思い出

 夕闇ゆうやみの中、山道やまみちを新之丞は歩いていた。

 山の陽はつるべ落としのように、少しかげればすぐに落ちてしまう。

 茂吉の死体を後にして。来た道――と思われる、血の臭いのする方へと。

 小さき克士郎の、大きな力士の倒れた崖下を超えてまた歩く。

 右脇腹を抑えながら暗くなってきた道を歩いていた。

 辺りは暗くてもだる熱気の中、血の失われ続ける中、汗すら出なくなる中を乾く喉を癒すのも、血を止めるのも忘れるほどに呆然と――それでも仇の元へと。


「っっっ!」


 木の根だったであろうか。いや疲れただけであろうか。

 新之丞は何かにつんのめって地に伏せた。

 腹に鋭い痛みが走る。打たれた場所かと重い身体を転げるように起こす。

 だが起き上がることは出来ずに仰向けになると、刺さっていたのは根付ねつけ

 木彫りの鳥の、その小さく尖ったくちばしが腹に刺さって痛みを覚えた。

「このっ」と苛立ちを覚えたのは一瞬だった。

 根付は印籠いんろうおびつなぐ道具であるから――印籠は薬入くすりいれの道具であるからだ。

 自らの傷、右脇が痛みそれを捨てるなと要求してきた。

 『痛い内は生きている』という師の言葉。

 だが同時に『ずっと痛ければ死ぬがのう』と笑って言った。

 だからとこれを渡された。腰の大小と衣服と帷子かたびら、鉄を仕込んだ手甲。装備一式ととともに渡されたのがこの印籠である。

 この根付を投げる手を止めて紐を緩めた。


「確か――血止めが――あったっ」


 印籠は上下に貫通する紐を緩めれば三つに分かれる。

 その真ん中の段に白い貝殻に収められた黒い軟膏なんこうがあった。

 師曰く『常陸ひたちの国の妙薬――ガマの油である』

 もっとも新之丞にそれが本物かは分からないし、効くかどうかも知らない。

 ただ傷の痛みにせっつかれるように上をはだけた。

 帷子の右わきには酷い傷があった。帷子に穴を開け、内側にへし折れた鎖の一部が肉に埋まった傷が。


「――血が止まらないはずだ。この――くっ」


 帷子は前の合わせ金具で止めているだけで簡易に着脱できる。が、金具が硬まっている。乾いた血が強固にしてしまっていた。

 新之丞は元来器用ではない。挙句に左手の指はひんまがっている。この手の金具は実に苦手だ。

 悪戦苦闘しながらようやく金具を外すと、剥ぎ取るように脱ぎ捨てた。


「よし――後は」


 貝殻から黒い軟膏を左手に取る。右手は埋まった鎖に当てて息を大きく吸った。

 気合いを付けて引っこ抜いた――瞬間、膏薬を塗りこむ。

 覚悟をしたわりに不思議と痛みはそこまででなく、またみもしない。

 ”良薬口に苦し”なら”良薬傷に痛し”ではないのか。と不安にもなる。。


「大丈夫――大丈夫だ。ガマの油だ。血くらいすぐに止まる」


 このガマの油は江戸で手に入れたらしい。江戸で常陸の物を手に入れるという回りくどいことをしたのだからその効果のほどは確かであるはず。

 『大丈夫』と念じながら脇を抑えて、近くの木の幹に身体を預けた。


――これからどうするか


 満身創痍まんしんそういで更に最低二人は残っている。

 挙句に山中やまなかは茂吉より上――でなければあの気性だ。既に首がないはず。

 だから居る。まだ居るはずだ。

 刺客しかくを送り込んでくるならば逃げてはいないはず。

 居場所は分かった。生きているのも分かった。

 一度退いて体勢を整える。それが煤宮の作法であろうか――


 脳裏のうりぎるは弱々しい考えばかり。

 ただ天運があったのも確かだった。

