水茶屋にて

 喧嘩を終えた新之丞は水茶屋で呆然ぼうぜんと茶をんでいた。


――何故こうなった。


 荷物が気になり人垣をき分け急ぐ。

 ただ中には人は無く、座っていた席には無事な荷物と笠がある。

 人が居ない理由を考えながら笠をつけていると――


「皆さん帰っちゃいました」


 娘がやってきた。

 台詞とは裏腹にあっけかんとして、恩着せがましくはなかったが――

 だがだからこそ新之丞は少し『悪いな』と思った。店の前で刃傷沙汰にんじょうざた――とまでは行かなかったが、めざるを得ない状況にしてしまったのだから。

 と、考えているうちに笠が取り上げられた。

 次いで背を押されて腰掛の前へ、肩を捕まれ座らされて、背の荷は膝に置かれて、気付けば手には湯呑である。

 さすがの売れっ子、さしもの新之丞も舌を巻いて茶を呑むしかなかった。


「良いかー?」

「あ、すみません。もうおわ――って和尚様」


 野太い声に振り向く。そこには入口を覆いつくすほどの巨漢きょかんが立っていた。

 新之丞よりも頭一つ大きいだろう坊主――いや坊主と言うには着物が上等。袈裟けさは金に光り見るからに高級、足袋たぶの艶は絹のそれ、とくれば僧侶が相応しくも思える。

 だが岩のように硬そうな皮膚の、ひび割れたような皺は歴戦という言葉が似合う。


「おお、居ったか。何だ茶なぞ飲みおって余裕であるな。往来で抜いたのだぞ?」


 坊主のような僧侶は新之丞を見つけるなり声を荒らげた。

 いや元からそういう声なのかもしれない。

 何せ先程の一喝いっかつでは新之丞のみならず、場にいた全員を黙らすほど。

 ただ止められた新之丞は少し腹が立っていたので、ぶっきらぼうに返す。


「分かっております」

「ならば来い。お主のことも奉行ぶぎょうしてやる」

「何をでございましょう。刀を抜いたとて、互いに一太刀ひとたちどころか拳一つも当てては ござりませぬ。やったことと言えば拳で刀を折るという芸を披露ひろうしたまで」


 元々用意していた口上を述べると坊主は笑った。

 大きな肩をさらに大きく震わし、身体全体を使って水茶屋ごと揺らすように笑い声を上げ、新之丞の隣に腰を下ろした。


「ガハハ、確かに、確かに芸のためであるなら仕方ないな。六〇年に一度のおかげ年 であるしな。往来おうらいで芸の一つも披露しよう」

「そうですよ。血も流れなかったのですから――はい、和尚様どうぞ」

「おお、いつもすまんな」


 直後、娘は茶を出した。今度はぼんに乗せて何故か二つ。

 少しした嫌な予感はすぐ的中し、娘はやはり新之丞の隣に座って茶をすする。

 腰掛自体は割合大きい。大の男でも二人なら余裕はあるし、子や女子なら三人でも問題ないだろう――が、新之丞も坊主も大きい。

 幾ら娘が小柄であろうと半身を外に出した格好で座ろうが狭い。

 ぴたりと身体を寄せあわざるを得ず、真ん中の新之丞は熱気に汗が吹き出した。


「あの、御坊ごぼう――」

「ん、宥仁ゆうじんである」

「宥仁様はこう見えて和尚様なんですよ」

「どう見てもそう見えるだろう。ガハハ」


 僧衣そういの上からでも分かる鍛え抜かれた身体と、茶を一息ひといきあおる姿はどうみても賊か破落戸ごろつきにしか見えない。追剥ぎでもして僧侶の衣服を奪ったと言われても信じる。


