第8話 元近衛騎士は剣術の師匠
母は書状の返事を書くと言って、私たちを残して書斎へと上がっていった。
山裾の放牧地が見える庭には爽やかな風が吹く。とりあえず、お茶は冷めた。
呆然としている私へ、ウルスとハイディがフォローにやってくる。
「ほら、その……落ち込まないでくださいよ、イグレーヌ様」
「黙っていたことは謝りますから」
「そうじゃなくてー……お母様に」
そう、母は書斎に上がる前、こう言い残した。
「私が女王になったらあなたは王女、だけど戦う王女として生きるの。ひと段落ついたら士官学校に入学よ、って」
ブレイブリクがうんうんと納得して頷いていた。
「そこまで剣術を修めておきながら、城に籠って着飾ることはあまりにももったいない人生かと」
「でも、私が士官になれるの?」
「問題ありません。私とブルックナーの伝手でどうにでもなります」
ブレイブリクはキリッとした顔で保証してくれたが、そこに私の意思は介在していないと気付いているだろうか。
——いや、私だって分かっている。
もし母が女王になるのだとすれば、私はその後継者と目されるだろう。騎士たちが後ろ盾になってくれるとしても、政治に縁のないお飾りの王女様では舐められてしまう。だから、私に経験を積ませ、かつ箔をつけるために士官学校への道を勧めてくれているのだ。母が愛娘の私のためにならないことをしたりはしない。それゆえに、断れない。
「そんなことになったら、
「まあ、そうですよねー」
「必ずお付きの警護や騎士がいるでしょうね」
「私、別に権力とかそういうのいらないんだけど、何でみんなそんなの欲しいのかしら……不思議だわ」
はあー……と長い長いため息を吐いて、私はテーブルに突っ伏す。
私はモーリン子爵家の次女として、ランパードの妻になって、貴族の淑女であることを望まれると思っていた。それに反発する気持ちがなかったとは言えないが、大筋ではもう逃げられないと諦めていたのだ。
それが何の風向きが変わったのか、姉アヴリーヌがランパードを欲しがって、運命の歯車はぐるりと回りはじめた。たった一週間ほどのことなのに、随分と私を取り巻く環境は変わってしまったようだった。
今ごろ姉はランパードと縁を切っているのか、はたまた好きな人と思って一緒にいるのか。それさえも分からないが、少なくともランパードは姉を疫病神扱いしているだろうなぁ、と簡単に推測できる。お前を選んだときから運が悪くなった、などと難癖をつけているだろう。
そんな私の辛気くささを吹き飛ばすように、ブレイブリクは大声で笑う。
「ははは、相変わらずお転婆ですな、姫」
「ブレイブリク……もう、お母様ったら昔より強引になっていない?」
誰よりも母のことを理解している騎士は、私の実の父よりも父親らしく、心から母を敬愛してくれていた。
「それもそのはずです。長年、アンブロシーヌ様はその才気を見抜かれて警戒され、あろうことか王女たる身分にありながら子爵家へ嫁ぐことを強制されたほどです。虎視眈々と、先王や現国王への意趣返しを水面下で地道に進めてきておられたのですよ」
どこかブレイブリクの顔に翳りが見えた。母のその過去は、きっと母に何度も何度も悔しい思いをさせて、押し込められる苦痛に耐え忍んできたのだろうことは分かる。そんな母を、ブレイブリクはずっと支えてきたのだ。近衛騎士としての栄誉も、高給も、勲章も何もかも捨てて、ただ一人、忠誠を誓った人のために。
「それで女王になったらお母様が嬉しいってことは分かるけど……私は別に、そういうことは好きじゃないのに」
「ご安心を。アンブロシーヌ様はイグレーヌ様のご意思を何よりも尊重してくださいます。あなたがあまりにも鍛錬に一生懸命だったから、結局一人旅を許してくださったではないですか」
「うん、あなたとブルックナーのおかげで一人旅できるくらいに強くなったから」
「どうですか? このまま、戦う王女として最高位の将軍を目指してみては? それならば我々は全力でバックアップしますとも。大丈夫です、この国の騎士たちはアンブロシーヌ様、ならびにイグレーヌ様が生涯の忠誠を誓うにふさわしい相手と見ております」
「ブレイブリク、それって私の嫁の貰い手がなくなるって思わない?」
「何の、すでにそこの二人はあなたの横を狙っていると思いますよ」
「へ?」
素っ頓狂な声が出てしまった。私はそこの二人、つまりウルスとハイディをまじまじと見つめ、「どういうこと?」と目で問いかける。
すると、二人はちょっと恥ずかしそうに、思わずにやけてしまっていた。
「あ、えっと」
「……否定はしません」
——OH、逆玉の輿狙いかしら。
そんな私のモヤっとした感情をウルスがいち早く察して、弁解する。
「いや、そうでなくて! イグレーヌ様には今までにない美味しい鹿肉ステーキをご馳走になった大きな恩がありますから、何だってご命令を聞きますよ! 騎士として扱ってくださるなら、この上ない幸せです!」
一生懸命な弁解は、多分本心だろうと思う。それにハイディが続く。