 克士郎も茂吉も十回立ち会えば五と言わず、三回程度しか勝てぬであろう。


「どう――する――か――」


 気付けば夢の中だった。

 子供の頃の夢――あの夏の夜の後の長谷野の顔を見ていた。

 なんとか笑おうとして無理にひん曲がった眉が、悲痛ですらあった長谷野の顔。

 それは父母の弔いに親類縁者が集まった後、屋敷に取り残された幼き日の新之丞に向けられた顔――泣きそうな顔だった。

 新之丞が一人残された理由は単純だ――父方も母方も嫌がったから。

 母方の祖父、坂上さかがみなにがしは幸か不幸か男に恵まれなかった。

 そのせいか、元からの気性か祖父は金使いが荒かったと聞いた。たかが地方の郷士ごうしごときの収入では満足に生活することが出来ぬ程度には。

 結局家財も屋敷もすべてを借金のかたに取られ、残ったものと言えば妻と娘。

 それらを質に入れたくとも貰い手もなく、最後に手を出したのが士分しぶんであった。

 果たして”坂上”が売りに出された。

 だが借金だらけの郷士の名にまともな買い手がつくはずもなく。

 仕方なく手を広げて探してみたら、煤宮の新助しんすけという若い男が手を上げた。

『近々剣術道場を開くのだ』

『そのためにはくが欲しくてな』

『農民相手の田舎剣法と呼ばせたくない』

『是非に!』と頭を下げたのが後の坂上典心――新之丞の父である。

 もっとも新助とて金はない。

 名の売れた剣士というわけでもなく、貧乏農家の三男でもある。

 幾ら若くして皆伝したといえ、煤宮では出せる金もたかが知れていた。

 そこで頼ったのは新助の本家で新之丞からすれば大叔父の家である。

 大叔父は呉服屋を営み、金はある。だがケチである。

 それに新助はいちいち家に口を出す大叔父を嫌って出てきたとも言う。

 そのう上新助は家を出た身。恥を忍んだだけでは大叔父の首は動かなかった。

 『身内から武士が出るならば』『立身りっしんあかつきには商売の足しになれ』と約束させられ金をようやく用意。

 そうして坂上を買い受けに行けば、一つ条件が付けられた。

 『娘をめとれ』という条件である。

 それは婿に入って家を譲るという意味ではなかった。

 この金では物足りないから、無駄飯食らいを押し付けたのだ。

 新助はそれを呑んで坂上典心と名乗った。

 だから新之丞は置いて行かれた。いや捨て置かれた。

 元より義理や人情に遠く、金だけで動く親類であれば。

 のけ者だった父と、あまり者だった母の子であれば。


『でかくなって家督かとくだなんだとわめかれちゃ適わねぇな』

『七年しか持たぬとはな――やはり新助に金を出す価値はなかったか』


 祖父はせっかく戻って来た士分をまた売りたい。

 家督を継ぐと主張しかねない子供は邪魔。

 そう吐いて供養もせずに――

 大叔父は金を出した身。なのに士分をよこせと言っても貰えない。

 新之丞を育てたとて家督を奪う正統性にならない。

 そういって六文銭ろくもんせんを投げて寄越して――

 双方共に『要らない』と捨てて帰った。

 ともに当主が『要らぬ』と言えば一族は逆らえなかったのであろう。

 故に新之丞は様子を身に来た父の師である長谷野によって拾われた。

 とはいえ長谷野も妻を失くした一人やもめ。道場の先行きは暗澹あんたんたる状況では引き取り育てることは難しい。

 そこで白羽の矢が立ったのは二人いる娘の内の上の方。荻野新宿おぎのしんじゅくの街道沿いに店を構える『天水屋あまみずや』と言う小間物屋こまものやとついだ娘に預けることにした。