「してお主は?」

「私は坂下新之丞と申します」

「坂下? ふむ”坂下”なあ?」


 賊の首領のようなやたら太い眉の右だけを跳ね上げて顎をさする。

 『意外』とでも言いたげな仕草であった。

 もっとも新之丞が姓のない立場に見えるのは当然。二本差しとはいえ片方は短刀、どうみても仕えてる身の上ではないのだから。

 だが名乗りに疑問を持たれれば良い気――いや悪い気しかしない。

 とはいえ不満を口に出せる身分でもなく、眉を寄せて皺を深くしただけ。


「あっ! そうだ。これ食べます? 裏になってたんですよ!」


 皺の意味を察した娘はぽんと手を打ち、袖に手を突っ込んだ。

 取り出し開いた小さな手のひらの上には、ふさになった沢山の粒を付けた赤黒い実。 鮮烈せんれつ爽快そうかいな甘い香りを発するくわの実であった。


「ほう、時が経つのは早いものだな。もう桑の実がなるか――どれ」

「お侍様もどうぞ」

「私は――いい」

「あ、ひょっとしてお嫌い――」


 娘はひょいと手を引いた。

 大きな目を上目に使って覗き込むようにして「大丈夫ですか?」と気遣う。

 気遣うが、唇を濡らす赤黒い実の液から香りが立てば一層気分が悪くなった。


「ガハハ、そこまでか。なら愚禿ぐとくが貰おうか――かー甘い! 子供というのは皆これ が好きだと思っていたがな。昔いた山でも良く子供たちが取りに来ていたものよ」

「――私は子供ではありませぬ」

「愚禿からすれば同じような者よ。その若さであれば、先刻せんこくの相手の侍より一回りは 下であろう? それとも見た目より歳がいっておるのかな」

「二〇を数えております」

「やはりそうだったか。しかし、何故喧嘩に? あの侍は何も言わぬでな――まあ、 またなのか? 娘よ」


 ”また”という坊主の言葉に娘は頬を赤く染めて、手を当て照れる。


「いやですよ和尚様。またなんて」

「またであろうが。お主を巡って毎月のように騒ぎになっていると記憶しているが」

「えーそうでしたか?」


 二人の顔が新之丞の目の前で笑い合えば。やはり『何故』と疑問がまた沸いた。

 どうにも新之丞の苦手な部類である。ただでさえ僧と、ただでさえこの手の娘。

 押しが強く、押し付けがましくはない。こういうのは上手く拒否することが新之丞にはし難い相手だった。

 そのうえぎゅうぎゅうに挟まれてる。立って逃げることも難しい。

 この時間を早く終わらせたくて、やや早口で割って入った。


些末さまつな理由にございます」

「些末――な。喧嘩の理由がか? 命のやり取りの理由が些末か?」

「左様」

「ないな。有り得ぬ。そんなことで喧嘩を売らせることは有り得ぬだろう?」

「売らせた? いえ、あれはあのお侍様から突っかかって来たのであって――けして 売らせたと言うような。売り言葉に買い言葉というか。でも最初はやっぱり」

「いや売らせた。そう誘導したはずだ」

「そんなまさか――あれ、お坊様?」


 坊主は立ち上がると、鋭い目線を新之丞の左腰に向けた。


「新之丞、お主。煤宮すすみやであろう?」

「――っ! ご存知でしたか」

「はて? 『すすみや』でございますか?」

「ああ、剣術の名よ。聞いたことはないか? 昔は名が通っていたものだが」

「はぁ、とんと聞いたことがありません」


 当然であった。むしろ知っているこの坊主が何者なのかという話になる。

 その疑問が新之丞の頭を支配した。ようやく解放されたというのに、抜け出すことなど考える余裕がないほどに。


「そうか知らぬか――煤宮とは剣術道場の名。ここからだと山二つ向こうだな。そう 遠くない宿場の外れにあったのだ。いや今もあるのだな」

「さすが和尚様は物知りでございますね」

「ガハハ、こう見えても剣術にはちくと五月蠅くてのう」

「どう見てもそう見えますよ」

「そうか、見えるか。ガハハ」


 坊主の笑いもどこか遠くに聞こえた。

 娘の上等な墨を落としたような深い艶のある黒い瞳も目には入らず。

 何故この坊主は煤宮を知っているのか――と考えていた。


「あの大丈夫ですか?」

「かぁ、やめんか」

「へ?」

「その言葉だ。『大丈夫』と言うのは相手を気遣きづかう言葉ではないぞ? よいか大丈夫 とは人徳じんとくのある男を褒める言葉だ。お主は今、何故か黙った新之丞を褒めたのか? 違うであろう」

「ま、まあそうですけど」

「もしくは仏の道において、仏をたっとぶ時の呼び名である。新之丞は仏か?」

「――」

「おいおい、二人ともなんだその顔は、年老いたなら若者の言葉遣ことばづかいに口を出すのが の理、もの道理どうり、人の道であるぞ。お主らもあと二〇年もすればそうなる!」

