食働き

 新之丞と伝助が正式に弟子になったのは十五歳になる年明けすぐであった。

 煤宮の弟子と言えば内弟子うちでし――つまりは道場で暮らすということ。

 十五、元服げんぷくまでは預からないという長谷野の方針があったため年明け早々に二人は弟子入りを志願した次第である。

 正月しょうがつの祝いもそこそこのことに、師は呆れ顔で「ま、良かろう」と承諾した。


「ではまずは――」

「掃除ですね」

「おい、まったく。やれやれ、松原の入れ知恵かのう」


 ぼやく師の察しの通り、二人は松原に話を聞いていた。

 特に新之丞は”これ以上剣術にのめり込むのを良しと思っていないのでは”と疑念も持っていた。そのため松原に相談を持ち掛ける。その答えが『渋るなら掃除でもして生活を共にする覚悟を示せば落ちる』であった。


「よし、行くぞ新之丞!」

「おう!」


 あらかじめ用意していた水桶と雑巾とほうきを持って勢いよく掃除を始める。

 まずは庭をき、道場をく。ついで廊下を拭きつつ師匠の部屋。兄弟子の部屋、そして自分たちが住むことになる部屋を掃いて拭く。

 いずれも狭く、大した物もなく殺風景。それでも終わった頃には暗くなっていた。


「お―終わったか。二人とも」

「はい!」

「飯か?」

「飯だろ!」


 道場に戻ると師と兄弟子は中庭の焚火たきびの前。

 味噌の香りが立つ鍋を火に掛けていた。

 新之丞も伝助も待ちに待った時間である。十五を目前に控えた二人が昼からずっと働き通し、腹が減ったどころではない。


「腹が減ったろう。食事にするかの」

「やったぁ!」


 喜び急ぎ、裸足のまま飛び出す二人。膳というにはあまりにぺらい一枚の板の前に座る。板には味気なく映る木の椀が二つ。それでも今の二人の目を奪って離さない。白飯と汁は空腹の十五には破壊力十分。今すぐにかぶりつきたい衝動が身体を駆け巡ったが、ここは弟子の身であればとよだれを垂らしながらも踏ん張った。


「なんという顔しておる。食らって良いぞ」


 言うが早いか新之丞は椀にかぶり付くように白飯をかっ食らった。

 口中にたまった唾のお陰で飲むように喉を通るとすぐに消えてなくなる。ならばと次に手にしたのは汁椀。もっともそれが何であるか、何が入っているか。探ることもなく一息で椀の半分ほどを口に放り込んだ。

