七沢

 伊勢原いせはらから北に数里すうり進むと七沢ななさわという地がある。

 山に挟まれた南北に細長い地で、名の通り幾筋いくすじもの川が流れ込む。その川に沿って村落そんらくがある。ほぼ山といっていい小さい村がある。

 切り開かれた土地は平坦ではなく、段々となった田が山の斜面に拓かれていた。

 収穫は少なく食っていくにも困るほど。であるからこの村には別の産物で持って、生計を立てていた。炭焼きと切り石である。

 特に切り石は”七沢石ななさわいし”と土地の名がつく良質なもの。地蔵や暮石に重宝され良く売れた。道にある地蔵など江戸までいっても七沢の石が使われていたりもする。

 そのため夏や農閑のうかん期となれば石工いしくが出稼ぎにも来た。

 村を抜け川を上ると石切いしきり場の音が響く。更に奥へ進めば幾つもの小屋が見えた。

炭焼き小屋と合わせるように立っていてちょっとした村落のよう。

 夏には石を穿うがつつるはしの拍子と、木をり倒すノコの音頭で祭りさながら。山は活況で沸く――と村の人間は答えた。

 同時に『人が居るのはそこまで』とも。

 そこから先は獣の領域である。

 木々のざわめきとむせ返るような緑の匂い。耳が痛くなるほどの蝉の鳴き声。川を上っても上っても狩猟小屋の一つもなく、猟師も寄り付かないと分かる。

 鼻に獣の臭いが漂えばきもが冷え、耳に茂みの揺らぎが響けば背が凍る。

 そんな人の埒外らちがいの地に有り得てはならない声がした。


鉄冶てつじ――」


 河原に小男が二人。

 ともに黒と見紛う濃藍こいあいの着物。ともに獣の匂いをただよわせ、ともに似た背格好と顔をした男が二人居た。


「そろそろ――」


 片割れは不機嫌なのか、不安なのか、ハの字の形の眉のまま再び声を上げる。

 ただ鉄治と呼ばれた片割れはそれに応えず、振り向かない。

 両手脇に置いている二つのおけを持ち上げるフリも見てももらえなかった。


「何だぁ鉄太てった? そろそろ見つかったか? 分かってると思うが、黒い石だからな? 硬くてこいつに負けねぇ奴だ!」


 鉄治は背に差した身の丈ほどもある大刀おおがたなを軽く叩いた。振り向きもせずに。

 そうしてまた河原の石を拾っては捨て、拾っては捨て。

 その度に「違ぇ」と声を上げる

 両手で交互に拾っては捨て、拾っては捨て――「違ぇ」と叫んだ。

 微動だにせず数えていた鉄太は十三回目の「違ぇ」で「そろそろ」と再び鉄治に声を掛けた。が、やはり振り向くこともなかった。


「ああ? まだいいだろ?」

「もう、陽も高い」

「じゃまだ暮れねぇってこった」

「――為右衛門ためうえもんが怒る」


 と告げるとようやく鉄冶が此方を向く。

着物と同じ色をした濃藍のねじり鉢巻を取って汗を拭い、太く毛の立った眉の両端を跳ね上げて「為右衛門んん?」とがなり声を上げた。


「いいんだよ、あんな奴。大体水が欲しけりゃ自分で来いよってんだ。あの図体なら 一人で二つ持てんだろっての! ったく食ってばっかでよぉ。なんで頭はあんなの 飼ってんだろなぁ? あれこそ穀潰しって奴だぜ!」

「そうだね。克士郎かつしろうも――五月蝿い」


 鉄太が言うと今度はため息をついて座り込んだ。

 両手の石を放り出す姿を鉄太はやはり直立不動で眺めつつ話を続けた。


「奴も欲しがってたっけ?」

「うん、暑いから――後、多分機嫌が悪い」

「じゃあよぉ、あんな暑苦しい格好してんなよっての!」

「――でも」

「でもってじゃねぇよ鉄太。夏だってんだから熱い。熱いから水が減る。そりゃあ俺 も分かるぜ。でも何も俺らだけが使われてやるってのは――いやまあ頭にゃあ恩も あるし使われてもいいんだけどよ。それなら俺らの用事も片そうってのがそんなに

