剛抜刀術

 刀を振りかぶり木から手を離す。

 中空ちゅうくうに踊り出る身体、もはや打ち取るのみ。

 化け物のほっかむりに向け落ちた瞬間――くるりと首が回った。

 まるで待っていたかのように、頭が不自然に回り、何も映していないような瞳が、あべこべに動いて、新之丞を捉えた。

 もはや落下は止められぬ。

 もはや振った刀も止められない。

 ならば早く、早くあの頭にやいばを突き立てなければ――

 だが一向に身体は落ちない、一向に刀は進まない、一向にときが過ぎない。

 慌てた新之丞を見透みすかしたように異様に大きく、目元まで口が開いて笑う。

 笑みのまま茂吉の身体はぐいと真横に折れて行く。

 もはやそこは刃の軌道きどうの外。

 あわれ新之丞の刃は空を斬る――

 風を斬る音。脇腹に衝撃。新之丞の身体は未だ中空のまま、真横に吹き飛んだ。


「ぐぉふっ、な、何――が」

 

 新之丞には何が起きたのかわからなかった。

 刀が空を斬ったと思ったら、次の瞬間には地に伏す。全身がバラバラになりそうな痛みに襲われ、息が止まりそうになり――右脇に鋭い痛みが走った。


「エフエフエフ、風もないのにそんなゆゆゆ揺れ方しない。登ったのが丸分かりだ。 浅知恵あさぢえって言うんだろ。エフエフ、おまおまおまえさては頭が悪い」


 右脇に手をやればぬるりと滑り、痛みに顔をゆがめざるを得ず、脂汗あぶらあせも流れる。

 何故血が出たのか――それが分かったのは何故か回っている茂吉を見てだった。

 勝ち誇りながら何故か足を延ばして舞っているようにクルクル回る。

 手に持つ鎌もクルクルと回す、その左手の鎌の先――血が付いていた。

 鎌で刺された、吹き飛ばされたのは蹴りだろうか。そうでなければ息絶えていてもおかしくはない。

 どの道、やはり化生の仕業としか思えなかった。


「エフエフエフ、首首を、首を、エフエフ。オマオマオ前の首をヲォォォ!!」


 尋常ならざる化け物の、尋常ならざる咆哮ほうこう

 山は応えるようにざわめき、陽も逃げるように傾き始めた。

 新之丞の身を震わしたのは血が足りぬからというだけではなかった。

 自身を取り囲む濃い死臭が紫煙しえんのように見えるようだったから。


「ココ、怖いカ?」

「お主は山中の仲間であるのか」

「ナナ何、一瞬ダ。首を断てば、イイ一瞬でける。ココ怖くない。怖くないヨ!」

「――ああ」


 やはり話にはならない。

 狐憑きつねつきを見たことも会ったこともないが、恐らくこんな問答になるのだろうと納得がいった。

 そしてそうであるならば口働きは効くわけがない。

 もはや走って逃げることも出来ない。

 いや、元気の有り余って居た時でも逃げ切れなかっただろう。

 新之丞が幾ら力を込めて蹴ったとしても、ここまでは飛ばせない。

 身体の強さでも間違いなく負け――いや、鎌を受けている時から分かっていた。

 あの高さを落下してすぐ戦える、まさに化け物じみた身体能力。口働きが通じない知性。受けを許さぬ多彩たさいな攻撃――


「エフエフエフ、マダ立つのか。オマオマオ前じゃオデには勝てなぁぁい! ワ技も チチ力も、アアア頭もオデがウウエ上ウエェェ!」


 言うことを利かない身体を叱咤しったし、足に力を込めて刀を杖にして立ち上がった。


「であろうな。身に着けた技は通じず、作り上げたこの身体すらも上回られ。挙句に足も体力までもだ。確かに考えれば考えるほど、お主には勝てぬ――」


 ――だが、左腰にはまだ短刀と鞘がある。

 そして右手の刃は未だ健全。赤く染まり始めた陽を跳ね返す姿は当初のままの荒波の飛沫までも勢いを保っていた。

 あれだけ受けに使っても、未だ刃こぼれ一つない。


「――煤宮ではな」


 だが武器はもう一つある。

 頭の中から引っ張り出したとある画。

 かつて師に一度だけ見せて貰った――ある技を。

 かつて父に叱られながらも盗み見た――脳の奥底に眠るはずのある技を。

 