――臭い。

 味噌の香りではない。強い臭気が鼻を付いた。酸っぱいような苦いような、どこか塩気のある。匂いで口の中が粘ついてくるような嫌な感じであった。

 いっそ飲み込んでしまえばと思ってもそれを許さぬ匂いがあった。


「うぼぉほっ、げほっ――く、臭い――です」

「松原ぁ! やはり味噌が足らんではないか」

「えー? そ、そうですか。え、そこまで? 吐くほどか新之丞?」

「も、申し訳ありません」

「いやよい、松原が悪い。最初なのだからと言ったろうが」

「いやーははは、いつの間にか慣れてしまったのですなー。伝助はどうだ?」

「おへはひへるへほは」

「飲み込んでから喋らんか」

「――んぐ。ふぃ、俺は行けるっす。ちょっと臭い肉だなってくらいで」

「肉-―なのか?」

薬喰くすりぐいしたことなかったっけ?」


 薬喰い。肉は禁制きんせいである。肉としては食えない。ゆえに”薬”と称して食べさせる”ももんじ屋”と言う店があった。

 新之丞もその存在は聞いたことはあったが、食すのは初めて。

 臭く硬く筋張すじばったそれは”薬”と呼ぶに相応しいと思ったが。そんなものを有難がる江戸の人々の舌はどうなっているのだという疑問も沸いた。


「伝助は食える――のか?」

「おうよ。前に江戸で一回食ってるからな。確かにそん時のに比べりゃ少し――大分臭いけどな」

「ほう、何を食った?」

「山くじらっす。今日のは何なんですか? モミジ? カシワ?」

「今日のはたぬきだ。どれ――」


 兄弟子は上品に椀を持ち、端で肉を口に含む。


「確かに匂うか」

「しかし何故狸なのだ。鹿とか、ウサギとかあろう?」

「師匠。この辺りにそんな獣もう居やーしませんよ。前に取りつくしたと。ですから野菜も分けて貰えるわけで。味噌だってタダじゃないんですからね」

「う、うむ。確かにそうじゃが」

「――えーと、これは兄弟子が取って来たのですか?」

「そりゃそーよ。買えと言われてもそこまで懐に余裕はないからな」

「俺らのために――」


 弟子入りの日。少しでも豪勢な食事をと思っての兄弟子の心遣い。

 と思っていた新之丞。伝助も同じ気持ちでしんみりとした笑顔だった。

 が、しかし兄弟子と師はきょとんとした顔。


「いやお主らも取るんだぞ。これからは」

「ええぇ?」

「最初から猪や鹿や熊を取れとは言わん。兎――も最初は無理じゃろうな。となれば やはり狸となろうなぁ」

「そうですなー。狸は何故か動かなくなることがありますからな。今からでも取ってこれるんじゃないか? 二人とも」

「うむ、なれば早く狸汁に慣れねばのう」


 と言って新たに汁がよそわれた。


「いや、しかし――」

「好き嫌いは良くないな新之丞」

「おまっ、伝助は食えるからってさ」

「いやだから俺でも臭いって。でも食える。なんなら不味いけど」

「そうだ――えっ? 不味いのか?」

「まあ狸は不味いのう」

「えー師匠まで?」

「ふっ、吐き出すほどではないがな」

「うっ」

「いいから食べなさい新之丞」


 項垂れじっと椀に浮かぶ黒い肉を見つめた。

 そもそも美味い不味いの問題ではなく、これは肉である。


「のう新之丞や。神仏しんぶつばちを恐れているのではなかろうな?」

「え、罰が怖いのかよ。そんな信心深しんじんぶかかったっけ?」


 伝助の疑問の通り、新之丞は信心深くはない。

 ただ殺生せっしょうしてまで食らうというのに、必然を感じない。


「はっは、罰が当たるならば武士の世は滅んでおるのう。公方様くぼうさまとて鷹狩をなさる。 それに昔から坂東ばんどう武者むしゃと言えば肉を食らっておったようだしの」

「神仏を恐れてないのでしょうか? 戦の前には祈願きがんをするというのに」

「そうだな。そこが農民と武士を分けへだてる物であろうな。戦のために祈願をする。 その手のまま獣を切り裂き肉を食らう。何故か分かるか?」

「怖くないから――でしょうか?」

「それだけではないな」


 けむる炎の向こうで師は首を横に振った。

 であるなら分からない――と放心する新之丞に横から伝助が口を出す。


「我がままだから!」

「我がままって――」

「でも神頼みしてるのに、神様が駄目って言ってることをやるんだ。我がままだろ? 言うことを聞いてくれ、でもお前のは聞かないって!」

「はっは、確かにそうだな。伝助の言う通り。勝つためならどこまででもわがままになれるからだ。神に頼むのも戦に勝つため、神の禁忌に触れるのもまた勝つため」

「肉が――ですか?」

「そうだ」

「何故ですか? 何故そこまで肉を」


 厳しい目つきが新之丞を射貫いぬいた。

 助けを求めた兄弟子も同様の目で突き放される。


「農民を飛び越え、武士になるためぞ」

「――どういうこと、でしょうか?」

「ふむ、松原」


 呼ばれた兄弟子は立ち上がった。

 いつものように歩きながら、火の周り、三人の背後を大きく回りながら語った。


「煤宮は元は山間の村が発祥というのは聞いたな? その村が野伏のぶせの集団に襲われ、それから守るために生まれた技と」

「はい」

「ならおかしいと思わなかったか? 村を守らねばならないのに逃げ回るのは? 口で相手をつり出しても逃げるだけでは村は滅ぶと」

「そういや、そうっすね」

「逃げて敵を寄せるのはな、生き残るための術。生き残って逃げるだけのな。まずは

逃げてでも生き延びねば村を守れぬ。だがそれは入門、入口に過ぎない」

「では――」

「勿論、殺す技もある。襲い来る相手を打ち倒さねば何も守れないからな」

「それが一体この肉で何をするというのです」

「師が言った通りだ。武士になるためだ。まずは相手と同じ土俵どひょうに立たねばならぬ」

「肉を食らえば武士になれるならやります。けど――」

「武士と農民を分かつものは何だ」

「武器を持っている」

「違うな。武士は強い。特に坂東武者ばんどうむしゃは強いとされる。何故か分かるか? それはな身体が大きいからだ。肉を食らって作った身体は大きくなる。私が煤宮に入ったのは十七の頃だ。その頃の私はお前たちよりも小さく細かった。それが今や見てみろ」


 兄弟子の身の丈は六尺近くもある。そして腕、足、腰ともに張った筋は並みの武士では比べるべくもない。


「まだちと細いがのぉ」


 師も同様、兄弟子よりは少し小さいとはいえ、周りから見れば頭一つ近く大きく。だが身体の太さは一回りは太く、鍛え抜かれたというに相応しい肉体である。


「はは、精進しょうじん致します。分かるか? 相手が大きく強いなら自分もそうなれば良い。この単純な考えが私の胸を打ったのだ」

「そうだ。仮にお主らが儂より優れた技を持とうが、今の体躯たいくでは勝てぬのだ。技が 立っても身体が付いてこねば強くはない。身体があれば少々の技の不足は補える。 だから食らえ。薬を食らって身体を大きくしろ。獣を食らって獣の肉を付けよ」

「身体が大きくなれば――」


 剣術を習っても、刀を振るっても、師や兄弟子のように腕が太らない理由。

 己の貧相な身体。町人の子の中でも特段大きくもない身体。

 こんなことで仇を討てるのかと頭を悩ませた小さな身体が――変わる。


「食らえ。これは煤宮にて敵を討つ者に与えられた修行――食働くいばたらききと言う」


 もはや罰も、臭いも恐れず肉を口に放り込んでいった。

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