にも使わない。

 なら何故なのか。

 問いても兄弟子も師すらもその由来は知らなかった。

 だから新之丞は考えた――一体何のためにこれがあるのか、と。


 一瞬の笑みの後、新之丞は立ち上がった。

 刀を納めて軽く鯉口を切った。

 半身に構えて、腰を落とし、上半身はやや前傾。

 左手は鞘に、右手は刀の柄を即座に掴める形。


「敗れるなら新助の技か――健気だな」


 然全は再び鼻を鳴らして見下ろす。その姿に安心すらした。

 何故ならば口働き、煤宮であったから。

 然全の拵えは煤宮として不完全であるから。

 よもや煤宮を捨て去ったかと思っていたがすべて杞憂きゆうだった。

 師は『まず間違いなく修行を続けているであろう』と答えた。

 それでも不安は拭えないでいた。

 今日までの日々、すべてが水泡に帰すところだった。

 これまでの道中、すべてが無駄に終わるところだった。

 自らの凡庸ぼんような才に打ちひしがれたこともあった。

 だが師の言葉を信じた。

 相手は並みでなく、相手は煤宮であり続けている。

 何故そう言えるのかはまったく理解は出来ない。

 だが他でもない命の恩人にして剣の師匠。

 どんな血縁よりも信頼できる相手の言葉にすべて賭けて――

 そしてその恩人が作り上げた煤宮を殺すことだけを考えて来た。

 力量差は月とすっぽん、雲泥、天と地の差がある。

 だが勝てる。

 相手が煤宮であれば――

 煤宮を殺すことだけを考えて邪道に身を投じた新之丞なれば――


「このためだけに磨いてきた」

「愚かだな。憐れでもある」

「そうだろうな。貴様一人のために六人も斬らねばならないとは」

「私に並ぶか――立派と褒めればいいのか?」

「超えられてもその口叩けるかっ!」


 駆け寄る。

 同じようにぎりぎりまで引き付ける然全

 何度も見せれば同じように避ける

 ただでさえ煤宮であれば抜き打ちは下がる。

 抜き打ちは早い、届く範囲に居ては間違いが起こる。

 だから下がる。下がって避ける。

 煤宮が身に染みていればそれは反射で起こる、起こせなければならない。

 それを何度も何度も確認した。

 そしてそれこそが何度も何度も思い描いた勝機。


 切った腰に残った左手が滑るように動いた。

 猛禽のように曲がった二本の指が獲物を求めて動いた。

 残ったもう一方、短刀の柄をがちりと音がしそうなほどに確りとはまり込むようにまるでそう誂えたように掴んだ。


――何故短刀を帯びるのか


 兄弟子は答えは知らなかった。

 だが思うに軽くなるからと答えた。

 二本差しは仕えるものの正装だが、煤宮においてはその意味はない。

 予備としての意味、首を落とすための道具。

 戦場において要するのであれば煤宮も二本目を持つことにおかしさはない。

 だが脇差は重く大きい、であれば小さく予備の武器として扱える短刀だ。

 実際に太刀の時代には短刀も持っていたくらいだ。

 というのが兄弟子の話だった。

 だが、腑に落ちない。

 理解は出来たが納得できない。

 次に聞いたのは伝助。

 一応聞いてみると答えは兄弟子とそう変わらなかった。

 ただ『軽いほうがいいだろ?』だけである。

 ゆえに失礼やもと思ったが師に問うた。

 しかし答えは『知らぬ』であった。

 ただ師もおかしいと考えたことはあるらしい。

 調べてみれば元は無かったと師の先々代の弁。

 だが意味はあるはずとも、だからずっと短刀を帯びることを続けていると。

 師も今でも答えを探していた。

 ただこの時点で新之丞は答えをおぼろげながら掴んでいた。

 何故気づけたか?

