然全

 月の隠れた階段、ところどころ欠けた段に足を取られた。

 強い風に吹かれながらも、もはや足は止まることはなく。

 ただ仇の待つ場所へ。

 戸を開いた中は意外にも広く板を張られた広間。それはどこと無く見覚えのある、そうどこかで見た覚えのあるような部屋。


「――道場」


 縦横たてよこの大きさ高さと、みすぼらしくもあるささくれ立った床。

煤宮のそれにも思えた。

 ただ違うのは明かりの取り入れ方。縁側から外に出られる煤宮と違い、狭いここは格子窓こうしまどを付けてあるのみ。

 月明りが格子の影を落とす。ただただ意匠のない縦の木を入れただけ。しかも木の一本一本が不揃いな上にまっすぐになっていない。

 素人が作ったであろう不格好な影に男が浮かび上がった。


山中やまなか――」


 まるで月明りを独り占めたように、ぼうと浮かび上がる姿。

 立ち上がるまで気付くことが出来なかった。

 立ち上がっても足があるのを確認せねばならないほど。

 頼りなく存在感が薄い――果たしてこんな男だったか。と疑った。


「やはりお主か」


 声も分からぬほどにしゃがれていた。

 ただ、そう言って口角を上げた表情に面影はある。

 更には左手を掛けて上下させた鞘――見覚えがあった。

 七寸足らずの立鼓りゅうごがたの柄は片手打ちに適した、新之丞と同じく煤宮にて扱う拵え。

 もっとも特別な物でもなく、肥後ひご拵えと言う当たり前にある物ではある。

 だが、問題は意匠。

 板を柄頭つかがしらから鞘尻さやじりまでぐるぐると巻きつけたよう――蛭巻ひるまき拵えと呼ばれているそれの板が銀、つばやら鞘尻やらの装具は金という色合いは見覚えがあった。

