another one
玉部×字
プロローグ
若い侍が歩いていた。
肩を怒らせ大股で歩いていた。
目深に被った笠の下の眉間に強く皺を寄せて歩いていた。
奥歯を噛みしめ舌を打ち、手に力を込めながら歩いていた。
降り注ぐ強い日差しに、太陽を
――時は一八三〇年、文政一三年。幕末と呼ぶにはまだ少し早い時代。
早い梅雨が開けると全国の街道は人で
前の年、伊勢の
とりわけ酷いのが
「あらお兄さん。おひとり?」
「ちょっとちょっと良い男じゃない? ねえねお侍さん笠とって見せておくれ」
若い男の夏の山のような深い緑の旅姿は参拝客たちの白の中では目立つ。
身の丈も高いので余計だ。周囲から浮く様は雲海に浮かぶ富士の如く。
女からの声でもにこりともせず歩いた。
何せ声が掛かるのはこれが初めてではない。旅立ちから早一月、掛けられた声は女だけでも五〇は越えていた。
男は笠の上からでも分かる美丈夫の侍であるからだ。
顎の滑らかで鋭角な線に幾ら力が籠っていようと、薄い唇を堅く結んでいようと。旅で気持ちの浮ついた女衆が放っておくわけもなく。
もっとも、今度の女はとうが立っていて些か図々しく。下から覗きこむようにして顔を近づけた挙句、若い侍の笠にも手を掛けた。
「ひっ」
逆鱗に触れられた龍の如き若い男の目に恐れおののき退いた。
勢い余って尻もちを付き、尿でも漏らしたかのように腰から力が抜けたのを見ても顔はぴくりとも動かない。
「おい、どうした」
「あんた一体――」
むしろ周囲の旅人たちの目を見つめれば、そそくさと道を譲ってくれた。
端からこうすれば良かったと、少し清々しい気持ちで若い男は大股で歩き去った。
大山の玄関口、
容赦のない日差しに肩が当たるほどの人混み、川から流れ混む空気も生暖かく汗を増やすだけ。拭えども拭えども汗は流れる。
若い侍の目は宿場の中の一つの暖簾に奪われた。
水茶屋――張り付いたように乾く喉がもっとも欲していた暖簾である。
「頼もう」
水茶屋に入るには仰々しい挨拶。台詞の割りには澄んだ声が響くと暑苦しい店内は水を打ったように静まった。
日差しを遮るためよしずで覆われた店内はやや暗い。突如静まった様子も相まって不気味――不思議と客の目線の集まりも感じたというのもある。
何故か店内は男ばかり。挙句、参拝客特有の
「いらっしゃいまし――あっ」
唯一と思われる女――店の娘の挨拶に間抜けな声が付いてくる。
若い男の手が肩を支えていたからだ。
「わあ、すみません! ありがとうございますっ」
店の娘の少し気恥ずかしそうな笑顔を見て疑問が氷塊した。
大きな目に丸みのある小さな顔。薄暗い店内でも輝いて見える汗ばんだ笑顔。
見目麗しいとはこのこと。
器量は良し、屈託のない笑顔はさらに良し。
この器量で小さな体は庇護欲をそそるに十二分。
だから旅の者が入れないほど混み。だから新しい男が入って来るだけで冷たい目線が飛んでくるのが理解できた。
挙句その男が肩を抱いた。
挙句その男は二本差しの侍。
水茶屋の看板娘から旗本に嫁いだ『鍵屋のお仙』の逸話。店内にいる二十人余りの男全員の頭に浮かんだであろう。
となれば刺さるような敵意が斬るような殺意へ至るのもやはり理解できた。
「どうぞ、こちらへ」
店内の殺伐とした雰囲気に気付いていないのか、あるいは慣れているのか。あるいは商いのためか。看板娘は意に介さずむしろ堂々として席を案内する。
むしろ男の方が動揺した。
案内された一番壁際の席はもっとも遠慮したかった席だったからだ。
店内に入った瞬間から不躾な視線を飛ばしていた侍たち二人組の席の前である。
この暑いのに黒の
「お待たせしました」
幸い娘はすぐに茶を持ってきた。
更に次の問題が沸く、支払いは幾らか? である。
店の看板には茶は『八文』とあった。がそんな額のわけがない。
勿論看板に嘘偽りはなく、八文の支払いでも問題はない。ないが、この店でこの娘に支払われている額は間違いなくもっと上。
それは着ている服からでも分かる。滑らかな手触りとシボのある見た目はちりめんのそれ。若い侍だとて高い織物と知っていた。
一杯八文の商売をしていて買える代物ではない。
ゆえに若い男が懐から取り出したのは
「わあ、ありがとうございます!」
喜ぶ顔を見るに男は安堵した。
実は三二文はこの店にいる客でもっとも少ない額である。
しかも圧倒的に下。今いる客は最低でも倍を支払っていることを知らない。
水茶屋の人気の看板娘とくれば江戸なら一杯に二〇〇、三〇〇が飛び交う。そんな男気を見せなければ目を見て話すことなど出来ない、いや許されないのである。
ここが伊勢原だとはいえ、この看板娘には既に美人画の絵師も唾を付けているとの噂まである。それに三十二文は安すぎた。
よって次の男の発する言葉で店内はざわついた。
「少し聞きたいことがあるのだが」
「はい! 喜んで!」
更に娘が色よい返事をしたから猶更である。
”自分たちが幾ら積んだと思ってる”という心の叫びは男には通じることはなく。
針の
「おん? おお、おいおいおい」
「どうした
「いやな。俺の目は悪かったかなぁ?
