寺にて

 がたがたと音を立てていた木戸きどが開いた。

 それに気付いたのは隙間から禿げた頭がのぞいてからだった。


「――っ!」


 弾かれたように鯉口こいくちを切り、即座に抜く。

 後一歩と言うところで、新之丞は自分が寺に居たと思い出した。

 あの後、宥仁ゆうじんに招かれ寺の宿坊しゅくぼうにて座って待っていたと。


「おお――まだいらっしゃったのですか」


 やいばを向けられたままだというに、坊主は軽く笑って見せた。

 僧の持つとくなのか、修行の賜物たまものなのか、まだ若く新之丞とそんなに変わらないのに落ち着き払って姿勢も崩さないでいる。


「ああ、失礼。少し――気を張っていたもので」

「いえ、私もいつもの癖で。二、三叩いただけで開けたのがいけませんでした」


 宿坊の入口は少し高くなっている。僧の腰付近まであり「よいしょ」と声を上げて室内に入って来た。


「すみません。お待たせしてしまって。では本堂に。どうぞこちらへ」


 丁寧で落着き払った物腰は宥仁のそれより和尚に相応しい。

 殺風景な部屋に一つだけある行燈あんどんの火を手で仰いで消す姿などは気品すら感じる。

 しゃなりと歩き、部屋を出ては「よいしょ」とまた高くなった入口を降りた。


「少し狭いですよ」


 羽をまむように持った提灯ちょうちんの灯りに促されながら宿坊から本堂へと歩く。

 提灯の灯りが照らす境内は狭い。いや狭い範囲しか灯りが届かない。

 この寺は植物に埋まっている。花々と緑で彩られ、庭園のようでもあった。

 本当に宥仁の寺かと疑ったほど、今も疑っている。


「しかしお侍様、宥仁様に何かされたので?」

「何か――いえ?」

「そうですか。それなら良かった。私はまた喧嘩でもなさったのかと。まあ違うので あれば。いやしかしそれなら何故?」

「いや、少し伺いたいことがありまして」


 無論、それは山中然全の名を宥仁が口走ったから。

 元来は山中作太であり、それは煤宮に居た時からそう。

 生まれ育った寺にて付けられた僧名そうみょうであるらしいが、外で名乗ってはいない。

 新之丞がこの名を聞いたのは旅立つ一月前のことであるほどだ。

 実際に人相書きに書かれた名も山中作太である。

 ならば何故知っているのか。何故そう呼んだのか。

 僧であれば前から顔見知り、とでも答えれば良かったのに宥仁は黙った。

 何を聞いても黙った。

 ただ人相書きを見た瞬間の顔の緩みを見逃す新之丞ではない。

 苦虫を噛みつぶしたように押し黙った宥仁を問い詰める。

 そして一言発した言葉が『付いて来い』である。

 夕焼けの始まってから、陽が沈む直前まで無言で付いてきたのがこの寺。

 花々に埋もれた宥仁に似合わらない寺である。


「それでこのような寺まで。不便でございましょう? こんな狭い寺なのに本堂まで 遠いとは思いませんか?」

「はぁ」

「本来なら敷地この程度の敷地なら本堂まで廊下があるのですが――」


 中途に話を途切れさせる。

 話す気になれなかった新之丞をして「それで」と促す他なく。

 否応なく会話に巻き込まれる。


「いえ、住職が”そんなものを付けるなら木を植えよ”と仰せでございまして」

「はあ、ということはこの寺は宥仁様が」

「ええ、壊したのです」

「え、壊――?」

「廊下など要らぬと。我らも一緒になってこう」