 いや見紛うことも――ない。

 新之丞の生家、一伝流の道場にて飾られた――父の刀である。

 厳しい父がもっとも大切にしていたはずの刀が仇の手にある。


「貴様、何故それを――」


 頭は真っ白、思考はかれ、それでも斬りかからぬのは師の教えのお陰。

――相手は煤宮なれば準備なく掛かるわけには行かない。

 そう考えて何年も何年も頭の中で繰り返し戦っていた。

 そのお陰でぎりぎりの所で耐えて居たのだが――


「命の代償にするには安かったがな」


 発した言葉の軽さと、喋った顔の軽薄さたるや。

 憤懣ふんまんやるかたなく、瞋恚しんいが全身を覆ったようだった。


「そんなものの為に――そんなものの為にかぁっ!!」


 半ば狂乱の叫びを上げて走った。

 柄に手を掛け、姿勢は下げて、走った。

 一伝流の動きの真髄は動いての抜刀にあれば、抜かぬまま刀の範囲に捉えた。

 いまだにやけたように上がった口の端を目掛けて、右足を踏み込み力を籠める。

 腰を切って、鞘を走らせ、刀身を抜くと、右手を振るった。

 月光を断ち切り、荒波が然全を飲み込む。

 剛ではない抜刀術、ただただ速さを追及した技。

 抜刀術の基礎中の基礎であるが、だからこそ差を作るために秘があり奥義となる。

 極軽い振り抜きは新之丞の中で最速の斬撃。

 だが刀が切り裂いたのは月光のみだった。

 そこに既に然全の姿はなく――斬撃の半歩外、刀の届かぬ場所にて不敵に笑う。


「自ら斬りかかる――長谷野おうはそう教えたか? お主の短刀は飾りか?」

「黙れぇ!」


 左足をひきつけての返しの刃は半歩先に届く振り下ろしとなる。

 もっともそれは空を斬った――がそれは振る前から分かっていた。

 更に返して刀を今度は横に倒し、突きを見舞う。

 大して広くない道場であれば、突きを避ければ背が壁に当たる。

 なれば行先は横しかなく。


――右か左か


 どちらかを決めて蹴り倒す、そういう算段の突きであった。

 だが、そんな算段で放った突きに気がのるわけがない。通用するはずがない。

 風鈴が鳴ったような音が響けば、然全の顔を目掛けた刀は勝手に逸れていった。

 勢い余った新之丞の身体は流れ、足は蹴りの準備で踏ん張ることも出来ない。


「ちいっ」


 大きく舌打ちを打って、足先を引っ掛けるようにして壁を蹴りつけ、無理矢理横へ飛んで逃げた。

 だがそこは部屋の角。気付けば追い詰められる格好となっていた。

 攻撃を仕掛けた側であるというのに。

 然全に向き直ると、刀が抜かれている。

 刀が逸れた理由をようやく知った。

 だが、抜き打ちでもない、ただ抜いただけで気付けもしない。

 背筋に冷たい物を感じざるを得なかった。


「煤宮とはそんなものではなかろう?」


 銀銅ぎんどうの刀を下げた右手に持つ。半身に構えて重心は後ろ。

 それは紛れもなく煤宮の構えである。

 対して新之丞は前掛かり、刀も斬りやすいように既に立ってしまっている。

 もはや何の構えか新之丞すらも分からない。

 差というには余りにも異質。

 違いというには余りにも残酷。

 師もそう言っていた。

 然全を知る誰もがこういった。

――天才と。

 それは分かっていた。何度も何度も言われて来た。

 ただ新之丞はある程度の衰えに期待していた面もある。

 そうでなくとも、ただ修練を積んだ十六年ではなかろうと思いたかった。

 だがどうであろうか目の前の男は。

 遥か高みの剣の天稟てんぴんを持つ者が惜しまず努力した結果ではないか。

 果たして師が若かったとしてもこの領域にあるのかどうか。

 果たして師の本気よりも上ではないだろうか。


「新助とてもう少し使えたが」


 だからこそ、認めたくなかった。

 新之丞は気勢を上げて前へ出る。不格好な構えのまま、また斬りかかった。

 壁の反対から周り込むように斬った。

 完全に甘えた攻撃、相手が煤宮でなければ、とうに首は泣き分かれている。

 だからなりふり構わず甘えた攻撃を仕掛けた。

 壁へ押し込むような斬撃、嫌がれば下がる。

 なれば部屋の角という窮地きゅうちは脱することが出来る。と甘い考えをした。

 然全は下がる。確かに下がった。

 が、刀の振りが通り過ぎると前に出た。

 振った右手の肩を左手で払ってくる。

 振った勢いを殺し切れず、身体ごと壁にぶち当たった。


――不味い


 流石に甘えの通る隙にはならぬ。と、新之丞は壁を舐めるように身体を丸めた。床を転がり逃げる。狙っては居なかったが窮地は脱した。

 だがそれもたなごころの上なのだろう。

 追い掛ける素振りもなく、構えを戻していた。


「ふむ、悪くない。動きは中々だ。もっとも新助も身体は強い男ではあったがな」


 上から見下ろすように口を開く。

 ただもはや苛立ちもなく、ただただ――強い。ただ強い。

 これが煤宮かと感心した。

 今更だが新之丞は気付いた。

 これは口働きであったと。

 まず鞘の見せ方からして演技掛かってはいなかったか。

 顔の作り方は? 喋り方は?