 主の喜助きすけは名の通りの何でも笑って喜ぶ男、この時も喜んで二つ返事。

 天水屋には既に三人も子供がいるのにも関わらずだ。

 もっとも長男は元服げんぷくを済ませてあきないの手伝いで行商ぎょうしょう。家には滅多に帰って来ない。次男は昨年に奉公ほうこうに出て行った。

 残るは長女。一人残され寂しくしているとあって、むしろ相手が出来て喜ぶ。そう言って主の喜助と妻のくらは二人揃って喜んだ。

 とはいえ新之丞は不幸のあった子。長谷野も押し付けるようで気が引けた。

 顔合わせで気に入れば、という話でまずは引き合わせた。

 だがこの時の新之丞は陰気を通り越して鬱々うつうつとしていた。一言も発しない。


『本当に良いのか?』

『あんなことがあったんだから――当たり前ですよ』

『なーにすぐ笑わせて見せますよ。はっはっは。あ、笑っちゃ悪いか?』


 と何も気にせず、暖かく迎え入れてくれた。

 扱いも実子同然で、寝床も食事のぜんも同様に並べる。

 だが新之丞は頑固であった。

 どこぞの店に世話になるならそれは奉公であると考えるに至る。自らを丁稚でっちと理解し扱いもそうであるように求めた。

 土間どまで寝起きし、食事も座敷に上がらず摂った。出来得できうる限りの手伝いも申し出て水汲みずくみや簡単な使いをして過ごした。

 一月ひとつきってもそれは続いて、幾ら言われても土間が自らの居場所と譲らない。

 ただ、それでも夫妻は元気になっていく新之丞の姿にどこか楽観視していた。

 もっとも何も言えないように、言われないようにふるまっていたのだが。

 そんな新之丞の異変に気付いたのは娘のかやであった。

 自分より下の子が出来ると聞いて初日から新之丞に付きまとう。


「はじめまして、なんていうの? なん歳?」


 右手の指五本を開いて見せればわざとらしく『おない歳なんだ』と喜んで見せた。

 更にかやが三か月先に生まれたと分かるとお姉さんぶった。

 女子の方が大きくある年頃であるのに、この時のけして大きくない新之丞より背が小さいのにも関わらず。

 お姉さんぶって新之丞の世話を焼いた。


「上がって食べようよ」

「こっちにゴザ引いたから」


 などしつこく新之丞を誘い続けた。

 さらに新之丞の水汲みや、近隣への使いにも人知れず――ばればれであったが――後を付いて来る。

 新之丞を守るようにしていた。恐らく兄たちがそうしてくれたように――

 だから新之丞がうなされていることに気付いたのだろう。

 毎夜訪れる悪夢にうなされてはすぐに目を覚まし、目を閉じればまた悪夢。朝までずっとそれが続くものであるから疲弊もする。

 それはこんな夢だった。

 新之丞は気付けば真っ暗な場所に居た。右も左も天地も分からない。陽の光も月の灯りも届かぬ暗闇。何も見えない暗黒に閉ざされた場所に居た

 しかし何も見えないはずの地にしゃれこうべが二つ。

 雌雄一対しゆういっつい、二体の頭骨とうこつが足元に現れる。

――揺らぐ

 あごがカタカタとなるとずいと新之丞の顔を目掛けて登ってくる。

 足元でおどるようにカタカタと揺らぎながら登ってくる。

 ずるりと暗黒から頸椎けいついを引きずり出しながら登ってのだ。

 後ろに走ろうとしても振り向けない。

 足を後ろに退こうとしても進まない。

 慌てふためき、振り払おうとしても逃げられない。

 おそれ、おののき、叫び声を上げようとしても声は出ない。

 ずるり、ずるりと音がして。

 肩、肋骨ろっこつ骨盤こつばんまで現れて。

 ひざもも、腰と這いずる。

 カタカタカタカタ震えながら。

 懸命に振り払おうとしても払えない。

 水の中のように身体は重く、鈍く、動けない。

 二体の骨はやがて腕を取り出す。

 手の指が生まれ、新之丞の腹を引っかきながら登って来る。

 不思議と痛みはない。

 ただ痛いほどの焦燥感と怖いほどの熱感で、声にならぬ叫び声を上げる。

 カタカタカタカタと顎を鳴らして登って来る。

 ざわざわざわざわと全身の骨を揺らしながら登って来る。

 カタカタカタカタと何か言葉を発しようと顎を開け閉め。

 ざわざわざわざわとやかましくて聞こえない。

 どんどんどんどん近づくしゃれこうべに――呑まれた。


 目が覚めれば汗でびっしり、心の臓は早鐘はやがねを打ったよう。それでいて全身が凍ったように動かない。また目を瞑れば同じことの繰り返しであった。

 猶更なおさら新之丞の気は沈み、心配させぬように明るくふるまっても見せる。

 喜助とくらに気付けと言うのは無理な話。気付かせぬようにふるまうのだから。

 されど悪夢は襲い来る。

 ただ恐怖に耐え、土間でうずくまる日々。

 夜は目を瞑るまいとしていても気付けば悪夢の中に落ちる。

 だがかやは気付いた。

 土間で寝ているにも関わらず、声も上げぬようにしていたのに。

 ある夜目覚めると、目の前にはかやの顔があった。

 頭にはかやの手があり、ゆるりと撫ぜる。

 いつもそうした。

 何度夢を見てもそうしてこう言うのだ。


『大丈夫』


 新之丞は耳に触る風の心地良さで目を開いた。

 近くに沢があるのか、水気を運ぶ清涼な風が心地いい。

 陽はすっかり落ちて空は暗い。優しく光る丸い月が一つ、いやに目立っていた。


「寝ていたのか――一体どれくらい」


 頭を振ると、いやに冴えているのが分かった。

 右脇の傷の血は止まっている。

 手にも足にも不思議と力は戻っていた。

 ゆえに冷静に判断が出来た。

――退くべき

 煤宮であれば――いやそうでなくとも。夜の敵中に居るべきでないことは分かる。

 まだ何人残っているか分からぬ上。鼻の利く忍もいる。

 身体は戻ったとはいえ、満身創痍に変わらない。突かれた場所から半ば裂けかけた帷子は役に立たないだろうし、左手も使い過ぎて仕込んだ鉄は落ちてしまっていた。

 だから新之丞は膝を立て、はだけていた上を戻して衣紋えもんつくろい、印籠も付け直し、刀も差し直した時までは退くつもりでいた。

 逃げられるかもしれない。だが街道に出られぬ山中やまなかの行ける場所は限られている。此度こたびは仲間を削っただけも良し。

 そう考えていた。

 強い風がまた吹いた。

 空の雲はいやに早く流れ。遠くの木々が鳴った。

 ざわざわざわざわと木々の葉擦はずれの音が近づいて、雲はついに月を覆い隠す。

 ざわざわざわざわという音が通り過ぎると新之丞はすっくと立ち上がった。

 川の上流、山の上にあるはずの根城ねじろに目を向け、足を踏み出し――呟いた。


「――分かっております」

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