又左衛門

 夜の闇の下、新之丞は歩き続けた。

 川のせせらぎと、川を照らす夜空に導かれるように。

 風が散らした光は一筋の道となり、それに沿って夜を歩いた。

 岩を上り、茂みに突っ込み、時に腰を下ろして思い出したように水を飲み。

 そして、開けた河原に小さき男の突っ伏した姿を見止めて――


「――あそこか」


 河原の奥の道の続く山の上をにらみつけてつぶやいた。

 斧の傷跡きずあと残る木々の間を登り行く。

 不思議と獣の気配はしなかった。

 止まったとはいえ新之丞も血を流したし、河原の死体からも未だまとわり付くように血が匂っているというのに。熊はおろか、イタチも見ない。

――何故か

 というのはすぐに分かった。

 一刻いっこくも経たない内に開けた場所に出る。そこには小屋が建っており、明らかに人の手が入った場所だった。

 しかも小屋は複数で、最近使った後がある。

 木々の間に紐をつけて衣を干していたり、頭の落ちた魚を干したりしていた。

 逸る気持ちで自然と足取りは早くなる。敵がいるやもという気持ちがあったがそれでも抑えきれず、小走りになって小屋の間を抜けると――


「参ったか」


 男が一人居た。

 更に開けた場所、十坪はあるだろう切り開きならした平坦な場所。奥にある階段の前に男が一人居た。

 綺麗に月代さかやきを剃った小綺麗な格好の武士。やはり黒に近い濃藍の衣を身にまとうが、とても賊には見えない。背筋をしっかと立て、まるで番をしているような姿は城勤めと言われてもおかしくない武士が一人居た。


「それは返り血だけではあるまい――内からのも多分にあると見受ける」

「それがどうした? 怪我をしてれば通してくれると言うのか?」

「いや。怪我人を相手にわざわざ槍を持ち出させるとは――然全殿も人が悪い」


 その名を聞いて新之丞の身体の中に芯が通った気がした。

 腹の底から沸きあがる力が行き場を求めて口、鼻、耳から溢れそうになる。


「――居るのか」

「ああ、上にな」

「お主で最後か」

「最後――? さてな。其方そなたが何人その刀に掛けたか次第だ」


 出っ張った硬そうな額の下、奥まったぎょろりとした目は厳しく睨みつけてくる。

 落ち着いた口調の奥底に静かな怒気を感じた。


「四人だ」

「そうか――克士郎も茂吉も討たれたということか」

「最後か?」

「ああ――然全殿と顔見知りなのだな。ならば最後だ。身供みどもは――ここでは又左で通っている。得物がこれなのでな」


 右手に持った槍を掲げて穂先ほさきをゆるりと頭上で回して見せる。

 汗が背筋を伝り、肝が冷えた――槍を持っていると気付かなかったからだ。

 手に何か持っているのは分かっていたが、それが槍と分からない。つまりは新之丞の目に真っすぐと穂先を向けていたということ。

 動き歩く相手に、自らの得物を長柄ながえと悟らせぬ――ただ立っているだけでも分かる実力者、達人の域に居ようことは明白だった。

 最低でも兄弟子と同等、あるいは長谷野の域に達しているやもと思わせる。

 しかも獲物が槍であれば、刀との射程の差は雲泥うんでい

 ただでさえ不利な長柄を、力量差が明白な相手が使う。

 冷や汗が止まらないのも無理はなかった。


「しかし四人全員とはな。若い身空みそらでよくも鍛えたものよ。良い師に習い。良い仲間と切磋せっさしたのであろう」

「お主で五人となる」

「ふっ――出来ると思うのか?」

「出来るかどうかではない。やるのだ。やらねばならぬ」

「力の差が分からぬわけではあるまい。あたら命を散らすな」

「黙れっ」

「なるほど、其方の覚悟は分かった――では」


 そう言うと又左と名乗った男は頷いた。いや、又左の割れた太いあごうなずくだけでは止まらなかった。頷いた位置から更に顎を引いて行くと綺麗に剃られた月代さかやきを、油を付けたまげを見せ、尚そのまま頭を下げ続けて――


