槍絡み

 煤宮のこしらえにはすべて意味がある。

 忍にたんはっした技であれば、下げ緒もただの飾りではない。

 新之丞は半ば背を向けるようにして身体の左を隠し、下げ緒をほどいた。

 藍色の革で出来た紐は頑丈で、且つ並みの下げ緒よりも長くある。

 解いた一端を打刀の柄に絡めて結ぶ。鞘と刀をきつく結んだのだ。

 そしてそれらをすべて背で隠しながら行った。見せぬように抜いて構える。


「良いか?」


 恐らく何かの細工とは気付かれていた。

 だが何の細工かは分かっていない。

 例え山中やまなかが煤宮を教えたとて、これは知らぬ。

 山中がついぞ見ることの適わなかった技だからだ。煤宮の原初――忍の技にほど近い秘伝中の秘伝、奥伝おくでんにしか載っていない技だから。


「いつでも構わぬ」


 新之丞はじりじりと足をって前に進んだ。

 ゆっくり、ゆっくりと一呼吸で一寸いっすんも進めなかった。

 暗い夜の山中さんちゅうに濃藍の着物と袴では足元も良く見えない。

 果たして大して広くないこの場所で、あの階段から槍の穂先がどこまで届くのか。

 一寸ちょっとづつ、探るように歩を進めた。

 垂れた汗も拭わず、やぶ蚊が止まるのも払わず、ただ穂先を見つめて足を擦る。

 だがそれでも槍の穂先が線となったままだった。

 少し横に動いても、少し顔だけを動かしても、どうしても穂先は完璧に追従して、穂先を線にしか見せない。

 新之丞の目線を完全に見切ってなければそうはならず、新之丞の身体の中心を完全に捉えてなければそうは見えない。

 喉か乾き、目がぼやける。

 そのせいか、相手のせいか距離が分からなくなった。

 後何歩で穂先が届くのか、後一歩で来るのか、もう死地にいるのか。

 脳裏に過ぎるのは脳天を貫通した槍の穂先。

 汗は引き、乾いて身体は冷える。茹だる熱気の中、猛烈な寒気さむけが叩きつけられる。

 大きく張った額の下の目は微動だにせず新之丞に狙いを定め。悠大に構えた両の手はいつでも突けるようにゆるりと槍を掴む。どっしりとした腰は地から生えたような足に支えられて倒せる気がしない。

