怨念

 毒に対する対処――まずは毒血どくちを抜かねばならない。

 この時口で啜るのは厳禁、何故なら口から入る可能性があるから。

 特に新之丞は傷だらけであるから猶更なおさら気を付けるべき。

 穴のような傷の周りをつまむようにして、血を押し出そうとする。

――が出ない。

 小さい傷であるから、既に塞がりつつあるのであろう。

 ならばと、新之丞は辺りを見回し刀を探す。地に突き刺さった刀はまだ光を放って新之丞を呼ぶようで。足取り重くとも、足を引きずるようにして駆けた。

 右手で柄に、左手の腕の外側の傷口を刃に当てて――下にずらした。

 六人との戦闘を経ても、未だ刃の切れ味は鋭く通り抜けるようにして皮が切れる。

 後から待っていたかのように血が湧き出すも、新之丞の顔は曇った。

 嫌なことに斬った痛みがなかったからだ。毒によって齎された痛みのみである。

 祈るように眼前に持ってきた腕から血を絞り出すも、感覚は戻ることはなく――


「そうだっ」


 再び印籠を思い出した。

 印籠は全部で三段ある。血止めの油はその内の一つに過ぎない。

 慌てて帯に手をやり根付に触れ、印籠を取り出し紐を解いた。

 一段下の段に覗くのは折りたたまれた茶色い紙。

 師曰く肥後の薬それも――


「舶来物だったか」


 紙の中には金色の丸薬――見た目は正直に言えば飲み込むことに抵抗はある色だ。

 とはいえ迷っている暇はなく、一息に飲み込む。

 乾いた口の中をするりと通り、喉を転がり、胃に落ちるのが分かった。


「果たして――いや、大丈夫、大丈夫だ。わざわざ用意して下さった物なのだから、効かぬわけがない」


 目を閉じ、まだ熱っぽい身体を休めるために木に身体を預ける。

 手にした印籠の組み立て紐を締め直していると、ふと思った。

 印籠は何故漆塗りなのか――師が選ぶなら凝った物を選ばない。実際師の腰の印籠は特に意匠のない無骨な木彫りの物。質実剛健を旨とする方であるからだ。

 根付にしてもそう”止まればいい”と考えるだろうから、何かを象る物を選ばない。

 だが手にした根付には目がある、くちばしがあり、羽の模様も細工されている。

 兄弟子ならば瓢箪か何か、伝助ならば食べ物だろうし、弟弟子は――分からない。だが気の回る奴ではないので恐らく師に投げてしまうだろう。

 何故漆塗りの洒落た印籠なのか、何故この小さく丸い、どこか不格好な鳥なのか。


「何故――ウズラ」


 鳥の名を呼べば、ある顔が浮かんだ。

 目が線になるまで大きく、溌剌はつらつと笑う顔が。

 髷を結う前の天辺てっぺんで丸めて結んだだけの髪型だった時の。

 七歳か八歳の頃のかやの顔が浮かんだ。 

 その頃、天水屋にはウズラが一匹いたからだ。

 店先の畳の上に並べた小間物こまものの一角、商品を取り除いてまで籠を置いていた。


『あれ、この鳥は――売りものですか?』

『違う違う。これはウズラだ。私のだよ』

『えっ父上の。食べるの? 美味しい?!』

『ははは、かや。これは食べないぞ――食べないからな?』

『――え? 足二つだよ』

『食べません。良いかウズラは鳴き声を楽しむものだ。鶉合うずらあわせと言ってなウズラを持ち寄り互いの鳴き声を競ったりする。ふふふっ、こいつでおぎ屋に一泡吹かせて――』

