夏の夜

 その夜の風は夏のわりに強かった。

 川の側に立つ新之丞の家に粘る湿り気を運ぶじめっとした強い風。

 狭いところを好むのか、わざわざ背に入り込んでは寝ているゴザまで濡らす。意思があるようにすら感じ、五歳の新之丞は妖怪変化の一種と思っていた。

 そんな寝苦しさ、暑さからは寝返りを何度打っても逃れることは出来ず、いつまで経っても寝付くことは出来なかった。

 そんな夏の夜のことだった。

 寝付けない新之丞は何度も目を開けては横のゴザを確認。ゴザの上の箱枕はこまくらの赤いとそこに載った大きな島田髷しまだまげに目をやる。

 視線に気付くと母はその度に「」と言葉少なに言うのだ。

 そうして気を落ちつけてまた目を閉じる――というのがいつものこと。

 だがその夜は違った。

 一度、二度はいつも通りだったが、三度目に目を開けた時には箱枕には何もない。空のゴザとともに微かなぬくもりがあるだけだった。

 蚊帳かやの外にも姿はなく部屋には影も形もない。

 ならかわやか――と考えた。

 普段ならそのまま寝入ねいるところであったが、その日はそうはしなかった。

 蚊帳の外に見えた月の美しさに呼ばれたようで。

 新之丞は軽く手をつき、足を振り上げ勢いをつけて飛び起きてしまう。丁寧に蚊帳をすくい上げてもぐり出て部屋から出た。

 風が心地よい。

 たかが蚊帳一枚。されどその分以上に風は心地よく感じた。

 五歳の子供である。真ん丸お月様のお陰で明るく怖くもない。とくれば夜の散策に出ない理由もない。

 しかも母も居ない。何かあれば『探していた』とでも言えば小言で済むだろう。

 となれば足取りは軽い。冷えた廊下に身体を寝かせたり、庭ならもっと涼しいかと考えたり、いっそ屋根に上がるのもいいかとも思って廊下を駆けるように歩いた。


「――――っ!」


 ふと耳がぴくりと動き、新之丞は動きを止めて背を伸ばす。

 ざわざわざわわざと強い風に揺られる木々の音の中、声が聞こえた気がした。


「っっおおぁああぁっ!」


 今度はしっかりと聞こえた。その声は男の声。厳しく強い声は父のそれ。

 だが不思議なことはなく、再び駆けようとした。

 父・典心は弟子たちに稽古を付けた後、夜半から自分の修行を始めるからだ。ゴザこそ三つ敷いているが、共に寝た記憶など一度もなく起きた時に居た記憶もない。

 明け方と晩としか自分の修行が出来ない身であるからと、ろくに寝ずに修行三昧。

 そんな自らにも限界を超えた厳しさを強いる父であった。

 だから父の叫びや足音がしようがいつも通りのこと。

 だが足は止まった。

 胸騒ぎ、虫のしらせ、悪い予感が総動員されて冷や汗すら掻いた。

 それはすぐに分かった。


――一人じゃない?


 廊下に耳を付けて音を聞いた。ダダダとなる足音、それは到底一人では適わない。

 ならば弟子の一人と共に修行をしているの――とはならない。

 父は修行は一人でする。他の誰も道場に入れることはない。無論新之丞も母もだ。

『剣術流派には秘する技もある』と文句を言った母に父は言っていた。

 であれば何故。

 それに母も戻らない。

 新之丞は走った。

 道場は屋敷の中で繋がっている。コの字の廊下の真ん中に道場で、端が寝床、寝床の反対が厠である。一瞬考えたが、道場へと走った。

 けして広いとは言えない屋敷は五歳の新之丞には別。この頃はけして大きい方ではない新之丞であるから、短い手足を懸命に回しても道場は遠い。

 だから限界まで急いだ。胸が苦しくなり息も切れ急ぎ走った。

 が、道場の戸を目にした所で止まった。

 つんのめって転げそうになりながら、出来得る限りの勢いだったにもかかわらず。

 足を止めた。

 父も母も居場所は分かっていないのに止めた。

 道場の戸の前が汚れていたから。

 何かをこぼしたように汚れていたから。

 父も母も厳しい人である。そして屋敷を大事にしていた。それこそ蚊帳に穴の一つでも空きようものなら烈火の如くである。

 それが廊下に汚れ。

 強い風が吹いた。

 ざわざわざわざわと音を立てた風に汚れは震えて広がっていく。

 その様子に怯えながらも近づいた。

 何かの液ならば拭かねばならないから。

 ざわざわざわざわと言う音の中、カタカタカタカタと戸が鳴った。

 父も母もまだ戻らない。

 道場からは声も音もせず。

 道場の戸からは液体が溢れて続けていた。

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