 楽しそうに槌を振り下ろす真似を見て、確かに宥仁の寺の僧だと得心がいった。


「どうぞ、中でお待ちです」


 本堂からは薄っすらと灯りが漏れる。

 階段脇に退いて頭を下げる坊主にお辞儀を返した。

 履物を脱ぎ、階段に足を掛けたところで新之丞の足は止まる。

 腰の者をどうするか――という問題があったからだ。

 そもそも境内に刀を持ち込むのすらはばかられたというのに。更に本堂である。

 本尊ほんぞんたる仏の前で刀を差して行く。

 仏に傾倒けいとうしていない新之丞ですら遠慮したくなる組み合わせだ。

 宥仁の寺ならあるいはとは思うが、流石にという思いもある。


「お持ちください」


 ちらと目を向けた坊主の返答は宥仁流であった。


「頼もう」


 あまり大きくない寺。そう言っていたが本堂は大きく感じた。

 もっとも寺などあまり知らない身であるが、道場よりは一回り大きい。

 声の響きも良くまさに伽藍堂がらんどうと言ったところだった。

 腰に手やり唾を飲み込む――奥の鎮座する仏が見ている気がしたから。

 小ぶりな仏で、周りの仏具とともに輝く金色こんじき

 由緒があると言われれば信じるに値するほどにはしっかりとした本堂に見えた。


「――御坊」


 そんな由緒がありかねない寺の廊下を落とした張本人が仏の前に座っていた。

 足を太腿ふとももに乗せてかかとは腹に寄せ、右手を下にして両掌りょうしょうを上にして手を組む。親指は両方の先端を合わせた格好で。

 背にした仏に負けぬ圧があった。

 それが結跏趺坐けっかふざという座り方であるとは知らない新之丞をして憚られた。

 邪魔が出来ない、足も前に出なければ、声を張り上げることも出来ない。

 ここまで十二分に待たされたというのに。

 一刻も早く問いただしたいことがあるというのに。

 息を呑むとはこのことであろうか、唾を飲み込むのも忘れて感心せざるを得ない。

 立ち尽くす新之丞の背を押すように風が吹いた。

 強い風が堂を掛け、仏具をカタカタとならし、行燈を揺らす。

 揺らめく灯が一瞬消え、外の灯篭の光だけとなると新之丞の影は伸びた。

 影が宥仁を襲う、とうっすらと開かれていた深い色の目がようやく新之丞を映す。


「――おお、来たてか。すまんな。呼びつけておいて」


 差し出された手の先には丸く分厚い座蒲ざぶが一つ。


「ああ、好きに座ってくれ」


 恐らく宥仁は座り方が分からないのだと思ったのだろう。

 新之丞は分厚過ぎるそれが座る物だと知らなかった。

 打刀を抜き、右手側に置く。さらに刃側を内側に向けた。

 座る時の作法である。利き手側に置き反りを自分に向けるともっとも抜きにくい。

 相手に斬りかからないという意思表示でもある。


「どうにも最近は座ると周りが見えぬようになってしまう。まあしっくり来るように なったということかな。今更座ることが身につくとはな。昔はなぁ。禅など組もう ものなら――こう見えて昔は悪たればかりでな」

「どう見てもそう見えますが」

「ガハハ、そうか。そう見えるか。その上聞かん坊でもあって――それも見えるか? そうか。まあ一刻と座っていられぬ性質たちであった。すぐに足を解いて、怒られよう ものなら座蒲を投げつけて外に飛び出しておった。罰として食事なぞ抜かれたり、 ようここまで育ったものよ」