「どうか退いてはくれぬかっ」


 膝をついて、槍を置き、ついには地面へと出っ張った額を擦り付け土下座した。

 完全に無防備――のはず。刀のように槍にはそこからの作法があるのか。と疑念を抱くも槍は手から放されている。

――何も、何もないはず

 ならば斬るが煤宮である。格上が自らさらした隙を突かぬ道理はない。


「何を言っている? 襲ってきたのはお主らであろうが!」


 だが抜けなかった。左手でつかを押し下げ鯉口こいくちも切っていてなお、手は打刀と短刀の上で右往左往するだけ。


「ああ、そうか。そうだな。鉄治らのしでかしたこと。だからこの通りだ。幸いにも 無事なのだ。身供の頭でなんとか収めてくれ」

「違うっ、始めたのは山中やまなかだ! お主らはすっこんでいれば良かった!」

「分かっている。仇討ちだったな。ならやはり退いてはくれぬか」

「猶更退けるかっ!」

「お主も四人斬ったであろう。身供らの仲間を――それで手打ちとならぬか」

彼奴きゃつらも罪人であろうが。斬られて当然だ」

「違う、それは違う。いや罪は犯したが少なくとも斬られるほどではない」

「なら何故山で隠遁いんとんしている」

「行き場がないからだ。鉄治はああ見えて鍛冶の家系でな。厳しい父だったそうだ。あまりに厳しい修行、責め苦に耐え切れず刀を振るって暴れて逃げた」

「なら――」

「だが身供は調べた。誰も死んでは居なかった。鉄治の父も息子を奉行所に売ってはいない。手配すらされていなかったのだ。ただ帰ることは出来ずずっと山暮らしだ。為右衛門はただの喧嘩だ。川を下ったところで炭焼きをしていたのだがな。出稼ぎの石工と賭博で――あの巨躯であろう? 向こうに酷い怪我をさせたとあって炭焼きは続けられなくなって途方に暮れてここまでやってきただけだ」

「なら後の二人は! 好んで人を斬っていたのであろう」

「克士郎は試し合いの末と――」

「辻斬りであろうが」

「だが、受けたのも事実。相手をせねばいい。意味もなく斬りはしない」

「ではあの化け物はなんだというのだ」

「茂吉か――あれば狐憑きだ。望月の頃になると人を斬るのを我慢できぬ。だが性分 なのだ。奪うために人を斬って来たのでない。それにな、身供らが相手をすることでそれを鎮めることが出来ていた。そうでなけば炭焼きも石工も下の村だって――」

「だから、だからどうした! 山中やまなかが人斬りを止めていたから見逃せとでも?」

「分かっている。仇なのであろう。だが討つまでもないであろう」

「あるっ!」

「身供らは戻る場所などないのだ。もはや人里に降りることすら適わぬ身。名を捨て世俗せぞくを離れ――其方が手を下すことがなくとも死んだも同然の身なのだ」

「だが生きている。息をしているのだろう――足はついているのであろうがっ!」

「ただ生きているだけ、息をしているだけだ。人としての生を歩めぬ身だ。残されたのは武のみなのだ。共に剣を振るい、腕を磨くことだけが最後の道。その道の仲間を斬られた心中、忸怩じくじたる思い、そこまで鍛え、仇を追うお主ならば――」