 喋る内容だけでない。恐らくはすべて相手を動かす演技、いや技そのもの。

 口働き一つとっても数段上に居るのだ。

 あまりにも使い方が違い過ぎる。

 単に相手を孤立させ、相手から攻撃させるだけではない。

 何故師は口働きを基本と言ったか。

 何故いつまで修行させるのか。

 それは我慢の利かない新之丞のため――ではなかった。

 だが違うのだ。新之丞の理解とは断然の違いがある。

一挙手一投足までも操る。

 師の言う通り、攻撃をする時を相手に知らせる技なのだ。

 だから最初に初めて最後まで続けなければならない。

 それだけの価値がある。

 然全の狙いも今なら分かる。

 恐らく父を意識させることで抜き打ちを呼び込まれた。

 そのまま追撃をさせられれば、出来ることは多くない。

 あの目を持ってすれば一連ではない攻撃なぞ止まって見えるだろう。

 そして思い通りに端に追い込まれた――と、今更ながらに気付いた新之丞は悔しさで拳を握った。柄を握り潰さんばかりに強く、その痛みで頭を冷やしていく。


――出来得ることはなんだ


 ただそれさえ分かればゆっくりと考えることは出来る。

 何せ相手は煤宮、自らせめてくることはないのだから。

 新之丞は立ち上がって頭を巡らせる。

 気付けば右手は降りて、重心は後ろ。

 いつも通りの構えを取れれば、いつも通りに頭も回ろうというもの。

 いつもの通りに構え、いつもの通りに周囲を見回す。

 『周りに何があるかを把握する』

 基礎中の基礎をするほどに余裕も生まれた。

 曇っていて目は晴れて、壁の染みも、床のささくれの一つまで見え――格子の外の空を見れば、ふと思いついた。


「――なるほど」

「また、それか?」

「それだ」


 刀を納めて腰を落とす。最初と同じ構え。

 然全の呆れた顔、だが今ならば落ち着いて見れた。

 仇の顔だろうが、心静かに見ることができた。

 慌てず、騒がず、平静な心で足を運ぶ。

 じりと寄る。

 目は然全の右手に合わせ瞬きもせずに右足を擦る。

 じりじりと寄る。

 手は柄から少し浮かせ、可能な限り力を抜いて左足を引きずるように引き付ける。

 然全もまた動かない。

 先刻の攻撃には先刻の受けであろうか。

 自信の現れた、落ち着いた構え。

 まるで座禅をしているかのように半眼にて待ち受け動かない。


――やはりそうか、自分からは動かない。


 それは先手と取るという意味でもあるが、下がらないということでもある。

 何故ならば煤宮であるから、何故ならばこちらが抜き打ちの構えだから。

 抜き打ちは早いからだ。

 鞘を走らせる分、刀の速度そのものが早くなる。

 通常なら目も止まらぬ速さ。

 なら何故かわされたか。

 抜き始めたら動けないという弱点がある。

 抜き始めた時に刀の届かない場所へは攻撃できない。

 なら抜き始めたら後ろに退けばいい。

 簡単な理屈である。

 であるから、新之丞は前に出た。

 下がらず、先手を取らない相手。

 下がっても避けられない位置まで前に出る。

 単純な戦法である。


「――すぅ」


 既に二人の間は刀は届く。

 声を発することすら隙となる位置である。

 風の音にざわめく木々の中、互いの吐息の声だけが響いた。

 まだ動かなかった。

 どちらも動けば後の先を取られる位置であれば動けない。

 動かないではなく動けない。

 それは二人とも同じ。

 例え格上であろうと、この位置での後の先で負けるほど目が眩んでいない。

 だから動かないでいた。

 口働きは封じた。

 振りの速度差も埋めた。

 対等にである。

 だが対等では勝てぬ。帰れぬ。生き残れぬ。

 だから待った。

 一つ新之丞に有利な点があるとすれば、今日の夜の風向きを知っているという点。

 そして今、風上を背にしているのは新之丞であるという点。

 室内であるが、新之丞は風を待っていた。

 一手で絶命必至のこの場所で待っていた。

 そしてざわめきが来た。

 ざわざわざわざわと音が来たる。

 今日の月は隠れては現れている。

 風は吹き、新之丞は風上――即ち月に叢雲むらくも、背には影。

 新之丞の背後から影が、背を通り、頭を通り、手を覆い隠す。

 然全の前の右手に掛かり、顔に掛かれば――新之丞の右手は柄に掛かる。


「いぇぇぇぇぁぁっ!」


 気勢を上げ振り切る。

 明から暗に切り替わる一瞬にすべてを賭けた、全霊を賭けた最速の抜き打ち。

 だがそれでも手ごたえは無く。だがそれは分かっていたこと。

 状況を整えようがまだ足りない。機を味方に付けてもまた届かない

 圧倒的才の前にはその程度――分かっていた。

 この差を飛び越えるためには連撃である。

 全霊を賭けた一撃の連斬りの他はない。

 右腕の骨がきしみ、筋が悲鳴を上げた。

 それでも刀を返し、振り戻した刃は抜き打ちと見紛う刀勢とうせい

 その速さ、然全の顔色を変えるほど。

 然全の首から血を出させるほどだが――まだ。まだ浅い。

 手ごたえは皮一枚。然全は上体を反らして、首の皮を差し出したに過ぎない。

 もっとも首を断っていようが変わらない。

 三連目は勢い余った右手を左手で殴りつけるようにして無理矢理返した。

 唐突な反転。新之丞自身初めての試み。

 それを当然のように上回る然全の刀で受けられる。

 無理な体勢だったため、身体は流れた。