「――寺育ちなのですか?」

「なんだ。仏道に救いを求めた破落戸ごろつきとでも思っておったか? ガハハ」


 破落戸その物のような笑顔で答えた。


「まあよう言われる。だが生まれも育ちも寺よ。ずっと仏の下で修行の日々。生まれ の寺では迷惑を掛け通しだったなぁ」

「ここではないと?」

「そう、生まれた山は降りた。挙句宗旨替しゅうしがえよ。ま食事はこっちのが随分いいがな。 そうだ、食事はどうであった? お主も身体大きいゆえ足りなかったかな?」

「――いえ」

「なんだ豆は苦手か? やはりシャリか? 寺では中々なぁ。しかし豆も良いもの。 慣れれば中々のものだ。豆でしか出来ぬ馳走もある。特に今日は――」

「御坊、それより」


 明らかに意味のない話を続けようとする宥仁に言葉と同時に鋭く視線を飛ばした。


「それより――飯よりと来たか。ならば何であろうな。腹をこなしたなら――ふむ、 風流か? そうだ。月などはどうだ? 今宵は綺麗な望月であったろう。雲のない 空だったからな。夏でも綺麗に見えた。だが夏というのは小さくていかんな。冬の 月のが大きく見える――見えるよな? あいつら愚禿が歳だからだとか――」

「御坊!」

「のう、新之丞。月くらい見る余裕は必要だ。だから見えるものも見えぬ」

「何を――!」


 ついには声を張り上げるに至った。

 が、しかし宥仁は悪びれた様子も、臆する様子もなく続ける。


「例えば後ろの御仏だな。知っておるか?」

「っ――知りませぬっ」

「怒るな怒るな。いきなり本題というのも味気なかろう。夜はまだ早い。とはいえ、 夜に旅立つこともあるまい。それにお主の聞きたいことには答える」


 誰のせいでと叫びそうだったが、話を聞くまでは機嫌を損ねたくない。

 怒りを背後の仏にぶつけるように睨みつける。

 だがそこは仏、優しく受け流し、すべてを見透かすような半眼。揺らめく行燈の光を下から当てられても尚穏やかな表情。金属製の光沢ある肌なのにどこか暖かい。

 仏の特徴は大体似たり寄ったり。ただ新之丞は仏に傾倒していなければ学もない。

 顔と名が一致するはただ一つ。そしてこの仏の形相は違う。


不動明王ふどうみょうおうではないというくらいしか」

「――不動尊ふどうそんか。実に”らしい”仏様を出す」

「らしい――ですか」

「無論だ。不動尊は力を持って仏敵ぶってきを制す。相応しかろう?」


 岩肌のような顔が本来の高僧の如き表情を作った。


「後ろの仏はな阿弥陀如来あみだにょらいと言う。一切の衆生しゅじょうを救済される仏様だ。あまねく人々に光を もたらす。その光は限りなく――無量光むりょうこうを持つ仏。もっとも優れた仏と呼ばれる。 ま、愚禿ぐとくはこれは好かぬ。仏に優劣を付けるのはな」

「それが――何か?」

「何かと問うか。それはなこの寺は阿弥陀如来を本尊とする宗派であるということ。 つまりは浄土宗じょうどしゅうの寺というわけだ」

「珍しかったりするので?」

「ガハハ、逆だ。徳川将軍家と縁の深い宗派である。今の公方様くぼうさまもそうだ。総本山の 知恩院ちおんいん神君しんくん母君ははぎみである於大おだい方様かたさま菩提寺ぼだいじでもある。名のある宗派だ」


 それが言いたいわけではないはず。と新之丞は目で先を促した。


「浄土宗の開祖かいそ法然上人ほうねんというお方だ。聞いたことは?」

「知りませぬ」

「生まれは西国さいごく――のどこだったかな? 失念した。まあ良かろう。とまれ今で言う 侍の家柄。しかし武の道には進まず比叡山に登って学び、仏の道を邁進まいしんなされた。 何故かは――知らぬか。まあ父君ちちぎみの遺言だ」


 嫌な予感がした。

 新之丞の背景にかぶせた話は、仏の説法せっぽうの手段ではないかと。

 そして遺言をうたうようにみあげた。


なんじ更に会稽かいけいの恥を思い、敵人てきじんを恨むることなかれ。これひとえに先世せんせい宿業しゅくごうなり。 もし遺恨いこんを結ばば、そのあだ世々せいせいがたかるべし』


