第10話


〔10日目〕

警察の車に送られて、アパートに帰った。

部屋に入ると、全身の力が抜け、立っていることさえ出来ず、床に仰向けに寝転んだ。そのまま目を閉じると、俺はいつのまにか寝むっていた。

インターホンの音で目を覚ました時、目覚まし時計を確認すると時刻は午後2時を過ぎていた。

昨夜の出来事が夢であってほしいと強く願いながら、ゆっくり起き上がった。

頭がボーッとしたまま、玄関のドアを開けると、そこには由佳ではなく鷹島愛美が立っていた。

思考がバグって、俺は声を出すことさえできなかった。

「中に入っても、いいかしら」

俺はドアを大きく開き、鷹島愛美を部屋に招き入れた。

炬燵を挟んで、向かい合って座ると、愛美が落ち着いた口調で話し出す。

「かっちゃん、驚いた?」

俺は声が上手く出せずに、ただ頷いた。

「兄は、死んだわ」

俺は、何も言えなかった。

鷹島愛美は黒のトートバッグから大きな封筒を取り出し、炬燵の上に置き、俺の前に差し出した。

「今日は、バイト代を届けに来たの。10日分のバイト料とボーナスを合わせて500万」

予想もしていなかった大金に俺は驚いた。

「鷹島さん、僕はそれを受け取ることはできません」

俺は鷹島愛美に頭を下げ、現金を返そうとした。

「かっちゃん、今の私を見て」

鷹島愛美はまっすぐ俺のことを見つめている。なぜ、鷹島愛美は川村由佳の時の呼び方で俺を呼ぶのだろう。

俺はゆっくり頭を上げ、俺も鷹島愛美の顔を直視した。

「かっちゃんには、私が誰に見える?」

「誰って、鷹島愛美さんですよね」

鷹島愛美は、首を振る。

「今日は、あなたのバイトの雇い主、川村由佳です。あなたが私を愛してくれた10日間の成果に、私は満足しています。だからこのお金は、あなたにお支払いします」

「そんなこと言われても、もう由佳とは呼べません。僕にあなたを愛する資格なんてありませんから」

「愛する資格?人を愛することに資格なんてありません。あなたが心から人を愛おしく思うのであれば、それが愛です」

「俺は、川村由佳のことを心から愛していました。今も強く、決して忘れることはありません」

「ありがとう、かっちゃん」

「由佳、これから俺はどうやって生きていったらいいんだ。教えてくれ」

胸が苦しくて、涙が溢れ出た。

二人が沈黙すると、突然由佳が立ち上がり、台所から一本の包丁を持って戻ってきた。

由佳はいきなり、俺を仰向けに押し倒すと、俺の上に跨り、包丁を下向きに両手で握り締めて、頭上に構えた。

由佳の顔は真剣で、俺は由佳の気持ちを受け入れるべく、ゆっくり目を閉じた。

由佳、いや鷹島愛美の憎しみがこれで晴れるなら、俺は死んでもいい。もう、こんな辛い人生から解放してほしいと思った。

克也の胸に向かって由佳が振り下ろした包丁は、克也の胸の手前で止まり、由佳は包丁を放り投げ、克也の唇にキスをした。

俺は由佳を抱きしめ、そのまま二人は互いの身体を求め合った。無我夢中で愛し合った。

由佳への想いが爆発し、由佳さえいればもう何もいらない、俺は生まれて一番幸せな時間を堪能した。

愛し合ったあとの余韻にしたり、由佳は俺の腕の中でゆっくり話し始めた。

「かっちゃん、今日で川村由佳は死ぬわ。川村由佳が死んだら何処に行ったら会えるかって聞いたよね」

「うん」

「もう会うことはできないの。川村由佳は、死んでも遺骨は残らないし、お墓にも入らない。存在そのものが消えるから。あなたと一緒に過ごした時間だけが、川村由佳の生きた時間なの。川村由佳が浅間克也を愛した証明なの」