『へーそんなに美しい声なの?』

『ふふ、聞いてみるか』


 籠の中の小さい鳥はまだらな茶色の羽で尾も短くけして美しくはない。つまり見るための鳥ではなく、鳴き声に価値のある鳥だということ。

 だから新之丞はさぞ美しい声で鳴くのだろうと思っていた。

 かやと新之丞と、何故か笑みを含んだ喜助の三人で籠の前に顔を並べて待つ。


『ギョギョギョエ、ギョッギョエッーー』


 何とも言い難い――大量の蛙が断末魔を上げたような声だった。

 目を丸くした二人に、ウズラに負けぬ声で下品に笑う喜助。


『どうだい、この声。美しいとも下品ともいえない。なんとも微妙な鳴き声だろう? しかもこの形でこの声の大きさ。いいウズラだよこいつは』

『小さくて五月蠅い――かやみたいだ』

『誰が下品な声だって!』


 もちろん怒った。

 がなった大声を上げて、小さい脚をパタパタと忙しくして追いかけてくる様はまさにウズラのようで。

 逃げ惑う新之丞をよそに喜助は腹を抱えて笑っていた。

 店の物をひっくり返して荒れ果て三人してくらに怒られたのは昨日のことのよう。


――かや


 と名を呼ぼうとして止めた。

 こんな場所で呼ぶ名ではない。

 こんな血の匂いの濃い場所で。

 鼻を付く闘いの跡にほころび掛けた頬を締め、逃げるように身体を倒した。

 天を仰げば木の葉の隙間から月明りが漏れ、また一つ記憶が蘇る。

 印籠の黒い輝きに映る月でまた一つ。

 ウズラを照らせばあふれるように記憶が沸いた。

 下らない喧嘩もあれば、仲良く遊んだことも当然あった。

 春には花を見に、いや踏ん付けに田んぼに行った。

 大量の白と紫の花畑になった田の上を転がっては踏んで踏んでは転がって遊んだ。

 夏であれば川遊びだろうか。

 一人二人では危ないと、良く伝助たちを誘って。

 浅く緩やかな流れの川では詰まらないと木から飛び込んで怪我もした。

 秋には山に入って栗やらキノコやらを取った。寺の山で取りすぎて怒られもした。

 冬には七輪しちりんの側で肩寄せあって、くらの針仕事を見ていた。

 勿論かやがやりたがって、指に穴を開ける羽目になるのだが。

 そんな思いでが終わるのは十になってから――煤宮を習うと言ってからだ。

 喜助もくらも反対したが、特にかやが酷い。


『そんならもう口利かないから』


 と言って本当に半年ほど口を利かなかった。

 その後も最低限しか話すことはなくなり、話をしても喧嘩になることがほとんど。

 それも喧嘩の内容は剣術のこと――いや仇討ちのことであったのだろう。

 最初は迂遠うえんに”剣術なんて危ない”とか”食べていけるの”とか。

 段々と”仇は見つからない”とか”勝てるのか”とか仇討ちを否定するようになった。

 その度に新之丞はかたくなになり、やがて口を閉ざして決意をした。

 十五になって内弟子になり、もう戻らないことにしたのだ。

 以降は顔を合わせることもなく、天水屋にだって戻ることはなかった。

 長谷野がたまに思い出したようにわざとらしく様子を伝えてくるくらいだ。

 そして二年が過ぎて――かやも一七になると、江戸に奉公に出た。

 行き先は武家屋敷。行儀ぎょうぎ見習みならいとしてである。

 行儀見習いとはその名の通り行儀を習うということ。武家に住み込み、家の手伝いをする代わりに良家の作法を学ばせてもらうのだ。

 そしてそれは専ら嫁ぐ前の修行となる。

 良家の作法を学んで、良家に嫁ぐ。小さい商家からそこそこ武家に。そこから更に良い武家にと家格を上げるための、その一歩目の修行。 

 二度と会えない可能性は高い、とは新之丞も理解していた。

 それでも、この話を聞いても会いには行かなかった。

 ただより修行に打ち込んだ。

 より強く、より早く強くなるために。

 刀を振るって、朝も夜もなく刀を振るった。

 その修行ぶりには兄弟子も舌を巻くほど。

 だから『かやが江戸に発つ』と長谷野に聞いた時も、修行に打ち込んだ。

 その修行ぶりには兄弟子が止めるほどで。

 山を駆けて、獲物を捕らえ、肉を食らって、そしてまた駆けて、獲物を捕らえて、肉を食らって、また駆けて、倒れるまで走って――最後は吐いた。


「そうか――」


 月に照らされた印籠、垂れた紐の先のウズラがこちらを見ている。

 よくよく見れば彫りは甘く、不格好にも見えるウズラに目を奪われた。

 爽やかに風が抜ける。

 血の匂いを拭い去り、身体から熱を奪っていった。

 手にも足にも力が戻る。

 されど新之丞は立ち上がることはなかった。

 ウズラを見たまま考えていた。

――どうするか?

 ここまで来てそんな言葉が浮かべば力も抜けた。

 不思議と力が抜けて来た。

 ここまで、修行を始めてから、仇討ちを志してから十年余りの月日の、力を籠めて籠めて籠め続けた額の回りの険がとれる。

 やはりウズラを見れば、あのかやの笑顔が思い起こされ頬が緩む。


「どうしよう」


 まるで子供のような声を上げた。

 じつとウズラと目を合わせた。

 だが風がそれを許さない。

 不意に吹き付ける強い風。

 抗するように新之丞は身体に力を籠める。

 風に乗って届く血の匂い。

 二つの死体と山には更に四つ晒されている死体、すべて新之丞が斬って来た死体を思い出させる。

 木々を揺らし、枝を叩きつけ、葉を擦り、石を転がし、風は吹いた。

 新之丞に思い起こさせるように山を鳴らして吹いて。

 ざわざわざわざわと音を立てて。

 カタカタカタカタと鳴くように。

 風は雲を連れて月を覆い隠してしまえば、暗闇に血とともに閉じ込められた。


『――て』


 月を隠され深い雲の下、真っ暗闇に何かが響く。


『――討て』


 ごうごうと、ざわざわと鳴いた風の中から、確かに声。


『討てっ! 討ちなさい』

『討てっ山中を討てっ! 新之丞っ!』


 男と女の声が聞こえた。

 自らの名を呼ぶ、厳しくも強い言葉に。


「――っ――うるさいっ!!」


 新之丞はウズラを投げ捨て、身体を震わし、目を手で覆う。


「分かっている、分かっている! やってやる――やってやるとも!」


 全身に力を込めて立ち上がる。

 暗闇ぼうと赤い目を光らせ、新之丞は山頂を睨みつけた。


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