「はいはい。それでお侍様、大丈夫ですか?」

「おいぃ娘ぇぇ」


 笑い合う二人であったが新之丞の気は晴れない。

 ただ、気を使わせないために口のはしを持ち上げ笑うフリをした。


「ああ――大丈夫だ」

「おいぃぃ」

「あは」

「少し驚いただけだ。まさか煤宮の名を外で聞くことがあろうとは」

「外!? つまりそれはまさかの秘密の剣術なのですね?!」

「そういうわけではない。なら昔も名を馳せておらぬよ」

「あ、確かに。でも今はそうでもないのですよね。お侍様はどうやって?」

「――父だ。やっておった」

「ほるほどそれで。煤宮流とはどんな修行をするのでございますか? 拳で刀を折る とはよほど厳しいのでしょうか?」

「そうではない」

「じゃああのひらひらっと躱す技も厳しい修行なしで身に着けられるのでしょうか? あれが出来るなら私も――」

「それも少し違うな」

「ええ? 厳しくないのに厳しくなくはない修行を?」

「ガハハ、意地が悪いな新之丞」

「いや、ああ、そうか済まない。違うのはそこではない。流派ではないのだ」


 と答えると娘は眉の間に皺を寄せた。それを見て新之丞もまた皺を寄せた。

 次の質問が『煤宮とは?』となるに決まっているからだ。

 新之丞も最初に師にこの手の質問をした。

 そしてその答えを一言で現す言葉が中々に出ない。


「では煤宮とは何なのでしょう?」

「一言ではな――ええと」

「剣術なのですよね?」

「うむ、それは合ってる。少なくとも今は剣術道場としてやっている」

「あ、道場の名前が煤宮と」

「違う。道場自体には名前はない。『煤宮』という看板があるわけでもない」

「えー? ではではあの刀を割った技はその煤宮なのですよね?」

「ああ」

「でも流派ではない」

「そうだ」

「一介の町娘には教えられない秘密の流派――でございますか?!」

「そう来るか。だが違う。誰にでも門戸もんこは開いておる」

「ええ? ううんと実は剣術を志す方だけが知っている秘密の言葉とか?」

「まさか、我々が名乗りに使う以外ではないだろうな」

「ああ! 分かりました。とんちですね! 剣術に通じてらっしゃる方のみに通じる とんち! なんだそっかぁ」


 完全理解したと言わんばかりのしたり顔でしきりに頷く。

 が、当然違う。新之丞は肩をがっくり落として首を振って返す。


「えーそんなぁ」

「ガハハ、娘よ残念だったな。更に付け加えると戦うすべではないそうだぞ」

「ええっ! 絶対とんちの奴じゃないですかぁ。流派でなく、道場の名前でもなく、 戦う術でもないって、何なんですか!」


 新之丞は身体をゆすられた。

 思い起こせば師にも同じことした記憶がある。

 もっとも少しおもむきは違うが。


「生き残るためのじゅつだ」

「生き残るため――?」

「左様。剣術とは戦う術、武術の一つ。とはほこを持って前進すると言う意味だ。だ が煤宮は違う。矛を持てど進む必要がない。いやむしろ進まない」

「確かに後ろにも横にも避けてらっしゃいましたけど」

「そうだ。背に傷を負えば”生きることに賭けて後退出来た”とむしろ名誉になる。 後退をよしとする煤宮はもはや武ではなく。これは戦う術ではない。元より野伏に 襲われた村の民の生き残るという意志から沸き上がった物であれば、それは剣術と いう流れの中にはない。よって流派を名乗らないのだ」


 ようやく思い起こした師の言葉。

 所々は間違っているかも知れないと思いつつ説明をしきる。

 娘の顔は曖昧な笑顔で、少し自信を失った。

 だが反対に晴れ晴れとした顔で声を上げた坊主もあった。


「なるほど見事! 世の剣術くあるべし。立派な理念である。だがなればこそ喧嘩 に至ったのが解せぬ。見たところ旅の途中であるのであろう? 切腹とはいかねど 奉行の厄介にはなりかねないのだからな」


