茂吉

 新之丞は横に倒れると、転がるようにして大の字で仰向あおむけけになった。

 断崖だんがいで半分になった天を仰ぎ、息を大きく呼吸をする。


「――強かった」


 雲一つない空に、断末魔の木魂が溶けて消えた。

 待っていたように短い生を謳歌おうかしようと懸命に鳴く蝉の声が鳴り頭を押さえた。

 日に三度目の戦い。初めての真剣勝負の上、炎天下であれば頭が痛くもなる。

 疲労を感じて当然。少し休もうと木陰に移動を考えたが――それはかなわなった。


「カ、カツシロォォォォォオオッォォオッッッ!」


 青空をつんざく濁った叫び声。身につまされるような悲痛さと力強さが山を駆ける。

 木々を通れば枝を揺らし、葉を散らす。

 耳に突き刺さり、頭を中が震えたかと思った。

 崖すら揺れて、ぱらぱらと石がいくつも落ちて来れば。

 蝉たちも沈黙を選び、慌てるように一斉に逃げ出した。

 声の元凶はどこか。反響はんきょうしつづけ、残響ざんきょうが重なり、音の出所でところが分からない。

 身体を起こし、刀に手をやり周りを警戒する――と、目の前の木が爆発した。

 木の幹が破裂し、枝が吹き上がり、葉が舞う。

 その勢いたるや新之丞の飛んできた枝の破片で頬を裂くほど。


「上から――?!」


 思わず当惑とうわくした声が出た。

 その木が受けた衝撃、地に落ちた感触、どれも上からと言っていたからだ。

 そして上にあるのは崖――鎌倉かまくらの大仏三つ分近くはある上からである。

 何が何やら分からなかった。


「岩か?」


 上を見るも人の姿はない。

 やはり何が何やら分からなかった。


「ウォォォォォォォン!」


 狼の遠吠え――だが人間の声であった。

 爆発した木の上げた土煙の中からである。

 人が落ちたにしてはこの高さは高すぎる。

 人が落ちたにしてはこの衝撃は大きすぎる。

 人であるならばこれでは死んでなければおかしい。

 であるなら何か、人の声を叫ぶ者は人かはたまた。

 死んでいなければそれは――


化生けしょうか――?」


 土煙つちけむりから現れたのは農夫。ほっかむりをした農夫のようにも見える格好。

 だが農夫ではない、人でもないと分かった。

 目が怪物かいぶつ。濁り切った目は焦点が合ってない。人の目であるならば、それはどこも見ていない。

 口が畜生ちくしょう。尖った牙のような歯をのぞかせ、よだれを垂らし続ける。

 血が人外じんがい。流れ出た血はドス黒く、汚物を詰めこんだズタ袋に穴が空いたよう。

 ならばこれは化生か怪異かいい妖怪変化ようかいへんげ

 とてもこの世の者とは思えなかった。


「首ガ、アアア! オデがオデが――オオオォォォ」


 地獄の底から響くような声は近くで聞けばもはや鈍器。

 その響きが耳を叩き、頭を揺らし、吐き気すらもたらす。

 だが自らを襲うその痛みに新之丞は動ずることはなかった。

 目の前の光景の異常さの不快感が遥かに高かったからだ。


「カ、カツシロ、カツシロォォォウォオウォォ!!」


 長い舌を使って克士郎の首をしゃぶるように舐め回す化け物の姿に、新之丞は何も考えることが出来ないでいた。

 逃げるべき、と当たり前の思考が出来ないでいた。

――地獄かここは

 と一瞬考えるほど、いやようやく思考が回った時には遅かった。


「アウアウアウアァァ!! オ、オデが、斬るハズだったのにぃぃぃ!! オマオマ オ前!! オ前のセイがぁぁぁぁっ!!」


 灰色の肌を露出した、異様に長い手足が鞭のようにしなる。

 新之丞の思考がまた巡るようになったのは、肩あたったそれと目が合ってから。


「く、首――?!」


 克士郎であったもの。

 黄色がかった唾液で塗れた克士郎の首が肩にぶつかり地に落ちた。

 鼻に付く鉄の錆びた匂いと、どこか甘くそれでいて鼻が曲がるような嫌な臭い。

 落ちた首からただよう、吐き気をもよおす香りは死臭。

 既に二人死したこの場所であっても更に強烈に主張してくる。色がついたようにはっきりと違いの分かる。もっと邪悪で濃い瘴気のような死臭が唾液からただよった。


「エフエフ、オマオマオ前の首も細くてイイナァ、白くてイイナぁぁ!!」


 どこも見ていないような目と目があった。

 へびにらまれたかえるのように、身体は硬直し動かない。

 茂吉――そう呼ばれていはずの化け物の両手が大きく後ろに旋回し、両肩が外れたように背まで回る。化け物、あるいは蜘蛛のように異様に長い手は肩から背を通って腰にまで届いて戻ってくればそこには鎌が握られていた。

