曽我

 戦乱の世が終わり戦いからほど遠い太平の世はすでに二〇〇年を数えた。

 それでも人は闘争を忘れられない。

 舞台の上で、講談こうだんの中で血生臭い話を求める。

 喧嘩を華と称して、罪人の首はさらして血が流れるのを見物する。

 平穏へいおんが退屈を呼ぶのか、はたまた人の本能か――


「刀を抜いたぞぉ!」


 であるから抜き身の刀を見れば、老いて枯れた老人といえども声を上げる。

 頬をゆるませ、まるで嬌声きょうせいを上げるように叫んだ。

 その声に一斉に振り向くのは白浄衣の参拝客たち。白刃はくじんのきらめきを確認するなり寺社仏閣などそっちのけで我先にと駆けだした。

 あっという間に二人は取り囲まれる。

 曽我はそれを満足そうに眺めると刀をかかげて気勢きせいを上げた。


「我こそは曽我辰正そがたつまさである! さあ名乗れ小僧!」


 若い男はぴくりとも動かないでいた。

 未だ刀は鞘に納めたまま、目を伏せ考えていた。


「ははっ! もう逃げられぬぞ。どうした今更臆したか? もう取返しはつかんぞ? 小田原にその人ありと言われたこの曽我に抜かせたからにはなぁ!」

「そうだそうだ! 斬っちまえ!」


 群衆の無責任な声が一つ上がる。

 すると続々と「斬れ!」「斬れ!」と続いた。

 それでも若い男は刀を抜かない。鞘を持つ手などはだらんと垂れさがり、した目は曽我のタコ頭ではなく水茶屋の中へと向けられた。


「どこ見ておるかぁ! 娘か? んん、娘かっ! 良いか、この曽我はな。初めて娘 が店に立った日から通っているのだ。江戸に参じて絵師に美人画を頼んだりもして おる。つまり娘を見出したのはこの曽我! それを貴様のようなぽっと出の若造が 横から何を――いや、いい。どうせここで果てる命っ!」


 曽我が構えると若い男はようやく目を向けた。

 腰前で持ち、切っ先を相手に突きつける――いわゆる正眼せいがんの構えである。

 やる気は十分、いつでも突きかかれるように足に力が入っている。

 それを見ても若い侍はゆるゆると動く。ようやく帯に刀を差そうというところ。

 やる気がない、というより詰まらなそうにも見える無表情。

 先刻曽我を挑発した鬼の形相はなりを潜めていた。


「どうしたぁぁ! 名乗れんか! やはり臆したか。喋ることすら出来ぬとはなっ! 貴様も武士なら堂々を名乗れ! それとも墓には山猿とでも刻んで欲しいかっ」

「それでいいから始めろ!」

「こっちは炎天下で待ってんだぞ!」

「さあ、こう囲まれてはけつまくって逃げることは出来ぬぞ。無論頭を下げても遅い! さあいざ! いざ尋常じんじょうに我が愛刀・兼――」

「――新之丞しんのじょう

「ああ?! そんな名ではないっ! この刀は関のものだぞ! そんなわらしのような名 ではない。見ろこの輝きを! そして聞け我が愛刀・兼――

坂下新之丞さかしたしんのじょう――私の名だ。墓には刻まなくていいぞ。ここでは散らぬ」


 そう言い放つと、曽我の言葉ごと斬るように刀を抜き放った。

 新之丞は臆したわけでも、娘が気になっていたわけでもない。

 時間を掛けていたのだ。

 一つは反省のため。

 師までを悪く言われたとて、喧嘩をしたのであればそちらのほうが勘気かんきこうむる。

 一つは観察のため。

 眠たげに伏した目は曽我を見ていた。

 刀の長さ、身の丈、手、腕、足の長さという斬り合いに必須の情報を集め。

 さらには曽我自身のことも見ていた。

 大きな銀杏髷いちょうまげ登城とじょうするかのような正装ではまず役人であろう。短刀を馬鹿にし、構えは正眼。まず正統派の座敷剣法ざしきけんぽうと見立てた。


「ほう、ほうほうほう。無骨な拵えからどんな刀身が出てくると思えば中々どうして 悪くない。いや良いっ! さしずめ嵐の中、飛沫しぶきを上げる荒波あらなみと行ったところか。 見事な皆焼ひたつら刃文はもんである。だが刀身とうしんは飾りではないぞ? 見よ! この直刃すぐはを! 洒落しゃれた拵えから実直な抜き身。これこそが侍の刀。どうだ、この愛刀・兼――」