 悪ぃことかぁ?」

「うらの用事じゃない」

「ちっ! じゃあ待ってろよ。一人でやるからよぉっ」


 鉄冶はため息をついて、背を向け石を探しに戻ってしまう。

 鉄太は目を閉じ、ため息を吐きたい気持ちを抑えた。

 こうなったらどうあがいても辞めない男。鉄太は両肩を落としてそれでも立ち続け待った。『待て』と言われれば待たねばならぬ。それが鉄太という男だ。

 背筋を伸ばして首も回さぬ。じつと目は鉄治を捉えたまま待つ。

 それは鉄太が『鉄治を守る』という指示も受けているから。

 目はけして離さない。両手も塞げない。だから水も持って帰れない。

 川に囲まれ突き出たような河原といえど、いつ熊や猪に襲われるやも知れぬのだ。

 とはいえ鉄太は徒手で無防備に森に背を向けて立っている。

 ――と見えるがそうではない。

 鉄太には耳と鼻がある。

 特に鼻は武器でもある。深い山中であろうと一町先の獣の匂いを嗅ぎ分ける。夜でなくとも目よりも利く。であるから動くことなく山中の景色だって楽しめる。

 山からの吹き降ろしは森の川の複雑な匂いを運ぶ。

 それら一つ一つを解体していれば鉄治を待つなぞすぐのこと。

 強い日差しの匂いの中に、今日捉えたのは甘い香り。ついに実が熟したのだと喜びが鼻を膨らませる。

 拾って帰る――いやそれだと為右衛門に食われて終わり。鉄治と食べてしまおう。

 などと考えていると、鼻が新たな匂いを捉えた。

 身体をびくりと震わせ警戒を必要とする匂い――獣だ。

 ただ少し匂いは薄い。塩気と鼻に付くくどくて甘い――髷付油びんづけあぶらの香り。


「――鉄治っ」

「うぉっ?」


 頓狂とんきょうな声を上げた鉄治に目を合わせたまま、右手を匂いの方へと差した。

 指が差したのは河原の先。こえむした岩を越え、背の高く茂った草の向こうの大木。

 陽を一杯に浴びようと枝振りが川の半分まで掛かる木の根本を指は差していた。


「あそこだ」

「ああん、あそこって茂みじゃねぇーか何もって――あれか?!」


 根本の茂みの中にその下に目があった。

 夏の緑の中に溶け込むような着物を着た――男の目。

 幾ら紛れようと異様に際立つ眼光は鋭く暗い。

 まるで獲物を見つけた飢えた獣のおどろおどろいしい眼光をした男が一人あった。


 

 

 寺を出て夜の内に村に付き一晩過ごし、日の出と共に川を上ること約半日。

 新之丞は耳を疑った。


「よもや見つかるとはな」


 よもや見つかる距離とは思って居なかった驚きと、よもや人が見つかるとは思って

なかった喜びが思わず口をついて出た。

 宥仁の嘘ということも十分にあった。

 この場所を告げる時の血を吐きそうな苦しい顔、奥歯を噛み砕きかねない顎、脂汗が垂れた額。まるで拷問をされたような顔は僧であっても真実ではない言葉を吐いていたとしてもおかしくなかった。