 兄弟子はおろか師でもおいそれと出来る芸当ではない。山に籠った達人、古の剣豪と――少なくとも新之丞にはそういう相手と対峙していると感じた。

 必ず殺すという強い意志と冷たく静かな殺意の前に――それでも足は前に出た。

 もはや蛮勇とでもやけくそとでも言うべき心の中であったが、それでも手は打刀を掴んだ。

 ちらと左腰の二つの鞘を見て、それでもかぶりを振って足を進める。


――その瞬間を見破れたのは完全に運だった。

 ただ少し、ほんの少し、又左の槍の一本の線が太くなったと感じた。

 その瞬間に新之丞は賭けた。

 左に顔を動かす。穂先は見てもいない。ただただそう決めていた。

 槍の一突きを見てから避けるのは無理である。

 兄弟子相手ですらどう集中しても半分は避けきれないのだから。

 だから即座に右に転じた。

 穂先の前で顔を往復させる愚行ぐこう暴挙ぼうきょとも言える。

 だがこの男なれば達人なれば、動いた顔を狙い打つことなど造作もないと信じた。

 目の前の男の槍の腕前に、女敵討めがたきうちを諦め山に籠った力に――命を賭けた。


「ぬ――っ?!」


 血が飛び肉がえぐられ、夜に舞った。

 左右と動いた新之丞の顔の目の一寸下に一筋の傷。

 刃が通る感覚がいっそ気持ちよかったくらいの綺麗な一本線の傷が現れた。

 賭けには勝ったのである。

 ほぼすべての得物でそうであるが、一度攻撃したら引かねば次に移れぬのが道理。特に長い得物であればその隙は大きくなるのが摂理――幾ら達人でもだ。

 槍は新之丞の左に移した顔の後ろまで通ってから戻ろうとする。

 だが戻れない。

 穂を掴む物、下げ緒で作った円がそれを許さない。


「これは――忍の技か」


 新之丞は避けながら背後に円を作っていた。

 下げ緒で作った円の内に槍を通す。そして下げ緒を結んだ両端、刀と鞘とを思い切り引く。ピンと琴を弾いたような音がすれば、槍は絡み抜け出せない。

 槍絡みの完成である。


「終わりだ。この形なれば槍使いに勝機はない」


 体重を掛けて押し下げる力と、槍ごと持ち上げる力。どちらが強いかは言うまでもなく。槍に掛かった紐からの両者の手の距離も鑑みれば負けるはずもない。


「ふんっっっっっっっっっっっっっっっぬ!!」


 だが下がらない。いやむしろ逆に上がった。

 腰まで下がったはずの槍の穂先が今は胸前にまで来る始末。

 肉を食らい作り上げたこの身体で、有利な状況でも尚力ですら――顔を染め、腕を興らせ、背までも総動員しているにも関わらず、押し負ける。

 まさに息を付く暇もなく。息を吐こうものなら、槍は天まで跳ね上がり兼ねない。


「ぎぎぎっ」


――次はない。

 一度目でしか通用しない。そういう避け方をした。

 であるから新之丞は更に力を込めて、口の端から息と共に血を吹き出しながら紐を引き下げる。だが又左も負けじと抗して拮抗きっこう状態となる。

 両手を肩まで上げた位置で止めるが、今度は紐が耐えられない。細く引き絞られ、張り詰めた紐は千切れかねないほどに緊張を張る。

 槍のしなりも限界が近く、倒れる前の巨木の音が手から伝わる。

 新之丞は焦った。仮に折れたとしても残るは凶器。中途で折れた槍とて勝てる自信のない相手。

 だが、耐えきれなかったのは紐ではなく、新之丞でもなく、結び目。

 右手から重みが無くなった。刀の柄に結んだ紐が弾けて解けたのだ。

 勢い柄で腰を強打。限界に達してた右手の握力もあって刀は宙を舞う。

 又左も同様に跳ね上がった槍に勢い余って後転し、やはり限界だった手の力は槍を手離させた。

 互いに徒手、互いに尻を付き、互いに目を合わせた。

 それは一瞬だった。互いの得物が宙を舞う間だけの刹那だけ。

 目を切ったのは又左から。

 新之丞の得物の行方を見て、勝機と判断したのだろう。

 何故なら、背には階段、槍は大きく重く、遠くまで飛ばないから。

 槍が先――と互いに判断をしたのだ。 

 故に新之丞は走った。

 刀を拾って居ては間に合わない。槍を拾われては勝てない。

――ならば

 左腰に右手をやり、わき目も振らずに突進した。

 足が出てないのではと思った。

 ほんの数歩が永遠に感じた。

 だが、駆け抜け又左の腰に当たったのは槍を取るよりも辛うじて前。指に掛かった槍を掴む寸前。又左の腹に肩から当たった。

 背から倒し腹に飛び乗って馬乗りの体勢を取り、新之丞は大上段にそれを構えた。


「鞘? そんなもので――」


 不思議そうな顔で見る又左は再び槍に手を伸ばす。

 だが新之丞は構わず振り下ろした。

 胸に当たる鞘は皮を掻き分け、骨を砕く――そこまでは力で適う。

 又左とてそこまでは想定内。

 鞘であれば必殺にはならない。何度も突かれれば命にかかわるであろうが。一度ではどうにもならぬ――と、余裕の笑みすら浮かべて槍を掴む。

 だが、煤宮の拵えには意味がある。

 鞘の先端――鞘尻にはコジリと呼ばれる金具が付いている。常ならばそれは鞘尻を保護するための用途で、また装飾としての意味合いしかない。

 新之丞の手にした鞘の先端のそれは無骨に角ばっている。武器を失っても、刃が折れても隠れて研いだ鋭利な牙が穿つ。

 牙は腹にめり込み、肉を削ぎ、臓腑を突く。ぐるりと回転させれば――手に確かな手応えがあった。

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