「御託はいい――まさか臆したのか?」

「いいぞ若いの!」

「そうだよ。とっととはじめなっ」

「黙れぇ! これは命のやり取りだ。せめて構えを取らせてやろうというこの曽我の 温情おんじょうが分からぬか!」


 新之丞は右を前にした半身はんみ。右手一本で力感りきかんなく刀を握る。

 一見すればただ立っているだけ、だが「既に構えている」と言うと、空いた左手で『来い』とばかりに手をハタめかせた。


「ああぁっ?!! それが構えだと言うつもりか!」

「左様」

今生こんじょうの最期の構えがそれで良いのかと問うた!」

「左様」

「そこから何が出来る、何の技がある! 貴様の道場ではそう教わるのか!」


 タコのように尖った口から唾を吐き、タコのように丸い頭を、タコのように真っ赤に染めた曽我は完全に茹で上がった。

 だが新之丞の構えは確かに習った物、よって返答はやはり「左様」の一言。


「達人を気取ろうというのか、田舎剣法ごときが。いやいやそうか! 分かったぞ。 今までもそうやって相手の気勢をいでいたのであろう。そうして戦いを避ける。

 それが田舎剣法の極意ごくいというわけだ」

「ほう、良く分かったな」

「んっぐっ!! しかし今回ばかりは相手が悪い。時も悪い。場所も悪い。誰をどこ で相手していると思って――」

「お主の道場ではその構えからは口を働かせると教えているのか?」

「はははっ! まずは若いのが一本だっ!!」


 どっと起こった笑い――をかき消す大音声だいおんじょう

 「黙れぇ!」と尖った口のどこから出たのか分からぬ声で周囲を黙らすと、曽我の足元に力が籠るのが見て取れた。

 足の指の一本一本が折れ、草履ぞうりの上から地を噛む。


「きぇぇぇぇぇぇぇいっっ!!」


 鋭い突き――巻き起こった風が土埃つちぼこりを立てるほどの鋭い突きだった。

 自ら名の通った剣士というだけはある鋭い突き。

 だが鋭いだけでは届かない。

 正統派の座敷剣法では届かない。

 正眼の構えから出た突き――とくれれば狙いは正中線せいちゅうせん、かつ腰から上だからだ。

 先程目を働かせて測った曽我の長さはこのためにある。

 身体と刀を足した長さより先に届く道理はないのだ。


「うぉぉぉっ!」

「斬り殺せぇ!」


 突きを繰り出し、それを避けた後にようやく群衆は声を上げる。

 しかしその時にはすでに切っ先は引っ込んでいた。

 地をむような足の指先から力みが抜けて、なめらかな動きで地をり砂煙を生む。

 足幅が広がるのが見えた。

 ならば考えられる攻撃は多岐に渡る。

 新之丞は後ろへ飛び退き全身を逃がす――が、それは囮だった。

 ごく軽く振られた刃は前進する力に変えて新之丞ににじり寄る。

 刀が返り、逆袈裟を描く。

 これも下がる――がこれも軽い振りで、既に曽我の刀は頭上で陽に煌めいていた。

 下がろうにも背後は人垣――ここまで曽我の思惑おもわくであろう。


「やれぇぇぇ!」


 歓喜の雄たけびが新之丞の背を叩いた。

 自らが斬られかねない位置だというのに、血を求める群衆に――砂を掛けた。

 文字通り砂を蹴り上げ、身体を丸めて転がりながら刃を避けたのだ。

 曽我の顔は唖然あぜんとしていたであろう。鼻から勢いよく息が抜けるのが聞こえた。

 正統派の座敷剣法に転がって逃げる相手を斬る技はない。

 構えて斬り、それを受ける剣法だからだ。


「このぉっ!」


 ゆえに顔を赤く染めて踊りかかって来ても同じことだった。

 幾ら斬りかかろうが新之丞は逃げる。

 刀で受けることもしない。背を見せてることも厭わない。地に伏すことを厭わない相手を捉えることは出来ない。


「ちょこまかっっとっ! 逃げてばかりかっ! 貴様も武士の端くれなのだろうが! まあこの俺に恐れおののく気持ちは分かるがな。その刀が飾りでないならばせめて刀を 合わせて散れい! この愛刀・兼――」

「やはり口を働かせる構えと見える」

「っっっ!!」


 もはや髷までも赤く染まり兼ねない声にならぬ声を上げた。

 まさに怒髪天どはつてんを突く。

 かつてない怒りに我を忘れて、斬り、突き、ぎを矢継やつばやに繰り出す。

 逃げつづける新之丞。勢い余って斬られてはたまらぬと、曽我の刀に合わせて少しずれる壁の群衆。

 ますます逃げやすく、ますます刀を振らせやすい。

 疲れ止まった曽我をおちょくるように時々立ち止まったりもした。

 もっともこんなことを繰り返していれば群衆の声はあちら側に付く。


「逃げるな! 斬り合え!」

「せめて斬られろ! やっちまえタコ侍!」


 声援に後押しされるように曽我はさらに刀を振るう。

 息も入れずに遮二無二しゃにむに追いかけまわしてくる。

 そうなればもう構えもあったものではなく、力みを増した振りでは大げさに避ける必要すらなくなってきた。

 足を止めて上体だけでかわす。

 真っ赤になったタコと顔を突き合わせて躱し続ける。

 その数が二十を超えたところで青いタコとなった曽我はついに止まった。


「な、何故っ――何故き、斬りあわんっ! お、お、臆したかっ!」


 刀は斬る道具である。

 重さ一斤いっきんを超える鉄の塊。そんなものを振れば大の大人でも身体を振り回される。

 身体に当たらず、また受けることもさせられぬとなればすべて自分に返る。

 大の大人が振り回される刀を、隙を晒さぬように腕で止めなければならない。

 刀は振る道具ではないのだ。

 更にはこの炎天下、陽炎かげろう立つ昼下がり、動き回らずとも汗は吹き出す。逃げているだけの新之丞でも焼かれたように身体は熱い。

 なら曽我はどうであろうか?