 歌の内容はすべては分からない。

 だが分かる言葉を拾い上げ、理解できるように繋げれば答えが頭をもたげ――

 不意に手は刀を求めた。


「――やはりそういう話でありましたか」

「愚禿は坊主であるから――そうなる。仇を討たずに別の道を生きよ。さすれば一廉ひとかど の者に――大丈夫になれよう」

「ここまで来て、ここまで待たせておいて――仇討ちを辞めろとは。姑息こそく! 姑息と しか言いようがない。寺を預かる身でありながら恥ずかしくはないのですかっ」

「本当に申し訳ないと思うてはおる。だがな仇討ちは止めるが道理。そもそも仇討ち なぞ万に一つに成功しない――それが『曽我物そがもの』なぞに影響されおって。今では、 町民農民まで仇討ち仇討ち。挙句お上もそれを認める始末よ」


 曽我物――鎌倉に幕府がある時代『曽我兄弟』という二人の男の仇討ちがあった。

まさに劇的な内容であるから舞台になり。今では毎年年初から上演され、新しい話を作られ続ける人気作。誰もが知っている話。もっとも新之丞は見たことはないが。


「それの何が悪い。仇を討たせる物が居なければいい」

「その通り。だがその悪党のためにお主の命を浪費することはないと言っている。益 はあるのか? 討たねば職を追われる立場か? 家督かとくを告げぬか?」

「確かに違います。そんな誇れる家名ではありませぬ。仇を討ち果たしたとて坂上の 家督を継ぐことは出来ませぬ」

「――やはり、か」

「しかし仇討ちは損得ではありませぬ。仇によって討たれた父母ふぼの無念。その無念を 晴らさねばならない。それこそ人の道。道理でありましょう」


 努めて淡々と返した。

 でなければ本当に刀を手に取りそうであったから。


「それは違うな。父母ちちははは子の健やかなることを願う。報恩ほうおんしたくば生きる道を選べ。 仇討ちなぞ――歌舞伎のようには行かぬ。曾我兄弟とて散っておろうが」

「父母の心を安んじればこそ、私は健やかなりましょうぞ」

「違うっ」

「違う? 何が違うと言うのでしょうか」

「仇討ちでは死者の心は安んじることはない」

「――今まで何度となく私の仇討ちを止めようとした者はおりました。送り出した師 も、兄弟子も友ですら。しかし、それは、仇を討っても無駄とはあまりにも!」


 右手は勢い鞘を掴む。左膝を立て、いつでも飛び掛かれる態勢で睨みつけた。


「あまりにも? 何故だ? お主の父母の心は安んじることはないぞ」

「何故かっ!」

「どこにいると思っている。お主の父母はどこにいる。浄土だろう! 阿弥陀仏の下 ですべての煩悩ぼんのうから解き放たれておる。これ以上の安らぎがあると思うてか」

「戯言を! 私が神仏を信じているとお思いか!」

「なら死者はどこだ。神仏を信じないのに御霊は信じるとぬかすか。成仏せずに怨霊 としてさ迷っているのであれば、必要なのは仇討ちではなく加持祈祷かじきとうであろう!」


 斬る。その気持ちを断ち切るように奥歯を噛みしめた。

 抜かぬように力を込め、床に鞘を押し付ける。鞘尻の尖ったコジリが床を削り取るのも構わず。そうでなけば首を刎ねていたであろう。


「お主の表情が物語っておる。父母ではなく己のために討ちたいとな」

「何を――私はっ!」

「その顔は瞋恚しんいに侵された顔よ。毒に似た苦しみ伴う激しい怒りにな」

「当たり前だ! 何を、何を、御坊何を言ったと思っている! 仇を討っても意味が ないだと。仇討ちを志して修行を続けたこの十年。すべてが無駄だったと言った! 怒らずに居られるものが居ようかっ」

