沢にて

 初めての人斬ひときり――その感触は思ったよりも軽かった。

 それだけ見事に首のすじったということではあるが、それゆえに新之丞が実感を伴ったのは血を拭うために川岸に膝を付いた時である。

 夏の緑を映した水面みなももまた深緑。だからこそ一筋の赤がいやに映えた。

 水面に映して初めて、鉄錆てつさびた匂いが立ち鼻を付く。

 驚いたように振り返れば、鉄治の身体は前のめり。力なくだらしなく河原に倒れ、顔は半ば石に隠れ、光を映さない目は新之丞だけを映していた。

 胸は上下をせず、肌からは血の気は抜け、抜けた血は石を染めて地にかえる。

 およそ生きている証は一つも見えない死体――新之丞が命を断った証。

 まとわりつく鉄の臭いにむせて、胃からは酸味が立ち上る。

 首筋を通した手の感触が今更ながらに重みを持つようだった。


「だ、大丈夫だ。大丈夫――」


 への字に口を結び眉をひそめた、まったく大丈夫でない顔で「大丈夫」と繰り返す。

 何度も何度も顔を洗い流しては「大丈夫」と声に出す。

 さられど落ち着くことはなく、乱雑らんざつに顔をこするようにした。

 いっそ自分の顔から血が出んばかりに強くこする。

 何度も水を掬っては、何度も顔をこすり、何度も何度も「大丈夫」と唱えた。

 もはや血など付いていないだろうに。

 水面に映る顔にももはや血などないのに。

 落ち着かず、慌てたように川に手を突っ込んでは水をすくって顔を擦る。

 洗い終わっては拭いさり、また水面を見ては――また洗う。

 新之丞の顔は泣いた幼子のように情けなく、手は年老いたように力なく震えた。

 呆けたように水面に映した顔を見てはへたり込んでしまう。

――強い風が吹いた。

 ざわざわざわざわと森を鳴らし、血の匂いを運んでくる。

 むせ返るような鉄の匂いと揺れた水面で映った顔はひん曲がり――

 風にさらわれ額から鼻先から垂れた水滴に水面の顔は皺が寄ったようで。

 十年、二〇年と経たような顔にはどこか見覚えのある相貌が生まれれば。


「うわあっ――分かっております」


 幼い叫び声があげると、新之丞の顔はみるみる険しくなっていく。

 人を斬るに相応しい、水面に映っていた顔ほどに――

 にらみつけるように鉄太の向かった先を見ると、はっきりとした道がそこにあった。桶を持って毎日通ったのであろう二人は通れる踏み固められた跡までも。

 つまりは井戸はなく――根城ねじろは山の上である。

 山の中、地の利はなく敵は複数。

 そして敵が攻め入ったとばれてしまっている。

 常ならば不利な状況に出直しを考えるべき――


「逃すものか――」


 躊躇ちゅうちょなく山頂へ続くであろう道に足を踏み入れた。


 坂道に足を踏み入れるとほどなくして地が揺れる。

 強い風もないのに激しく葉が擦れ、蝉が飛び立った。


「おおぉぃ!」


 声が聞こえるなり、ようやく新之丞は我に返ったように身体を木に隠した。

 背を預けた木も震えて未だ地の揺れも収まらず、いやむしろ大きくなり山が暴れる予兆よちょうのようにも思えていたからだ。


「鉄治ぃぃぃ! 返事せぇぇいっ!」


 だが山がきかねない蠢動しゅんどうをおこしたのは力士と見紛みまご巨漢きょかん

 坂を転げる勢いで走り来れば、振動しんどうもまた強くなる。

 我に返り、恐怖を抑え、焦燥を止め冷静になれば

――わざとか? と新之丞が疑うのは当然だった。

 敵が居ると分かっているのに声を上げてわざわざ居場所を知らせる。

 鉄治と対峙たいじしてから一刻いっこくは経っているのだから助けには遅い。

 意味がない、意味を持たせるとしたらわざとである。

 大きく目立った男に視線を誘引ゆういんし、別の相手が隠れて奇襲を狙う――

 ただ力士のような大男の顔と声には演技の色は微塵も感じない。

 仮にあっとて――いや、新之丞は修行でつちかった自らの目を信じた。


「おおぉぉい!」


 さらに地面は揺れる。

 足の指先に力を入れて地を掴むように立ち、息を整えた。

 どすん、どすんという足音が近づいて来る。

 左手の親指で鯉口を押し上げ右手は柄に掛け、叫び声に合わせて刀を抜き放つ。

 背を預けた木が一層大きく震えると――飛び出て斬った。


「なんぞぉっ!!」


 浅い。否、遠かった。