「私たちはバルドア王国との連携を強化するために、できることは何でもするつもりです。故郷のため、自分のため、何より騎士として身を立てるために、です。しかし、それを抜きにして……先日いただいたあのステーキは、とても美味しかったです。それに、あなたがただの貴族令嬢ではなく、しっかりとした一人前の女性であることはこの旅でよく知りましたから」
二人の目は、すっかり私に気を許して懐いているようだった——シャリアピンステーキの効果は抜群だった、ということだろうか。二人の胃袋を掴んでしまったわ、私。
異国から密命を帯びてやってきて、機会を窺っていたであろう二人の騎士見習いは、悪い人ではないと私もこの旅で知った。
うーん、と私は気恥ずかしさを誤魔化して、ブレイブリクに話題を振る。
「とりあえず、二人はブレイブリクに剣術を習ってね。ブレイブリク、この二人は剣術が苦手みたいだから、みっちり基礎を叩き込んであげて!」
「承知いたしました。ふっ、イグレーヌ様もお人が悪い」
憧れの騎士に剣術を習える、二人はぱあっと目を輝かせた。
しかしこのとき、まだウルスとハイディは知らない。銀槍の騎士ブレイブリクの剣術指導は、多分並の騎士ではついていけないほど厳しく激しい。訓練の一日が終わるころに立っていられるかどうかも怪しいくらいだ。
「ウルス、ハイディ。今日から私が貴様らを鍛える。心してついてこい、これからもイグレーヌ様のお傍にいたいのならな」
やる気満々のブレイブリクに、ウルスとハイディは機敏に敬礼をして応じる。希望に満ちた目だ、おそらく明日は死んだ魚のような濁った目になっている。
ブレイブリクはくるっと私へ向き直り、おもむろに剣を抜く。
「と、その前に。イグレーヌ様、一手、手合わせを。きちんと鍛錬を続けているかどうか、確認しましょう」
「えー……分かった」
師匠にそう言われては、私も断れない。しぶしぶと赤いリボン付きの片刃剣を持ってきて、鞘から抜く。
片刃剣の切先が鞘から抜け出るか出ないかのその刹那、ブレイブリクは使い古した細身の剣を——私へとノーモーションで刺突する。
ゆるり、と世界が遅くなっていっているような感覚に浸りながら、私は片刃剣の根元、もっとも幅広くなっている頑丈な部分で剣先を受ける。そのまま後ろへ受け流し、細身の剣を伝ってブレイブリクへ最速で踏み出す。
火花を散らしながら滑ってくる私の片刃剣の刃を、ブレイブリクは剣の鍔をわずかに回して止めた。それから手首をぐるりと回して、私の片刃剣を上へ弾き上げようとしたため、私は体の重心を低く構え、地面スレスレに膝を落として回避する。
まだ、私の目から見える世界はゆるやかだ。そのまま体を右回転させ、地面を踏み締めて遠心力を加えた片刃剣を振り上げる。
ところが、ブレイブリクは一歩早く、後ろに退いていた。掠ることさえなく、私は地面を右手と右膝につけ、左手で払った剣をしっかりと握り、踏み締めた左足は芝生に思いっきり深い足跡を残していた。
静寂、そして、世界は元どおりに動き出す。私は昔から、集中すると世界が極端に遅くなるような感覚になるのだ。ブレイブリクやブルックナーはそれを才能と言ってくれたが、いまいち実感が湧かない。
調息してから立ち上がった私へ、ブレイブリクは細身の剣を鞘に戻し、余裕で拍手を送ってくれた。
「お見事。イグレーヌ様は本当に筋がよい」
「お世辞はいらないわ。刺繍より得意なのは事実だけど」
「いいえ。これならば、もし一人旅中に盗賊と鉢合わせても安心です」
「まあ、うん、そうね……今まで三回くらいあったけど、そう」
「とどめは刺しましたか?」
「物騒なこと言わないでよ! 腕と足の骨を折ってやっただけよ!」
ブレイブリクは私を何だと思っているのか。プンスカする私へ、はははと余裕綽々の笑みを浮かべたブレイブリクが頭を撫でた。
☆☆
ほんの一瞬の出来事、イグレーヌとブレイブリクの剣の手合わせを間近で見てしまったウルスとハイディは、ポカンと口を開けていた。
ブルックナーから話は聞いていたのだ。イグレーヌ・モーリンは剣を持たせれば騎士よりも強い、才能がある、と。
しかし、目の前の一瞬の攻防を、二人は目で追いきれなかった。それほど早く、鋭く、もはや達人と言ってもいいレベルの交錯だったのだ。
呆気に取られたまま、ウルスは同じ状況のハイディへ、確認する。
「なあ、ハイディ。イグレーヌ様ってもしかして、貴族で可愛くて強くて料理が上手い……おまけに優しい」
「そう、なるな。すごいお方だ」
二人は目を見合わせ、認識を共有した。ブレイブリクとじゃれているイグレーヌのもとへ、片膝を突いて滑り込んできて宣言する。
「イグレーヌ様! 一生ついていきます!」
「お供させてください!」
「いきなり何!?」
こうして、ウルス・ウヴィエッタとハイディ・トフトは、長く険しいイグレーヌの婿候補レースに名乗りを上げたのだった。
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