 その勢いにむしろ乗って、蹴り足を放ち。

 どうせ避けられると思って、そのまま周って殴りつける。

 それも上に羽織った白の袖を掠っただけ。

 更に引いてある右手で突きを放つ。

 これは空を斬る。

 全身全霊の突きが空ぶれば体勢はやはり崩れ。

 崩れた勢いままに背を見せてでも周りながら、逆袈裟に斬り上げ。

 もはや全身隙だらけなまま前へ進みながら上段を振り下ろした。

 後の先を取られても、肉を斬られ、骨を断たれようと、首を通して、命脈を絶つ。

 その覚悟をしても尚、首の皮一枚のみであった。


「終わりかな」


 然全は息一つ乱れず涼しい顔して構えていた。

 首の皮一枚以降は一度刀を使わせただけで、後は紙一重で避けられた。

 万全を期して大きく避ける必要すらないということである。

 反対に新之丞は肩で息をしていた。

 幾ら連戦だろうと、幾ら疲れていようと。

 絶対に体力でだけは負けない。

 そういう思いで、山を走ったこの十年は才能の前に負けた。


「なるほど、剣にも新助の面影がある。その技の数々は一伝流とか言うあれの技か。 無駄なことよ」

「な、何が――無駄だと言うのだ」

「その新助が敗れた相手だぞ? それを少しは考えるべきだった」

「その仇を討つと言っているのだ」

「無駄なことよ。長谷野翁は止めたろう? 何故か分かるか?」

「――知るか」

「勝てぬからだ。兄者も止めたろう? 優しさだけではないぞ。お主では勝てぬよ。 せめて長谷野翁とともにやってくれば――いや、もう歳か。十年遅かったな」

「うああああっ!!」


 破れかぶれだった。癇癪かんしゃくを起こした子供のように大振りの攻撃。

 それは当たるわけがない攻撃だった。

 だが何故か然全は動かず刀を上げる。

 もはや避けるまでもないと刀で受けた。

 もっとも新之丞は癇癪を起こしたのだから全力である。

 勢いも付いた全力の新之丞と、脱力した構えから受けた然全。

 刀がかち合えば弾かれるのは――新之丞だった。


「な、なん――だと!」


 もう一度打ちに行っても弾かれる。

 身の丈は同じ程度、腕の太さは勝っているにも関わらず弾かれる。

 何故勝てないのか。

 だから三撃目は素早く放った。

 本来の煤宮の振りを思い出すように振った。

 ぶつかる二本の刀の峰に左手をぶつけるように。

 然全もそれは同じく。

 互いの刀を介して手がかち合った。

 追わせた左がかち合えば、それは新之丞がもっとも得意な修行。


「うおおおおおおぉっ!」


 叫び声を上げて背を隆起させ、腕を爆発させて前へ押す。

 この修行では道場において今や敵なし。

 老いたとはいえ師にすら勝てるのだから。

 不様に叫び続けて押した――が、やはり弾かれたのはやはり新之丞。

 背後に飛ばされ、たたらを踏んで地に膝を付かされた。

 押し込んだ左手は痺れ、足腰は疲労で立てず、手を付き項垂れた。


「技の差――か」

「くっくくっ、違う。違うな。それは違う。単に力が違うのだ」

「馬鹿な、その身で。ここまでの膂力は――」

「事実有り得ている」


 言い返すことは出来なかった。


「不思議そうな顔だな? 分からぬのか?」

「何をだ」

「何故力に差があるか」

「何故――だと?」

「不思議なことなど何もないだろう? 食らっている物が違う。くくっ、そう怪訝顔をするな。お主とて肉は食らっているのだろう。だがどれだけ食らった? 頻度は? 何日毎に山に入りどれくらい狩って食らった? 言いたいことが分からぬか? ここに畑はない。あるのは山のみよ。なれば何を食らっていると思っている。毎日毎日何を食らって生きながらえていると思うのか?」

「毎日――だと」


 煤宮においては肉は食らっても四日に一度がせいぜい。

 それももっとも良いとされている時間である夜のみである。

 余らせた肉は売り払い金に替えねば生きては行けないからだ。


「そうだ。食らってる数が違う。食らってる頻度も違う。この身体幾ら細く見えよう と毛の一本、骨の髄まで獣の肉で出来ている。力なら勝るとでも思うたか?」


 この三合の打ち合いでそれは嫌と言うほど分かった。

 この男は山であると、高く険しい山。

 上ろうとして弾かれ、然れどもすべてを受け入れる。

 ただ力強くそこにある。

 ただ受けて動じない。

 強い。

 まことに強い。

 才無き者に力を与えるのが煤宮。

 人を殺す者とその覚悟無き者の差を補うのが煤宮。

 だがこの男は違う。違い過ぎた。


 ひたすら追って、ひたすら斬りかかる。

 煤宮に合わぬ戦いをする。

 ただ受け、ただ逃げる。

 ただ煤宮を全うする。

 されば必然、どちらが勝つか――


 腕では勝てぬ、技でも勝てぬ。

 煤宮として負けている、煤宮にあらぬ戦いをしている自分。

 なれば考えるまでもなく、どちらが勝つか――


 復讐に目がくらみ煤宮を曲げた凡夫ぼんぷの己と。

 ただりままに煤宮をまっとううする剣の鬼。

 であるならば、どちらが勝つか――


 新之丞の顔は微かに口を上げて、誰にも聞こえぬように声を零した。


――勝てる


 よりによって同じ煤宮、力量差は歴然、明白で多大で深淵の差――

 目の前に居るのはその身まで煤宮のみついた剣聖である。

 だからのだ。

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