「その志そのものが瞋恚にもたらされたと言っておる。その毒は苦しかろう。熱かろう。 だが耐えねばならぬ。一時楽になったとて救いはないぞ」

「毒が苦しいから――逃げているとでも。そのための仇討ちだと。自分のための!」

「違うと言い切れるのか?」

「違う! 違うに決まっている! 私は父母をしずめるために彼奴きゃつを斬るのだ!」

「それでは恨みは尽きぬ。斬らばまた別の恨みを生み世をいつか覆いつくす」

「知ったことかっ! 私には関係がない」

「あるのだ。父母を安んじるなら恨みを残してなんとする。真に父母を安んじる気が あるのであれば祈れ。仏に。さあ! ここに一切をお救いになる仏がおわす!」

「黙れぇっ! なら何故最初から救わない! 一切を救うだと? なら何故最初から 父母が斬られぬようにしてくれなかったのだ! 何故だ!」


 新之丞はだから仏を信じていないのだから。

 宥仁は黙って、目を閉じて、頭を下げた。

 そして再び上げた顔には迷いが映り、一度口を開きまた閉じ――

 口を開き答えを述べると新之丞はまた鞘を叩きつけねばならなかった。


些事さじだからだ――」

「些事だとっ!??」

「そうだ。人が生きて得る苦しみは死ねば消える。いや苦しみだけではない。すべての感情はやがて消える。消え去る物――くうだ」

「ふざけるな、ふざけるなよ。では何なのだ。この怒りは瞋恚とやらは。煩悩も何も ――ないと言うことではないか!」

「そうだ。死ねば消える。だから生きているこの世に恨みを残してはならぬ。永久に 尽きぬこととなりかねぬ。死ねば無くなるもののために苦しむのはやめよ。諦め、 受け入れ、浄土に行くその時まで心安らかに生きるのだ」

「もういい! もう、黙れ――」


 瞋恚。腹の底から沸く、身を焦がすような熱がそうであるならば――

 この熱を覚ます方法は一つ。

 頭を過ぎったそれから逃げるように、新之丞は立ち上がって踵を返した。


「どこへ行く」

「端から坊主の話なぞ聞くべきではなかった」

「だがまだ何も聞いておらぬであろう」

「もういいと言った」

「何故愚禿が『然全さぜん』の名を知っていたかを」


 それでもその名は新之丞の足を止めるに十分であった。

 最後に一瞬、ただそれだけ。そう決めて振り向きもせずに待つ。


「愚禿はなあれの兄だ」


 その言葉に腹の底の熱があふれ出す。

 頭をき、全身を総毛だたせたそれは空ではなく確かな重さがあった。

 右手は鞘を放つ。垂直に放われた鞘。

 身体を捻り、左手で鞘を掴み、滑るように腰に据え右手が手に掛かると

――風が吹いた。

 強風が吹いて堂に吹き込む。

 揺れる行燈の灯は強い風に一瞬消えて風と宵闇よいやみに紛れる。

 そして再び灯った時には宥仁の前に立っていた。

 抜かれた刀、その刃を首に押し当てて。


「坊主だからと斬られぬとお思いかっ!!」

「坊主だから斬れぬでは困ると思っておったところだ」


 刃を押し付けられて尚不敵に笑う宥仁。強がり――ではなかった。目に力はあり、手も足も震えは見えず、刀から伝わる脈にも乱れはなかった。


「安心せい。寺の者には『昼の喧嘩の仲裁に腹を召した』と伝えてある。まあ愚禿の 腹であの侍の主も黙るであろう」

「――何故そこまで」

「些事だからだ。生への執着もまた死ねばなくなる。そうは思わぬか? さあ斬れ! 斬って仇を討て」

「御坊は仇ではないっ。山中のことを語って貰おう。今どこにいるか。いや、最後に どこで会ったかを」

「違うな。仇だ。兄と言うたであろう。仇討ちとは復讐、意趣返いしゅがえしをすること。なら 同じことをせねばなるまい? 父母を斬られたのだ。あれには父母がおらぬ。愚禿 を兄であるこの愚禿を父母同様に斬り捨てい!」


