為右衛門
あの夏とは違い新之丞の元気は未だ十分。
足を早め過ぎずかといって緩め過ぎず、背後に大刀の空気を感じる距離を取り続けて走り続ける。
「ま、待たんかいっ!」
力士もまだ余力はあるような声を上げて追いかけてくる。
捕まれば一撃で胴が寸断されるであろう強烈な風斬り音を上げていた。
だからこそ新之丞は届きかねない絶妙な位置を取りながら走り続ける。
――必殺には条件がある。
そう言った兄弟子の言葉を思い起こしながら走った。
上手く行くはずと叱咤しながら足を動かす。
「鉄治の仇ぃぃ!」
何せあの通りに怒り心頭、すでに半分は術中に掛かったも同然なのだから。
相手を怒らせること――これも条件の一つである。
ただこれは
山賊同士の繋がりが
死にここまで怒り、猛りながら追いかけるほどの何がこの山奥で
仇を討たねば済まない絆が生まれるほどの何があるのか。
「死ねぇっ!!」
近すぎる声に背筋が冷えた。
背の袋が斬られて、荷物が飛び出す。
新之丞は焦った。荷物はもうどうでも良かったが、荷に力士が足を取られることを危惧したからだ。
最後の条件は”逃げ切らない”である。
相手を
あと少し、あと少しと相手を焦らせなければならない。
走って走って、時に緩めて、追いつかせ、無駄に振らせてまた走る。
坂を上り、また下りて、岩や倒木などは飛び越えない。
あえて迷ったフリをして追いつかせながら、横に避けて行く。
陽の当たる道を選び、川から離れて、乾いた走りやすい場所を選んで通った。
後はもう一つの”逃げ切らない”という条件を満たせばいいだけ。
当たり前ではあるが、逃げ切っては相手は屠れないからだ。
諦めないように、届きそうな位置に居続ける。余裕をないように見せるために時には足をもつれさせ、息を大げさに吐いても見せる。
背後を
「そろそろか」
後ろに目線を向ければ、力士の顔は真っ赤であった。
口は開いて力は無い――とくれば怒りだけの赤ではない。
限界に近い合図。
怒りによって
怒れば無駄に身体に力が入る。無駄に呼吸が荒くなる。つまり無駄に体力を使う。
もっとも、新之丞とて半日歩き、多少とはいえ戦いの疲れはある。
故に体力で負けることも考えられた。
だが水桶があった。
鉄治は水を持って帰ってないのだ。
朝にやるはずの水汲みを昼を過ぎても持って帰ってない。
この炎天下、賊が複数人でしかも一人はこの巨体である。
――果たして水はどれくらい残っていたのか。
恐らくかなり長い時間飲めていない。
飲めていない状態で走った。いや走らされた。
わざと日陰にならない場所を、出来得る限り水から引き離し追わせたのだ。
もはや力士の足取りは走りからほど遠い。酔ったような足取りとなっている。
目は虚ろで、顔はおろか、耳も腹も腿まで赤い。
「ま――待てい――て――つ――か、た――」
やはり僥倖だった。
辿り着いた場所は崖の下。しかもぽっかりと開かれ日当たりが良い。朝から差した陽の光によって熱気が渦を巻いたように籠る暑さがある。
新之丞は崖を背にして立って力士が来るのをまった。
もはや演技の必要なく、悠然と構えてじっと力士に目を向け観察する。
「ひっひっ――ひゅー」
もはや息を上手く吸えていない。
顔は赤を通り越して青みまで差し紫に近い。膝は笑い、手は震えすら見えた。
だがそれでも手は大刀を持って離さない。まだ力がある。まだ新之丞を討つ意志が残されている。
よって新之丞は刀を構えた。
力士が認識しやすいように、わざと大きく上段に振りかぶってから正眼に構えた。
もはや目はまともに見えておらず耳も遠いであろうから、大きく声を上げた。
「鉄治とやらが地獄で待ってるぞ」
「―――――――ぁぁっっっ!」
新之丞を捕らえると、再び目に力が篭る。
泳ぐ手を止め「なにをっ」と声まで上げて、足を二三動かした。まだ走り兼ねない力強さがあったが――それが最後だった。
口の端からは泡を吐き、目は白目を
完全に終わりであった。
放って置いても
右手一本で刀を喉に突き刺した。
膝をついた力士は一瞬ぴくりと身体を跳ねさせると、喉から引き抜くようにゆるりと背後に垂れ込んだ。
「この程度で――いや実戦ならではか」
沈んだ力士が生んだ振動と、
その達成感に全身から力が抜け、たたらを踏むように後ずさりし腰を下ろした。
崖に背を預け、大きく息を吸って汗を拭おうと手を額に上げようとする。
だが上手く拭えない。手に力が入らず、上手く上げることが出来ない。
震えてさえいた。
大刀を持った力士は”敵”と認識できる相手である。鉄治とは格が違う。
尋常にやれば無傷で勝てたか怪しい。いやそもそもやるべきではない相手。
自らの武、煤宮の威力は道場では十全には発揮しない。
そうは分かっていても仲間を罵倒し走るばかりでは”馬鹿な”と思いたくもなる。
だが今日こそは”馬鹿な”修行の日々を完全に一転の曇りなく感謝した。
――だから油断をした。
風にざわめく葉の擦れた音の中から柏手が聞こえていたのに反応が遅れた。
警戒も出来ず、立ち上がることも出来ず。
「中々やるではないか」
そう声が掛かって初めて、新たな敵の接近に気付くほどに油断をしていた。
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