 尤もであった。小さく「修行不足であります」としか返せない。

 先刻の振る舞いは間違いなく煤宮の精神とは正反対。

 師とて自らを馬鹿にされたことよりも、喧嘩をしたことの方に怒りを露わにする。


「旅の――ああ! お侍様あのことを宥仁様にお聞きになってみては? こう見えて 物知りなのですから」

「見た通りであろう。ここまで色々話してまだ信じられないとはなぁ、笑えぬぞ?」

「あくまで見た目の話でございます」

「ガハハ、そうか見た目か。それで新之丞よ。話とは? この通りこの見た目に反し それなりの知識は備えておると自負しておる。伊勢参りの作法でも聞きたいか?」

「ああ、いえ」


 果たして聞いて良い物か迷った。

 理由は幾つかある。

 一つ目は坊主であるということ。そもそも坊主が苦手だ。

 二つ目が煤宮を知っている坊主であるということ。

 ただ、娘の手前もある。

 苦手と言っている場合でもないというのもあった。


「違うのか。まあ言うてみい。それなりに何事も詳しくあるのが坊主よ。それくらい しかやることがないとも言えるがな。ガハハ」


 肩を揺らし水茶屋ごと揺らす大きな笑い。崩し兼ねないほど笑い続けていた。

 だがそれは新之丞の一言でぴたりと止まった。


「賊を探しているのです」

「――何故だ?」

「何故とは?」

「何をするつもりかと問いた。まさか腕試しとは言うまいな?」


 新之丞は目を膝上の荷――打飼袋うちかいぶくろに落とした。

 筒状に丸めた麻布に荷物を包んで両端を結った物で、これを背に掛ける。旅行李と違って持ったまま切った張ったも出来る代物。


「御坊が仰るように煤宮は”昔”は名が通っていました。道場には人が入りきらない ほどの門人もんじんを抱えて稽古けいことなれば庭で行うほうが多いと」


 その袋を解き中を開いた。

 中には矢立やたて付木つけぎ等の旅の必需品ひつじゅひん、それと一枚の古びた紙が入っていた。

 半ば千切れがかり、茶色く変色した塵芥ちりあくた一歩手前の紙。茶器を触れるが如く繊細な手つきでゆっくりと取り出す。


「それゆえ、分派ぶんぱを作ることになりました。名を煤宮一伝流すすみやいちでんりゅう。流派を名乗らぬ煤宮に 流派を名乗らせたのは世に出るため。名の通り技を絞り、藩の侍が受け入れやすい ように改良を施した流派。洗練された動きの中に、煤宮本来の泥臭さの塩梅あんばいが実戦 に向くと評され藩主の耳に届くほど。まさに飛ぶ鳥を落とす勢い――だった」


 手が震え、指先に力が入ってしまう。

 壊れかけの四つ折りの紙を裂きそうになりながら。曲がった左は添えるだけで右手を何とか使って開いた。


「今より十六年前、今のような暑い時期。一伝流にこの男がやってきたのです」


 人相書にんそうがきである。

 十六年前の事件の下手人げしゅにんの物。

 紙の裏からでもその顔がありありと浮かぶ。

 手の震えは一層大きくなり、息を大きく吐いては、力の籠った目を坊主に向ける。

 その様子に声を掛けようもなく、二人はじつと新之丞の言葉を待っていた。


「この男、下手人の名を山中作太やまなかさくた

「下手人――では」

「ああ道場主が斬られた」

「それで名を聞かぬようになったのですか?」

「違う。それだけではない。それだけなら”生き残れなかった”とそしりはあっても、 それでも本家に類が及ぶほどのことではない。問題は――煤宮なのだこの男」

「なんと――」

「煤宮なのだ。この男も。更に斬ったのは道場主だけではない。その妻も――挙句に 逃走途上で更に四人、都合六人。守り逃げる剣術が、凶刃を生んだとあっては名声 が落ちるだけでは済まない。門人も弟子すらもことごとく去った。今も私を入れて四人の 弟子だけしか居らぬ」

「では、この男を討って威信いしんを取り戻そうと。そのための旅なので――」


 娘と目があうと、怯えさせてしまった。

 手の力は加減できず、左指の人差し指と親指は紙を破る。

 目は血走り、吐く息は地響きのよう、腕には筋が走り、震えながら新之丞は言葉を吐き出した。半ば叫ぶように。


「一伝流を開いたのは私の父だ」


 娘の嗚咽おえつが聞こえる。

 坊主は動かない。岩のようにぴくりとも動かない。

 新之丞はさらに詰め寄った。


「御坊! 何かご存知ありませぬか。この十年片時かたときも忘れたことはありませぬ。この 一月、江戸を回っては影も形も掴めず。御奉行に聞いても何も出てきませぬ。何か いや何でも良いのです。噂でも、何でも、ご存知ありませぬかっ!」


 岩のように動じない。迫る新之丞にも動じない。

 ただその優しくとも厳しくとも悲しくとも見える深い海の底のような瞳を――ただ人相書きに落としたまま動かないでいた。

 新之丞が潰しかねない人相書きを見て動かないでいた。

 業を煮やし、目の前に突きつけて見せれば――ようやく動く。

 小さくごく小さく、大きな口を小さく動かす。

 聞き取れないくらいの声で声を漏らした。


「――やはり。然全さぜん


 父母の仇、山中作太の誰も知らぬはずの人相書きにすら掛かれていない僧としての名――それが宥仁の口からついて出た。

 新之丞は僧がまた苦手になると思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る