第7話 お母様は元王女で王妹
王都を出立して六日経ち、三人旅はとても順調だった。
昼は何のトラブルもなく駄弁りながら歩き続けて、夜は温かいご飯をたっぷり食べて、星空を見ながらおしゃべりしつつ寝る。この数日間でウルスは火熾しが得意になったし、ハイディは何かを言おうとして引っ込める癖が多くなった。どうやら、私に隠し事はあるものの言っていいのかどうか迷っている、というふうだったので、私は無理させないよう話題を変えるなどの対処に慣れてきていた。私だって隠し事はあるのだから、ウルスとハイディにもあるだろう。うん、でも貴族令嬢が騎士を負かすほどの剣術を修めているなんてバレるわけにはいかない。さらに言えば、母アンブロシーヌがそれを後押しし、ブルックナーをはじめバルドア王国有数の実力派騎士たちを何人も師匠にしていたなどと知られれば、恐れられすぎて本当に結婚相手がいなくなってしまう。乙女のピンチだ。
幸いにして、この旅ではその剣術を発揮する機会に恵まれていないことが救いだ。ずっとこのまま黙っていられますように。
森の木立も大分間隔が広がっていき、青空や遠くの風景が見える機会が増えてきた。道は道中の獣道が乾いた土道になり、半分以上土に埋もれた石畳の道となってきた。もうすぐ母の静養地に辿り着く、その証拠だ。
「もぉ〜りもりもりときどきむら〜、リスが松ぼっくりを持ってった〜」
私たちの先頭を行くウルスが上機嫌で歌っている。
「また変な歌を作っているわね」
「ご機嫌だな、ウルス」
足を止めず、くるっと振り向いたウルスは確かに嬉しそうだ。
「いやいや、だってあと一日くらいで着くんでしょ? やっと森の中からおさらばだよ、しばらくゆっくりしたい」
「そうね。ロスタス山脈がちらっと見えているから、もうすぐよ。言い忘れていたけれど、もちろん滞在中はうちの別荘に泊まっていいから」
「ありがとうございます。できることがあれば何でも言ってください、お手伝いしますので」
ハイディは丁寧にそう言った。特にやることはないと思うが、母はしょっちゅう無茶振りをしてくるから、その相手をしてもらうのは気が引ける。母の静養地の別荘にいる使用人は全員ロスタス山脈麓の村落の住民で、やれ仕事を手伝えだとか、雪かきをしろだとか、来客へのお茶出しをやれとか言いつける母は、娘を貴族令嬢とは思っていない節があった。
あの母を赤の他人に見せるのはどうなのか、と私が悩んでいたところ、ウルスが顔を上げて、道の先に目を向けていた。
「ん? 何か、人が集まってますよ」
私とハイディは同時に道の先を見る。まとまった人影があり、そこには足の太い農耕馬ではなく背の高く細い馬もいた。
こんな平和な土地で何事だろう。私はウルスとハイディへ目配せをして、早足で人だかりへと近づく。
ほんの数分も経たず、私たちは人だかりの構成を判別できるところまでやってきた。馬を連れた若い郵便配達人が一人、まだ防寒着を着ている裕福そうな農民の男性が三人、狩人と思しき弓を背中に背負った老人が一人、腰の曲がった老婆が一人、計六人と一頭の集まりだった。彼らは顔を突き合わせて、心配そうな表情をしている。
私は進み出て、農民の男性に声をかける。
「どうしたんですか? 何かありましたか?」
すると、私たちを森から出てきた何も知らない旅人と察したのか、キャスケット帽を被った農民の男性が愛想よく答えてくれた。
「ああ、先週王都で王家主催の舞踏会が急遽開催されたそうでね。そこでまあ、ラングレ侯爵の子息が騎士を馬鹿にしたせいで、大半の騎士が王都から自領へ帰ってしまったんだと」
そうそう、と狩人の老人が神妙に頷く。
「だから、戦争が近いとまことしやかに囁かれていて、こんなところにまで噂が流れてきたというわけだ」
「いやだわ、昔みたいにこんな辺鄙なところまで巻き込まれるのかしら」
「しょうがないよ。何かあれば山に逃げるしかないね、できるだけ早く続報が来てくれればいいけど」
うつむく腰の曲がった老婆を、郵便配達人が慰める。皆揃って浮かない顔をしていた。ウルスもハイディも、戦争と聞いて顔を引き締めている。
ただ、私は——あれ? と思って、何とか頭を働かせる。
舞踏会、ラングレ侯爵の子息、騎士を馬鹿に、騎士が自領に帰った。これだけのキーワードで私が思うに——貴族のお坊ちゃんという立場から抜け出せなかったランパードが何かやらかしたに違いない、という結論に至った。ついでに、マリアンがそこに絡んでいる可能性も否めない。