俺は由佳を失う心の不安に抗うように、由佳が何処にも行かないように強く抱きしめた。

「寂しいよ。悲しいよ。辛いよ。こんなに人を愛おしく思ったことなんてなかった。由佳、もう俺は君しか愛せない」

俺は、由佳の身体に顔を埋め、子供のように泣き続けた。


鷹島愛美は、すべてを俺に話してくれた。

鷹島翔生と愛美は、実の兄妹ではない。

鷹島翔生の父親と愛美の母親が再婚をしたのだ。

鷹島翔生の生みの母親は、鷹島翔生が幼い頃に交通事故で亡くなった。飲酒運転の車が信号を無視して、横断歩道を渡っていた鷹島翔生の母親を撥ねたのだ。

救急車で病院に運ばれたが、鷹島の母親は助からなかった。

愛美の母親は、大学生の頃に付き合っていた男性の子供を身篭り、そして愛美を産んだ。

その後、男性とは別れ、シングルマザーとして愛美を一人で育てていた。

そんな鷹島の父親と愛美の母親が、結婚をして二人は兄妹となった。

俺の父親の浅間幸一郎は、元々は愛美の母親の知り合いだった。

幸一郎は、大学在学中から実業家を目指しており、かなりの投資をしていたらしい。

大学を卒業してある日、バブルの崩壊で打撃を受けた幸一郎は、投資していた事業が危機的な状況になってしまった。そんな時、愛美の母親が保証人となり、お金を工面することができたが、直ぐに事業を立て直すことはできず、かなりの時間を要したらしい。

その間に、愛美の母親の借金は膨らみ続けた。愛美の母親が働く会社の同僚だった鷹島の父親が一時的に援助してくれたのだが、この後も借金が残り、鷹島の父親は愛美の家族を助けるために反社会団体が経営する金融機関に手を出してしまった。

金融機関の取り立てはしつこく、日に日にエスカレートし、家だけではなく会社に押しかけることもあり、鷹島の父親は会社を辞めざるを得なくなる。

愛美の母親は鷹島の父親の好意に応えて、二人は夫婦になるが、その後も生活は苦しく、最後は、二人の子供を残し、夫婦で心中してしまった。

二人の兄妹は、静岡の施設に預けられた。

子供の頃の鷹島は、愛美をすべてのものから守ってくれる優しい兄だった。

地元の中学、高校を卒業し、二人とも東京の大学に進学した。

大学の費用は、施設に寄せられた寄附と奨学金で行くことができた。

大学で鷹島翔生は、秋山隆史と出会い。

二人の境遇が似ていることもあり、意気投合し、二人で日本を変えたいと「未来創生の和」を立ち上げた。

最初は、理想も志しも高く、弱者でも希望を持てる社会の実現を目指し、多くの賛同者も集い、組織は少しずつ大きくなっていった。

ある程度財力を手に入れると、鷹島は日本を変えるために政治を利用することを考え始めた。

政治家との付き合いも増え、政治の裏の世界まで関わってしまったことで、すべてが狂い始めた。

愛美は、鷹島の思想に共感し、「未来創生の和」で経理を担当しながら、鷹島を応援していた。そこで出会った秋山隆史と恋仲になった。

愛美は、暴走する鷹島に幾度となく話しをしたが聞く耳を持たず、相談した秋山が鷹島に忠告したことで、二人の間に亀裂が生じた。その後、鷹島は秋山を拘束し、愛美から秋山を遠ざけるようになる。

そんな時、浅間幸一郎の居場所を見つけ、鷹島は復讐を企てた。愛美は、犯罪行為には反対したが、鷹島は浅間克也殺害に協力しなければ秋山を殺すと脅してきたのだ。

その計画が、恋人代行のバイトだった。

ファミレスのクレームおばさんから始まり、克也の部屋の郵便箱に特製の求人バイトのチラシを投函した。

恋人代行以外のバイトには他のシナリオが用意されていたが、克也が選んだのが、恋人代行だったというわけだ。

もしもチラシの中から克也が何も選ばなければ、第二弾、第三弾の施策も用意されていた。

愛美にとって予想外の展開は、克也の祖母が亡くなり、一緒に栃木へ行ったこと。浅間家の家族にふれあい、愛美の感情にわずかな変化が生まれた。

そして、克也に対する愛情は、偽物から本物に変わっていくことに気づいていった。


「すべてを話してくれて、ありがとう」

俺は愛美に頭を下げた。

「かっちゃん、マンションの鍵持ってる?」

「そうか、鍵、返さないとね」

「明日、私のマンションに荷物を取りに来て」

「そうだね、わかった。何時頃行けばいい?」

「急がなくてもいいわ。お昼頃でもいいし」

「じゃあ、お昼頃に行くよ」

「待ってるわ。インターホンなんかいいから、そのまま部屋に来て」

愛美は立ち上がり、俺に告げた。

「10日間、恋人代行のバイトお疲れ様でした」

俺も立ち上がり、「ありがとう、ございました」と、頭を下げた。

「そろそろ私帰るね」と、愛美は俺に笑顔で応え、また明日って感じで部屋を出て行った。

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