 鎌――草を刈るための道具であるが、鎖と分銅を付けて武器とする場合もある。

 だが茂吉という怪物は両手に備え、異様に長い手を鎖のように揺らしていた。

 そして腕を折りたたみ、蟷螂とうろうのように構える。


「ヨコセェェェェ!!」


 克士郎よりも起こりは大きく、勢いもない。

 が、虫が如く硬質こうしつ俊敏しゅんびんな動きは新之丞の埒外らちがいの動き。

 前に出て来ているとも分からなかった。しなる腕の肘の裏から鎌が現れて、やっと身体が反応した。

 両方からの鎌、下がるには遅い、狙いは首――腰を引いて上体を頭を下げる。

 と、風が頭頂を撫ぜて髪が数本舞ったのが分かった。


「シャアアアア!」


 頭の上すれすれを超えた鎌。

 だが一度避けただけでは止まらない。

 獣か蛇か蟷螂か、どんな声も当てはまらないであろうこの世の物とは思えない声で叫び続けた。

 声を出しながら、手を止めず、いつまでも前に出ながら、どこまでも鎌を振るう。

 息が続くのは何故か、疲れないのは何故か。

 そしてどこまで手は届くのかと。

 長い両手から繰り出される連撃は、横、縦、下とありとあらゆる角度からくる。

 下がっても下がった更に後ろから届く。

 新之丞の手と刀を合わせたよりも、長い手に、尋常ならざる手に翻弄された。

 挙句にそれが二本であれば、もはや目も頭も追いつかない。

 故に身を任せた。

 身に付いた煤宮に任せた。

 受けばかりの立ち合いで鍛えた煤宮に。

 本気の師に追われたこともある。

 兄弟子には死を感じるまでも追い込まれたことがある。

 伝助との二人で狙われたこともある。

 それはもはやこの身に刻まれた本能であれば、目も頭も必要ない。

――例え化け物が相手でも受ける。 


「アアアアアアアアアッッ!!!」


 左手の鎌は右手の刀で、右手の鎌は仕込んだ鉄甲でそれぞれさばいて行く。

 発狂したような唸り声はずっと響く中、ただただ捌いて行った。

 獣のように遮二無二、蟷螂のように直線的に、蛇のように狡猾に。

 途切れることなく叫びを上げながら腕は回って、鎌は舞う。

 弾けば火花散り、声に混じって唾が飛ぶ。

 ただただ、何も考えずに躱して捌いていた。

――問題ない

 速さと変則に慣れれば、人の反射でも追いつく程度の攻撃。

 獣のような声と虫のような動きであれば、頭脳も相当にしかない。

 異様に執着を見せる首に気を付ければいい。もっとも鎌の小さな刃では、急所でも貫かれなければ決定的なことは起きない。

 だが左手は良くなかった。

 小さい鉄で受けねばならない横からの攻撃。多少は傷を受ける。

 手甲が切れ、仕込んだ鉄が脱落しかねない。

 故に前に進む。

 決着を付けなければ何れ詰む。

 それに長い手は内に折りたたみづらいであろう。

 そう考えて足を前に、踏み出すと――。


「エフエフエフッ!」


 腹に衝撃が走った。

 それが足で蹴られたと認識出来たのは、吹き飛ばされた後だった。

 不気味に笑う茂吉の顔の前のわらじの底のような足の裏が見えたから。

 