 首筋に刀があっても、岩のように動じない。汗一つかかず、むしろ涼やかな表情でじっとその時を待っていた。

 だが、その潔さを持ってしても静まらぬものもある。


「どうした? 斬らぬのか」

「斬るさ。だが――」

「だが?」

「今ではない」

「今では――何故、今ではいかん」

「何故? 何故と問うたか。仇討ちとは同じことをするのであろうが」

「そうだ、だから斬れと言うた」

「だから同じようにしてやると言っているのだ」


 新之丞の目はあの日の夜を捉えていた。


 あの夜の道場の廊下のただ中で。

 ざわざわざわざわと木々を鳴らす風の中。

 カタカタカタカタと音を立てる木戸の向こう。

 錆びた鉄の匂いに塗れて

 強い風に吹かれれば幼き新之丞は戸にもたれた。


『――っ』


 戸の向こうから吐息が漏れた。

 新之丞は息を止めた。向こうに聞こえぬように。

 だが戸は開かれ新之丞の目はそれを捉えた。

 大きく瞳孔までも見開かれた目、油を付けすぎたようにべっとりと光った島田髷、

赤黒く染め上げあげられた花のような着物を着た女。

 仰向けでだらしなく口を開き、小刻みに震える女。

 雄々しかったであろう茶筅髷ちゃせんまげは切られざんばらに、猛々しかったであろう目は力を失い垂れ下がり、隆々としていたであろう腕は鬼灯ほおずきのように頼りなくなった男。

 うつ伏せで女に折り重なるようにして、口を開いた男。

 二人の男女と目があった。

 父と母と気付くのに暫くかかった。

 新之丞は立ち上がることもできず、血の海をすべるようにした下がる。

 土気色した顔、光のない目、だらしなく弛緩しかんした身体、止めどなく溢れる血。

 されど二人の目は新之丞を捉え、開け閉めしていただけの口からは声を発した。


『――てっ』

『――ょう』


 血の海に横たわる亡者もうじゃのようにボロボロになっても新之丞を目指した。

 何かを求めていずる姿は餓鬼がきのようにも見えた。

 口から吐く息は荒々しく、うめく声にならぬ声は畜生ちくしょうのように聞こえた。

 真っ赤に染まった目、落ちくぼんだ眼窩がんか、逆立てた毛は修羅しゅらのような形相ひょうそう

 もはやどうにもならぬというのに生きている。

 まだ生きている。ここまでされてまだ生かされていたのだ。


「だから教えて貰おう、山中の居場所を!」

「まさか、まさかまさか。いやそんなはずはない。まさかそこまで。馬鹿な――」


 宥仁の岩のような顔がようやく崩れた。ひび割れたように深く刻まれた皺が歪み、禿げあがった頭には冷や汗が垂れ、噛みしめた唇からは血が流れた。

 頭を抱え、目には涙を、しゃがれた喉の奥からは地響きに似た唸り声。


「しかし」

「いやまさか」

「何故」


 と交互に声を上げ続ける。

 その様を見て新之丞は笑った。あの男の兄が苦しむ様を見てようやく笑った。


「そうだ! ははっ、お前の弟をしたことを――同じようにしてやる」


 いや到底笑いとは言えなかった。

 口角を上げ、目を細め、歓喜の声を漏らしながらもそれは笑顔とほど遠い。憎悪と怨念に満ちた顔。さながら悪鬼羅刹あっきらせつ


「一体何を――あれは何を――」

「絶命するまで刀を突き立ててやろうと言うのだ。あやつの前でなぁ」


 それは新之丞に地獄を見せた男の顔、尽きぬ瞋恚と怨念を植え付けた男と同じ顔で宥仁を笑えば――ついにすべてを語った。





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