 顔にはクマが出来たように疲れ果て、肩はずっと大きく上下し、それでも息は整うことがない。正眼を保つ腕の力もないのか、力なく下段に構えるのみ。

 ひるがえって新之丞に疲労はない。まだ片手で幾らでも振り回す自信があった。


「また、それか。はっ、まさかその構え逃げるためのものだったとはな」


 そして新之丞の目は曽我という人間を捉えた。

 服装、拵え、口振り、構え、表情。あらゆる要素を拾い集めて頭の中で曽我という人間の根を捉えた。

――虚栄きょえい

 それが曽我のと結論を出した。

 つねならば侍と言えど、このようなことで命を掛けない。喧嘩を売ったり、最後の一線は越えない。適当に言い繕うことだって出来た。

 それが斬り合いとなればそれは曽我の根、気性に由来しなければおかしい。女の前でいい恰好かっこうがしたい。わざわざ役人の恰好で来たのに若造の風下には立てない。いや完膚なきまでに上だと知らしめたい。

 ここまで追い込まれ尚、相手を下げなければ気が済まない。

 喋らず回復に専念すべしと思っていも止められない。

 上でなくてはならぬから――

 それが虚栄心。見栄みえのために命を掛ける、立場のある侍によく見る心持ち。

 となればそんなものは新之丞のたなごころの上。

 わざとあおり、わざと言葉をさえぎり、斬り合いに応じず、逃げて回る。

 見栄を充足させない。満足させない。それだけで冷静さを欠き、勝手に崩れる。

 疲労困憊ひろうこんぱい。刀を握るのもやっとだと言うのにも関わらず、もはや勝てる道理もないというのに――


「左様――師に教わった。山でな」

「こ、この曽我を。若造が、なめるかぁぁっっ!」


 少し口の端を歪めて見せればこの様。

 頭の中でもたげた気持ちに、無理だと悟っているにも関わらず身体を動かす。

 その先が死地と分かっていても前に出ざるを得ないが虚栄心。


「ぬぉぉぉっ!!」


 後先を考えぬ突きの勢いは全身でぶつかってくるよう。

 背後に何があろうが諸共もろとも刺し貫く覚悟、気迫は今日一番。

 ただその気迫を持つには――


「遅い」


 幾ら全身から力を集めても、もはやしぼかすである。

 ぎりぎりでひねり出した力では乾坤一擲けんこんいってきを通せるはずもない。

 怒りで曇った目では新之丞を捉えることもない。

 新之丞は顔を少しずらすだけで良かった。

 さすればそこは水茶屋の骨組みであれば。

 どすんと鈍い音が響き、曽我が止まった。


「そういえばこの構えから繰り出される技を見たいのだったな」

「待て、何をっ! 待て待て待て! ぬ、抜けっ抜けろっ! ぬぬぬっ!」


 深々と突き刺さり、曽我の今の力ではびくともしない。

 刀は折れず曲がらずという。とはいえそれはあくまで上手に扱うのが前提。

 切れ味を求めた日本刀は薄く、刃の縦方向以外からの衝撃には弱い。斬り方が下手であれば普通に折れ曲がる代物だ。


「ひえっ!」


 新之丞が左拳さけんを固めて見せると情けない悲鳴があがった。

 軽く振り上げれば、叱られた童のように目をきつくつむってその時を待つ。

 だが狙いは曽我ではない。刺さった虚栄のみなもとである。

 ごく軽く、だが素早く。手の甲をむちのようにしならせ叩く。

 まるでビロードが割れた如くの澄んだ音を立てて、愛刀何某は四つに割れた。


「あ、ああぁ!? ああっっおぁぉぉぉっ! 俺、俺の! 俺のぉぉぉたましいぃ! おまえ、これ、これ関の! 幾らかけたと。おお、おおぉ?!」


 ようやく見栄の下の顔が晒された。

 いつくばって割れた刀を集める姿は武士にあるまじき不様さ。

 意気いき覇気はきもなく、誰がどう見ても『勝負あり』と思われた。

 だからこそ――絶対に終わりと思われたからこそ新之丞の右手はようやく上がる。

 肘を引き、胸の位置で水平に刀を構える。

 身体をひねり、左足を前に、そして腰を回す。

 狙いは曽我の青ざめた顔。

 新之丞の右手は太くおこり、ギリと音を立ててつかを握りこんで伸ばす。


「そこまでぇぇぇいっ!!」


 切っ先がまさにタコを貫く寸前。

 雷鳴が如きとどろきに撃たれたように身体が止まった。


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