「ぐふっ」


 衝撃は帷子を突き抜け、痛みとなって腹を駆けた。

 ただの蹴り、たが新之丞の身体を身の丈の倍以上も吹き飛ばす威力。

 満足に食事を取っていたならすべて口から出ていたであろう。

 天から落ちても問題なく動ける頑丈さと、異様に伸びる手と、尋常ならざる足腰。

 それらを加味した新之丞の煤宮の判断は――逃走である。


「エフエフエフ! 追い掛けっこ!」


 だがその判断は遅かった。

 最初から逃げておくべきだった。克士郎にとどめを刺したら逃げるべきだった。応援を呼ぶ叫び声を上げていたのだから。

 後悔は先には立たないという言葉の意味を噛みしめたのは走って少し経ってから。

 なぜなら、逃げ切れないかったから、むしろ追いつかれていた。

 連戦に次ぐ連戦で疲れは確かにある。だが、足腰の体力に絶対の自信があった。

 だが追いつかれている。

 即ち山道を走る速さで負けている。得意の山道で、である。


「キャッキャッ! マ待て待テェェ!」


 故に恐怖。真夏の山を駆けながらも背は冷たい。

 追いすがる声が近づくと、狂ったように足を回した。

 が、それでも振り切れるわけもなく。

 背、いや首筋に茂吉の匂いを運ぶ風を感じる距離まで近づかれる。


「マ待って待っテ!」


 何故か声が遠のく。

 安堵もつかの間、また近づいて来て、また首筋に風。

 チクリとした痛みが走り、また差がついた。

――まさか

 怖気のある不安。

 耐えきれず、遅くなるのも構わず手を首に伸ばす。

 だが何もない。あるはずの物も何もかもそこにはない。

 髪が切られていた。結び目からすぐ下のところにあるはずの髪がない。腰近くまであった髪がいまや首の所までしかない。

 何にも触れられなかった手が首にたどり着くと滑りがあった。

 チクリとした痛みの正体は血。まだ生きている以上、恐らく皮一枚のみ。

 だからこそ怖気があった。

 最初は髪、次は皮、どんどんと近くなってきている。

 果たして次はどこまで斬られるのか――


「ツ次、ツーギ! キャキャキャ!!」


 遊ばれている。近づいてきている。

 涼しい首筋のお陰か、恐怖のお陰か、足は限界を超えて回った。

 飛ぶように坂を駆け下り、やぶに突っ込み、倒木を飛び越え、木の間を縫うように少しでも引き離せるように足を回し続けても――


「マ待て、待てマテマテ!!」


 逃げ切れない。

 子供のように無邪気に、邪気しかないようなあの顔が見えるよう。

 もはや残された選択肢はただ一つ。

 斬らねばならない。

 殺さねば止められない。

 打ち倒さねば終わらない。

 だが、体力で負け、肉体で、心でも負けている。

 ならば残された道はただ一つ。

 その一つに賭けるために、自らを奮い立たせるために一度足を緩めた。


「ウヘヘヘヘェェ、ア、諦めタノカァァ」


 新之丞が緩めれば、茂吉も緩める。手の届く範囲にあれば一度止まって首を狙う。

 それが道理。

 幸い茂吉の手が届く範囲は分かった。強すぎる死臭が振り向くまでもなく居場所を教えてくれる。


「首首首首!! ジャア首ダァァァ!!」


 声も付いた――その瞬間に新之丞は飛び出した。

 首を掠める鎌を感じながら、首筋の傷も確認せずに駆け出す。

――あそこまで、あそこまでっ

 目は一点を見つめて走った。

 そこは森、遠くからでも分かるほど大きな木の群生した場所。長く張った枝と茂る深緑は新之丞の着物が溶け込み。太い幹はすっぽり覆い隠すほどであろう。


「エフエフ、マダママダマダァァ!」

「あああああっ!」


 あそこまでに差が付くかどうか、それがすべてだからだ。

 差が付けば、付きさえすれば。その思いが声となった。

 何も考えず、ただただ足を回して走った。

 胸を打つ心の臓が弾けてぜようと、喉が張り付き張り裂けようとも足を手を限界を超えて自らの身体がどうなろうとも考えずに走った。

 そして森に入った新之丞は背後を気にせず、わき目も振らずに走った

 もっとも太く、もっとも枝振えだぶりの良い一つの木を目掛け走った。

 その木の前で新之丞は刀を口にくわえる。空いた両手は袖へと引っ込める。

 再び現れた両手の指の指には金属の帯が巻き付き、その帯には爪が三本。

 てのひら側から伸びた爪――手掌鉤てしょうかぎと呼ばれる道具である。

 新之丞は木に飛びつき、爪を掛け、足で突っ張り、幹を駆け登る。


「――来い」


 尋常に勝てぬなら勝てる位置に立つ。

 るのは戦の基本、それは煤宮においても同じ。

 だますかあざむいて逃げて良い。正々堂々、尋常に、武士道なぞ犬に食わせればいい。

 それが煤宮の戦いであれば、地の利を取っての奇襲きしゅうはあって当然。

 気付かれずに殺せればそれが最善。

 枝の葉に身を隠すようにして、新之丞は口に咥えた刀を右手で取る。

 三本の爪を指の間に挟むようにして、柄と共に握りしめ。

 血走った目で下をにらみつけ、息を殺して待つ。

 足音――ほっかむりが目に入ると、左手を離しくうおどり出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る