 がりと音が響く。

 我慢の限界に達した新之丞の歯が欠け、口の中で鉄の味がした。


「それはお主らの罪の代償だろうがっ!」

「そうだ。だからその代償で――」

「収まると思うのか! 父母を斬られたのだぞ!? 命の他にあがなう術はないっ!」

「だがそこを収めてこその人徳――」

「笑わせる。何故お主のような奴は相手にばかり徳を押し付けるんだ? お主らが徳を持てばこうなってないのだ! 罪人如きが徳を語るんじゃあないっ!」


 打ち付けるように、怒涛どとうの如く、言葉をぶつけるように、半ば叫ぶ。

 だが又左は意に介さない表情で顔を上げた。


「――ならある」

「何をっ!」

「身供は罪を犯してここにいるわけではない。好んでここにいるだけ」

「――なら見ていろ。仇討ちに助力するのが徳のある道。黙ってみていればいいっ」

「それは出来ぬ。身供は然全殿と修行するためにいるのだ」

「私が討てば仇となるわけか? ははは、ならその時お主が我慢してみせろ! 徳とやらを見せつけてくれよ!」


 怒りを通り越し憎悪をぶつけられた又左はそれでも尚涼しい顔。いや何かを諦めた顔で小さく口から「もうしたのだ」と漏らした。


「もう――?」

「あると言ったのだ」

「四人を斬られたから見逃しているとでも言うつもりか?」

「もっと昔の話だ。まだ藩に仕えていた時の話だ」

「ふん、やはりそうか」

「ああ、さる西国さいごく城勤しろづとめであったのだが――暇を見てはこいつを振るっておった。道場だけで我慢できずに、諸国を回って山に籠ったりもしていた」


 そう言って何万と振ったであろう型で槍を操る。

 六尺を超える長柄。無駄な装飾そうしょくのない素鎗すやりとはいえ素早く力強く、斬った風が傷に響くほどの威力を持つほどだった。


「妻も子供も置いてけぼりだ。顔を見るのは年に何度かという程度。勤めの間に修行 いや修行の間に勤めかな。それだけだった。妻と子の顔をなぞ忘れてたほどだ」

「何の話をしている」

「ああ、すまぬ。少し懐かしくあってな。妻子とは別れたのだ。藩が潰れた時にな。

藩主に子の居らぬことすら知らぬ男だった。取りつぶしになることすら――確か妻に聞いたはず。それがまともな最後の会話だったなぁ」

「斬られたのか?」

「いや、違う。次の仕官先がなくてな、三行半みくだりはんを寄越せと」

「自業自得であろう」

「そう、身供が悪い。それは分かってる。だから斬ることはしなかった」

「誰を斬る? その話のどこに仇が出てくるというのだ?」

「ああ、すまぬな。妻が出ていく日に迎えに来た男だよ」


 と聞くと新之丞は半ば呆れた溜息を吐いた。


「その通り、見知った男ではあったのだがな。確か年は――どっちが上だったかな? 忘れた。ただ腕っぷしはからっきしで、算盤とご機嫌伺いの上手い奴だった。其方のようにすっと通った顎――身供と違ってな。妻も子もそうだった」


 又左は二つに割れた厳つい顎をしゃくって見せた。


「妻に似て良かったと――そう思っていたのだがなぁ」

「我が子ではないと?」

「ああ、知らぬは身供ばかり。笑い者であった。幾ら腕はあっても家は守れぬ時代。何をしているのかと父に叱られもした」

「――女敵討めがたきうちか」


 女敵討ちとは姦通かんつうした妻とその相手を討つことである。

 通常の仇討ちと同じく斬っても罪には問われることはない。

 面目を保つという点に置いて仇討ちと変わらぬ、特に武士なら避けられぬこと。


「女敵討ちと同じにするか、それもどう聞いても自業自得だ」

「そうだな。自業自得だ。己の業は己で得るもの。お主のは違う。父の業であろう。 その業に身を焼かれる必要はない」

「ふざけるな! その業に巻き込んだ奴が上にいるのだろうがっ」

「殺す必要はないと言っている。討ったあかしが居るならば、刀と耳の一つで良かろう。 貰って来る。身供の命を掛けても貰って来よう」

「そこまで――そこまでして生かしていたいのか。ならば大人しく首を出せっ!」

「どうしてそこまで死を望む」

「最初に殺したのは奴だろうが!」

「殺さねど立つ瀬はあると言っている。身供とて妻も子もあの男を目の前にしても、 今なら平静を保つことが出来よう。ときが解決することがある」

「そのために山に籠れと? すべてを捨てて山に籠り修行し――平静を保てるだと? 違うな。お前はただ諦めただけだ! ただ心に何も映さなくなっただけだろうが! 私は――俺は、そんなもの御免被る! 俺は討つ! 仇を討たねばならん!」

「何故分からぬ。こうまで言っても分からぬというのか」

「お前に何が分かる! 仇を討たずに進むことを止めたお前に進む俺の何が分かる」

「勝てぬと言っているのだ。ここまでで満身創痍のその程度の腕では然全殿はおろか 身供にすら勝てぬ。ただ命を捨てるだけだ。それでも――」

おごるなよ。すべてを諦めた者に負ける道理などありはしない」

「相分かった――そこまで言うなれば覚悟せよ。又左と渾名あだなされる身供の槍にお主の 凶刃、届かぬと知れっ」


 猛々たけだけしい将のような面構えと押しつぶさんばかりの大きな圧力。

 又左の槍はその身の丈と等しく約六尺。対する新之丞の刀は刃長二尺と鞘をあわせても半分にも満たない。

 戦においてこの差は致命的である。

 攻撃できる距離が長ければ強いのは自明の理。

 槍より弓と鉄砲、弓と鉄砲よりも大筒おおづつと時代が下れば武器の射程も長くなるもの。

 刀と槍にもその理は適用される。

 だがしかし、いやだからこそ勝機があると新之丞は考えた。

 槍は刀より長い。だからこそ先に攻撃せねばならない。懐に入れば取り回し安い刀に利があるからだ。

 幾ら相手が格上でも、幾ら相手が長柄でも

 煤宮が十全じゅうぜんに使えるならば――






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