 相手は巨躯である。腹では刃が通らぬと出来得る限り上を狙った。

 だが相手は想像を超える巨躯きょく。坂道の上とはいえ新之丞の倍はある。

 首から顔を狙うはずが腹を裂いたのみ。

 それでも常人ならば臓腑ぞうふに至る深さ。だがこの分厚い腹では筋にすら届かない。


「あああんっ?! その細っこい刀で――ヌシャ河原で何をしていたぁっ!?」

「さてなぁ?」


 出来うる限りの下衆げすな表情でとぼけて見せた。

 果たしてこの程度で相手をあおれるのか分からない。

 が、新之丞の心に煤宮は取り戻すという効果はあった。

 されば足はを選択――その直後、目の前の空気は裂け横の木が弾けた。


「鉄治はどうしたぁぁぁ!!」


 新之丞の目の前を通ったのは片刃の手斧。

 あまりにも大きな身体の馬鹿げた大きなの手のため、小さく見えるが立派な手斧。

 一撃で半分以上も幹に埋め込む剛腕。

 新之丞の胴より太い幹を次でへし折る膂力。


「答えんかぁぁ!!」


 深々と刺さった斧を簡単に引き抜き、遮二無二しゃにむにるって来る。

 身体から来る圧力と、肉を盾にした突進力と、一発当れば終わりの威力は、元よりする気がないとはいえ反撃の隙を見つけることは出来ない。

 枝を叩き居り、幹を打ち割り、葉を喰い破りながらも腕は回転し続ける。

 だから新之丞は余裕であった。煤宮の術中だから。

 斬撃の届かない範囲にいて避け続ける。しかも紙一重で。

 だが、七尺はあろうかという人の埒外にある肉体を持つ力士であれば、斧には重量など毛ほどもないのかのよう。

 十、二〇と降らせても微塵も斧先は鈍らず、疲弊ひへい望外ぼうがいなのかと疑問が浮かぶ。

 むしろ先に根をあげたのは術中にめたはずの新之丞であった。


「待て! 逃げるかぁ」


 転げるように、いや実際足を滑らせ坂を二転三転として河原に落ちる。

 追いかけて来る力士の足は目の前、斧を受けざるを得ない。

 決死の覚悟、力士の咆哮、そして――


「おおおおお! おお、おおっっ!」


 力士は明後日の方――川近くの血だまりに沈む鉄治の下へと吸い寄せられる。


「お、おおお、何ということじゃ。すまぬ。すまぬ――水汲みなぞ押し付けたから、 ワシャが阿呆みたいに飲まねば。いやヌシャの言う通り桶くらい持ってやれば」


 血に汚れるのも構わず大刀の下のもはや動かぬ小男を抱き寄せ吠えた。


「ヌシャ何者ぞ! 鉄治の父の手の者か! 何故に放って置かぬ。何故にまだ追ってくる。仕置きは十分受けたはずぞ。何故に斬るまでする必要があったっ!」

「――知らぬ」

「知らぬ? 知らぬで斬ったというんか! 知らぬで?!」

「ああ、そうだ。と言っても先に喧嘩を売――」

「だまりゃぁぁっ!! もうよい! もうよいじゃろう! 限界じゃ! ワシャは、もう限界じゃああ! ヌシャが何者でも、ワシャがここにおられんようになっても、仇は討つ! 地獄に落とにゃぁ気が済まんっっ!」


――不味い

 新之丞は後悔した。

 力士が手に取ったのが大刀であったから。

 鉄治の手では重々しく落ちることしか出来なかった刀は、力士の手に掛かって軽やかに宙を舞った。

 刃長四尺はあろうかという大太刀と呼ぶべき大きさの刀は、身の丈七尺はあろうかという大男に掛かればただの打刀。まるであつらえたようにすら見えた。


「鉄治ぃ、借りるぞ。力を貸せ巖鉄丸がんてつまる。主の仇を供に討とうぞ!」


 まるで仁王におう――鬼の形相ぎょうそうで大刀を片手で扱う様は金剛力士像こんごうりきしぞうのようにすら見えた。

 重い斧を軽々かるがると振りぬく剛腕ごうわんと幾ら振るっても疲れぬ膂力りょりょくを持つ男。

 それが新之丞より長い得物を持つ。

 自らより大きく強く、そして遠くまで届く。

 彼我ひがの戦力差は大人と子供、月とすっぽん、得物を持った侍と牙を持たぬ農民。

 ならばこそ。

 ならばこその煤宮。

 力無き民が力ある侍に抗するための生存術であれば。

 この時の、この手合いのための技、まさに必殺というべき技がある。


「来い!」


 新之丞は大きく息を吸い、腹の奥から湧き上がる力を感じると――

 背を向けて逃げ出した。



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