「おい! 見えてんだよ!」


 黒に等しい濃藍の着物の小男二人の片割れが一歩前に出て叫んだ。

 背中に身の丈ほどもあろう刀。獣を斬るにしても人を斬るにしても大きすぎる。

 堅気かたぎでは有り得ぬ得物えもの。逆立った髪と眉で猛る姿はまずもって破落戸か賊。


「おい! 斬られてぇのか!」

「あ、ああ、すまんすまん」


 思わず笑いそうになった。その表情を利用して温厚な顔を作る。いや遅すぎたとは思っていたがそれでも目つきと顔を整え無害を演じた。

 打刀を背に回し、短刀のみを見せて木陰から出ていく。


「こんなところに人がいるとは思わなくてな――あゆを取っているのか?」

「ああ? 誰が鮎売りだってんだよ!」

「ん? ここの鮎は将軍様にも献上していると聞いたが、違うのか?」


 と聞くと後ろの直立不動の小男が頷いた。


「そうなのか。いやだから鮎売りじゃねぇよ!」

「そう言うな。こんな山奥まで来たのだ。せっかくだから一つ譲ってくれまいか?」


 新之丞は一歩近づいた。

 後ろの男も足まで見え、その足元の桶まで見えた。

――水汲みか。それにしても大きいが。

 二人分とは思えない桶にまたしても頬が緩む。他に人がいるのだと。

 果たしてそれが山中か否か、何れにしても足取りは軽くなった。


「だから違ぇ――ちっ嫌なこと思い出したな」

「嫌なこと何だ?」

「こっちの話だよ。鮎を釣ってこいって無理押し付けた奴が――」

「――鉄治」

「ああ、んだ? 鉄太ぁ! ちょっ! 何だ手前ぇづかづかとよっ」

「すまんすまん、見ての通りの私は旅の者だ。新之丞と言う」


 良く見えるように短刀の柄を押し下げ更に一歩。

 笠を上げ、顔を晒し、両手も、口角も上げて敵意のない証を見せて更に一歩。制止の言葉を無視して前に進んだ。


「――寄るなっ」

「そうだ寄るなってんだっ! 足を止めろ。大体なんだってこんなところに――ああ 手前ぇさては忍か!? そうだな。それなら分かるってもんよ」

「――違う。風上に立つ間抜けな忍はいない」

「なるほど風か、匂いか? なるほどそれで見つかったというわけだ。しかし、お主 随分と鼻が利く。それこそまるで忍のようではないか?」


 出来得る限りおどけて見せたが、流石にやり過ぎであった。

 鉄太は直立不動の姿勢から少し腰を下げ、鉄治は手を上げ背の大刀に目をやる。


「なぁにがだ! 手前ぇは一体何者だよ! 間抜けな旅人の面じゃねぇぜ!」

「そうは言っても面は替えられないからな。川を上って来てみれば人の声がするでは ないか。こんな山奥でだぞ? 居るとしたら化生けしょうもの。そっと木陰から探るが 人のさがではないかな?」

「へっなんだ肝っ玉が小せぇな。ばんと出て来やがれってんだ」

「こんな山奥だ。臆病くらいで丁度良い」

「――だからこんなに山奥に何しに来たの?」

「おう、そうだ! 何しに来たんだ。鮎なら下で幾らでも取ってろうがよ!」


 鉄治は大刀に手を掛けた。黒い柄巻きと磨き抜かれた鍔を見せつけるように身体を前に倒し、今にも斬りかかってきそうな体勢。

 だが、新之丞の警戒は後ろの鉄太にあった。

 背も低く五尺はない。腕も首も足も細く、子供と言われても分からない体格。突きだした細い顎に眠たげな目。その上にハの字の眉は弱気にも見えた。

 だが雰囲気がある。刀も帯びていないのにも関わらず、ぼんやりとした顔のどこを見ているか分からない目が刺さるように痛い。

 使えるのは此方こちら――と警戒した。


「確かに鮎を求めていたわけではない」

「やっぱりそうだぁ! 手前ぇ見たいな面した奴が」

「凄むな凄むな。実はな、人を探しているのだ」

「人だぁあ? こんなとこでか? 誰だよそいつは?」

「この辺りに居ると耳にしてな。知らぬか? 歳の頃はそうさな。我らから見れば親 くらいの年齢であろうか」

「我ら? はっ手前ぇより上だぜ? 俺らは」

「ほう、そうか? 私はまたてっきり最初はわらしかと」

「誰がぁぁ餓鬼だってぇ?!」

「いやいや喧嘩を売るつもりはない。最初はと言うたであろう」


 両手でどうどうと抑えながらまた一歩寄ろうとする。


「――寄るな」

「分かったここからで良いか。ここからなら見えるであろう。実は――」

「荷に手をやるな」

「そうは言ってもなぁ。人相書きを持ってるのだ。それを見て知っているか――」

「――要らない」

「おいおい、それはないだろう。噂を聞いたと言ったろう。折角ここまで来たのだ。 見てくれまいか? な、少しでいいから」

「うるせぇ黙れ! 要らねぇっていってんだよ。人探しならよそでやりな」


 更に歩を進めようと足を上げる。

 と、鉄太の左手が上がったのが見えた。

 鉄治の大刀の影に隠れながらで全容は見えないが、恐らくふところに伸びたであろう。

 未だ二十歩は距離ある。

 だが確信があった。間違いなくここから先に進めば攻撃が来る。

 あの位置から攻撃を出来る。その射程があると。

 ならば――


「その男の名はな。山中――」


 山中、そう言っただけで鉄治は目を見開き驚嘆きょうたんの表情をした。挙句鉄太を振り向いてしまうほど――明らかに知っている。

 旅立って一月、仇討ちを志してより十年、父母が斬られてより十六年。その間を思えばこらえられるはずもなく。


「ははっ、確かに人相書きはいらなかったなぁ」


 笑った。呆気に取られる二人をよそに声を上げて笑った。笑いながらも歩み寄り、打刀を見せつけるようにして背から回せばばればれの旅の男は終わり。

 笠を脱ぎすて、刀を抜けば、、煤宮の剣士が技を構えた。


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