「いやぁ? お主の目の良さは折り紙付きよ。先の鷹狩で五町は先の野兎を見つけて 見せたではないか。あの芸当を出来るのは他には居らぬよ」
「だよなぁ?ならあれはなんだ? あの腰の物はいささか短すぎないかな? あれで はまるで――」
殴りりつけたくなる高い声が耳に障る。唾が飛んで掛かってるのが分かるほど。
だが男は言い返さない。いや返せない。
侍の
男の地味で艶のない
身長を考えれば短いがぎりぎり二尺ある。打刀と言っていい。
問題はもう一方、小の方。
どう見ても刃長は一尺に満たない。
「――
「まさかまさかまさか。武士の魂である腰の物を短刀にぃっ?! まさか有り得ぬ。
色男 金と力はなかりけり という がまさかなぁ?」
「いやいや、間違いない。
顔を歪めて下品に笑う二人の声。他の客も、声を押し殺した笑いが漏れた。
刀は侍の魂という、曽我とかいう侍の言はもっともである。
だからこそ男は反論もしない。
だからこそ差した時点でこの程度のことを言われる覚悟は決まっている。
「娘、お主この辺りの出か?」
「え――あ、はい! 生まれも育ちも伊勢原です」
「なら、この辺りには詳しいな」
「生まれてこの方十五年。江戸はおろか小田原にも出たことないですよ!」
「そうかならば。この辺りに
「賊――ですか?」
「ああ、腕が立つという噂があれば尚良いのだが。雲を掴むような話ですまぬが」
「いえ、噂というのは得てしてそういうものですから。ただ賊ですか――」
「聞いたことはないか」
「昔は居たのでしょうが。私は聞いたことがありません。何分ここいらは講の人達が 集団で通るので。追剥ぎなどもあまり――あ、でもこの先のお寺さんなら――」
「おや? おやおやおや? 俺は耳が悪くなったかな?」
半ば絶叫のような金切り声が割って入れば、さすがに男の顔も歪んだ。
「ないない。三つ離れた部屋の父上の寝息すら
「となれば賊を探しておると聞こえたのは?」
「事実であろう」
「ほう賊と聞こえたのは事実か。まさか徳川の威光の届かぬ地から参ったのかな?」
「道理で道理で。芋っぱりめ。剣術は猿にでも教わったのではあるまいなぁ」
「なれば、あっちのほうも猿並みってな」
「がはははは、上手いことを言うでは――おん、なんだぁ兄ちゃん?」
沈黙を守っていた男が立ち上がる。
振り向き、手を腰の物にやりながら二人の侍の前に仁王立ち。タコのような男と芋のような頭をした男の二人の侍も目を離さない。
店内が圧迫感のある緊張に包まれた。
「どうしたい。そんなところに立って陽でも遮ってくれてんのか?」
「そっちにゃ陽はないだろう」
「そういやそうだった。はっは――」
男の右手が鞘を掴むと、座っている二人も身構える。
ただ男が抜いたのは刀ではなく、鞘そのもの。
鞘を掴み左手に持ち替えると前に突き出した。
「なんだなんだ脅かしやがって。何を見せようってのか。なんだ、そのひん曲がった 指を見せて。山での厳しい修行の証ですってか?」
「居たよ居たよ。我が道場にもお主のようなやつが。
確かに男の左手の指は曲がっていた。
動かぬ男、抜かないのであればと更に侍たちは口汚くなる。
「それに見ろよ。この鞘。泥を塗ったくったようではないか?」
「なあ兄ちゃんよ。刀は武士の魂だぞ? 自分の魂に泥を塗っておるのか」
若い男の鞘は確かに
「おうおうおう、その通り! 見よ、この俺の刀を」
曽我のタコのように尖った口をひきつらせて笑う。無様とも言える笑みであるが、それに比べて拵えの見事なこと。
深く黒く艶やかな
鍔などの
美しく、嫌味のない、所有者に似つかわしくない美意識が随所に見られる逸品。
「おお、いつ見ても美しい。拵えは京で作らせたのであったかな?」
「そうだ! 刀身はあの関で打たせた物。どうだ若造。これが”本物”の武士の魂。 貴様のような――」
「なるほど見世物か」
「なんだと、貴様ぁぁ」
「見世物と言ったのだ。刀は斬るためにある」
「はっ、この曽我に腕を問うたのか? 小田原の剣術道場では知らぬ者は居らぬこの 曽我相手に?!」
「ならば来い。その拵えが、刃が、お主の魂が本物であるというならば――当てろ」
――鞘当
武士同士がすれ違う時、鞘尻が当ったことで争いに発展したことに由来する言葉。つまり若い侍は『喧嘩を売る度胸はないのか?』と問うた。
歌舞伎の演目にもなったこの言葉、広く
この場の誰も知っている言葉。この場の全員が息を飲んだ。
「どうした? お前の魂が震えているぞ。無論、武者震いであるよなぁ?」
「きっ貴様ぁぁ!!」
脂汗をかく曽我は細かく震え、鞘を鳴らした。
武士の喧嘩となれば刀を抜かねばならない。
武士は刀を抜いたのであれば相手を斬らねばならない。
斬らねば自らが腹を斬るのが武士である。
たとえそれが水茶屋の看板娘を巡る嫉妬から始まったことであってもだ。
「おい、曽我。こんなところで――」
「分かって――分かっておる! いいか若造。知らぬなら教えてやろう。刀を抜くと言うのは――」
「なるほど、口だけか。やはり見世物、いや偽物の魂」
はたして曽我の頭は茹で上がったタコのように赤く染まる。
尖った口からは鳥のような叫びを上げて、黒呂漆の鞘は振り上げられた。
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