 恐らく新之丞は剣術を習いたいわけではなかったからだ。

 ただ『仇を討ち果たしたい』その一心であった。

 その上、武士になりたいとも思っていない。

 祖父と大叔父のことを考えればむしろなりたくない。

 だから武士道という言葉からは縁遠い。

 剣術を習っているのに体面も礼儀もどうでもいい。

 どうでもいいのに、誰よりも強くなりたい。

 いや誰よりも強いと言われる煤宮の使い手を殺したい。

 だから気付けた。だから新之丞しか分からなかった。

 恐らくもっと前の煤宮の剣士なら分かっていたかもしれないが、この時代ではもう分からない。分かりたくても分かろうと出来ないのかもしれない。

 理解したときは雷に撃たれたような衝撃が全身を貫いた。

 だから修行をした。

 人知れず、皆が寝静まった後、皆が起きる前。

 伝助と共に寝ることもなく、伝助が起きる頃にはもう居ない。

 そうしてそれを隠した。それほど憚られた。

 それは考えてみれば当然だった。

 煤宮とは山間の村の農民が野伏のぶせから身を守るための技。

 その由来は忍にさかのぼる。

 挑発し、逃げ、そして地の利を取って尚、最善の形まで手を出さない。必要なのは勝利ではなく生き残ることだからだ。

 だからこそ当然この技があらねばならぬ。

 弱者の兵法であれば、忍の技であればあるはず、あったはずの技。


 新之丞の修行は苛烈かれつを極めた。

 ほとんど寝ない生活もそうだが。その内容もだ。

 左手の指が折れ曲がるまで。

 いや折れて曲がっても技を磨いた。

 手首が折れたこともあるが、それでも続けた。

 肘が腫れ上がったこともあるが当然続けた。

 肩が痛み上がらなくなったこともあるが、無論続けた。

 年がら年中、ずっと続けた。

 夜中にそれを続けた。

 師にバレて怒られた。

 身体は大きくならぬと言われても、もはや肉体は完成していたのだからと続けた。

 春には散る桜の花びらの数と競うように。

 夏には蝉をすべて仕留めるほどに。

 秋には舞う木の葉を焼き付す勢いで。

 冬には幼き頃見た憎き悪鬼の面を思い描いて。


 新之丞の二本の指は短刀を引き抜く。

 現れた刀身は泥を塗ったように黒く。切っ先は鋒両刃造きっさきもろばづくり――小烏造こがらすづくりとも言われる形で両刃りょうばにて尖っていた。

 その鋭利な先端が指の中で回ると――力を抜いた。

 最後まで出来なかったのがこの脱力。

 抜きすぎれば落ちる、抜かな過ぎれば上手く回らぬ。

 だが今はこの指がある。

 折れて曲がってまるでこのためにあつらえたかのような二本の指が。

 『もう戻らぬ』と師と兄弟子に言われて泣いた。

 これで完成すると思うと嬉しくて涙が溢れた。

 その指で尖った切っ先が真下を向くように調整すれば、今度は肘の出番。

 肘の動きで持って、腕が振り子のように動く。

 二本の指で捕まれた短刀は切っ先が下のまま勢いを増した。

 手首の返しで更に加速した短刀の切っ先が然全を向くと指は離れ――


 刀は武士の魂であれば、それは愚行と言われるだろう。

 煤宮においても、開祖が刀鍛冶であればやはりそれは愚かしいことなのだろう。

 だとしても、これはそういうわけであるはずだと確信していた。

 刀でなくとも、短刀でなくとも。元々の煤宮の生まれた経緯を考えればそれは必ずあるはずだ。

 戦の時代でもそれはあったと聞く。

 ならば絶対にあったと新之丞は断言できる。

 死にたくないなら近寄らなければいい。

 そんな理念が剣術の姿を為しているだけの煤宮にはあった。

 だが太平の世、町中で、座敷で使うことを想定されてしまうとそれがない。

 戦国の世であれば石だった。

 石は道場になければ、立ち合いで拾うこともできない。

 なれば代わりのものを身に着けておけばいい。

 投げるに適し、武士が帯びててもおかしくはない――短刀を。


 抜き打ちの刀身の影に身を隠すように短刀は飛んでいく。

 黒い刀身は見ることが適わず。

 幾ら煤宮を知っていようと、存在しない投擲術とうてきじゅつは想像にすらない。

 そして気付いた時には手遅れである。

 必ず後ろに避ける煤宮には、放たれた短刀を視界に納められたとしても、いや仮に新之丞の左手の動きから推察すいさつできたとしても。

 地から浮いた足で避け得ることは有り得ない。

 煤宮には絶対、煤宮には不可避。

 煤宮だけは殺すという邪道を生きた新之丞の必殺の一撃。

 影を行き、影から現れ、影のように刺す。

 師によって付けられた名は――影殺し。

 煤宮の奥伝おくでんに新たな記述を刻んだ技である。


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