「エフエフエフ。ナ何だ。刀を締まって。ねねね年貢の納め時って言うんだ! オデ しっとるで! エフエフエフ」


 煤宮一伝流は納刀のうとうの状態を構えとする。

 居合いあい抜刀ばっとうちと呼ばれる技を基本にえた実に剣術らしい剣術。

 立ち姿には美意識もあり、礼法に通じ座敷にも似合う。

 それが何故煤宮の名を残しつつも流派を名乗るに至ったのか。 

 それは一伝流の抜刀術は受けから始めるからである。


「――来い」


 化け物から目を反らすために目を伏せる。

 深く息を吐き、心を落ち着ける。揺れた刀で成る技ではない。

 師の長谷野はあらゆる受けを弟子にさせるため、あらゆる技を学んでいる。

 若い時分から出稽古でげいこを繰り返し、自ら技を受けて来る。そして使えるように修得し弟子たちに受けさせる。

 刀だけでなく槍も弓もまさに武芸百般ぶげいひゃっぱん

 新之丞よりも長い付き合いの兄弟子が『どれだけの技を持っているのか分からぬ』と言うほどの数を持っている。

 その師をして『完全に使えるわけではない』と言う。 

 元来煤宮にあってはならぬ技巧のかたまりのこの技を、皆が寝静まった後に練習した。

 新之丞は技が達したとは思えたことはない。名に反して力でなく高い技量を要するこの技の要訣ようけつすら掴めなかった。

 恐慌に近しい状態でどうにかなる技ではない。平静であったとしても成功の可能性は極わずか。

 あの日よりも精進を積み続けた今であれば。人を斬り死地を知った今であれば――と、縋るような気持ちすらを捨て去るために目を閉じた。


「エフエフ――」


 新之丞の様子に何かを感じたか、獲物を品定めする猛獣のように静まった。

 新之丞を遠巻きに回る足音だけが響く。

――早く、早く来い

 新之丞の血は流れ続けていた。

 右脇から腹、腿を通じて足の先まで濡らし、それでも化け物は動かない。

 獲物の傷を見定めているように右往左往。一歩たりとも近づいてこない。

 血が抜け切るのが先か、首を欲する化け物の本能が耐えきれなくなるのが先か。

 勝ったのは新之丞の理性であった。


「キシャーーーッ!」


 轟と音が鳴った。

 遠くから木々のざわめきが近づいてくる。

 風が来る。山を降りて、登り、沢を渡って風が来たる。

 一際大きな風が、蝉を羽ばたかせて、木々を折りかねない強い風の中――動いた。

 同時に目を開けば、地獄の悪鬼も裸足はだしで逃げ出す凶相きょうそうが迫る。

 その姿を捉えて、十分に待って、足が、手が自然と動き――刃を走らせた。

――少し遠いか?

 と思っていても身体が動くに任せた。

 その技の理屈は簡単だ。

 『満身の力を込めて、抜き打ちの速さを殺さない』

 ただそれだけ。もっともそれが難しい。

 力を込めた抜き打ちでは早く振ることは難しい。

 だが抜刀術は後の先の技であれば、力を込めたままに素早く振らねば成らず。この相反する要素を同時に達成するために強い身体がいる。

 まるで矛盾のように相反する要素を同時に満たさなければ成立しない。

 速さだけでも、力だけでも達することのない技。


「っっおおぁああぁっ!」


 新之丞は自然と化け物じみた獣のような咆哮を上げていた。

 化生の本能が声に怯えたのか、技の威力が見えたのか、両手の鎌を守勢しゅせいに回す。

 刀は硬い。だがそれは縦の衝撃にのみ、よこつらを叩けば軽い鉄甲の一撃で割れる。

 これはその理すらぶち破る一撃。

 一寸の狂いもなく刃を立て、出来得る限り早く、限界まで力を込め叩き込む技。

 技れば例え叩かれ鍛え上げられたはがねであろうとも、はがねの強さを超える威力で、はがねの粘りを超える速さでぶつければ――鋼刃こうじんを断つのだ。

 ゆえに名に似つかわしくない技量を求められるこの技はごうの字をかんするのである。

 その技は剛抜刀術ごうばっとうじゅつ――かつて父が編み出した技である。


「出来た――」


 はたして成った剛抜刀術によって化け物の両腕ごと鎌は砕け散る。

 余った勢いそのままに刃は化け物の首筋を通り抜ければ――喉の奥から潰れされた虫のような音を立て、立ち上る黒い血飛沫ちしぶきと、ドス黒い死臭の中。


「アーーア、ヒュン」


 どこか間抜けな表情で、どこか間抜けな声を上げて茂吉は果てた。

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