私は一応、外から情報を持ってきたであろう郵便配達人に確かめてみる。
「あの、ひょっとして、ラングレ侯爵の子息ってランパードって名前では?」
「いや、そこまでは知らないけど……とにかく、舞踏会の発案者であるド・ベレト公女はお怒りだ」
——マリアンだ。マリアンがやっぱり絡んでいる。
やらかすことにかけては私よりずっと定評があるマリアン、何をしたらそんなことになるのか。イグレーヌの代わりに天罰を与えたのよ、なんてしれっと言いそうである。
そのことに関しては、王都から離れた土地の農民でさえ知っていた。
「あの公女様は気が短くて変人だろう? 王位継承権争いでやらかすことを危惧した国王陛下が、名門ド・ベレト公爵家を渡す代わりに王位継承権放棄を迫ったとか」
「騎士たちも最近は国王陛下に反発することが多いから、どうなるんだろうなぁ」
はあ、と大人は皆揃ってため息を吐いている。
私といえば、「顔が引きつっていますよ」とウルスにこっそり教えてもらうまで、自分の気持ちに整理がつかなかった。
何か、この騒動、私のせいなような気がする。嫌な予感を振り払って、私は走り出した。
母なら何か知っているに違いない。静養地のロスタス山脈麓の別荘まで、もう少しだ。
私の母アンブロシーヌはまぎれもなく現国王の妹という直系の王族であり、バルドア王国王族らしい絹糸のような長い金髪は四十が過ぎた今も色褪せない。母は威厳たっぷりの元王女という面影を残した女性だが、私や姉アヴリーヌは金髪ながらも父譲りの天使のようなくるくる巻き毛で、凛々しさは受け継がれなかったようだった。
その母は、山麓の静かな村の片隅にあるモーリン子爵家の別荘で『静養』している。ここは昔、モーリン子爵家領の飛び地だった縁で別荘があるのだが、田舎が嫌いな父と姉は一度も来たことはない。私だけが母のお見舞いに来て、長期間滞在して、王都で嫌なことがあったら逃げてくるところだった。
そう——母がこの別荘に来てから、年々営々と大改築されてもはや厩舎さえ備えた大邸宅となっていることは、父も姉も知らないだろう。白漆喰の壁に焼き目をしっかりつけた大木の梁が交わされ、飾り窓はモザイク技法でカラフルに彩られている。二つある中庭はもはや中庭というにはふさわしくないほど広く、私はそこで騎士や大人たちから
当然、間取りも広い。三階建てで騎士団がやってきても全員寝泊まりできるくらい部屋数があり、一部屋一部屋がとても広い。これは王宮で暮らしていた母が狭い部屋を嫌ったためで、おかげで幼いころの私が走り回ってもどこかにぶつかったりしたことはない。調度品も村周辺で揃えたものが大半だが、どこか大口資金調達のパイプラインがあるんじゃないかと思えるような銀製品や職人手作りの家具も平気で並んでいる。
僻地にいながらにして快適な大邸宅を作り上げた母は、お気に入りの庭でお茶を飲みながら私の話を聞いてくれた。
「……ってことなんだけど」
ランパードからの婚約破棄に始まり、姉アヴリーヌへの乗り換え婚約、マリアンが何とかしてくれると言ったので放ってきて、さっき聞いた王都舞踏会でのやらかしと騎士たちの自領帰還までを母へ伝えると、悠々と母はレースをふんだんに使ったベージュドレスの袖をめくって、私用のティーカップへ砂糖をもりもり三杯も入れてしまった。
「もう、子どもじゃないんだから、そんなにお砂糖いらないわ」
「そう? 自分で婚約者に
それを言われると私はぐうの音も出ない。しょぼんとオーク材でできた頑丈なガーデンチェアで縮こまる。砂糖たっぷりのお茶は久々の甘味で美味しかった。
さて、と母はしれっと話題を戻す。
「先の件がマリアンとそれに乗った老騎士たちの策略であるのは確かね。政治を知らない若造の言葉をわざわざあげつらうんだから、計画的なことでしょうね」
「やっぱり。マリアンがそこまでするとは思わなかったけど」
あの騒動は回り回って私のせいか、とどうにも気が重い。ランパードが一番悪いのはもっともな話だが、一応婚約者として手綱を握れなかった私にもちょっとくらいは責任がある。あと、姉アヴリーヌに「あげない」と言えなかった私の子どもっぽいヘタレのせいでもあるのだ。
ランパードを見かねたマリアンがとっちめてくれた、まではよかった。しかし現状、バルドア王国の柱である騎士たちと貴族の間に亀裂が入りつつある。
それをしっかり理解している母は、私へと説明してくれた。
「この国は貴族と騎士、平民をもっと流動的にしようとしている。なぜかと言えば、そのほうが国が強くなるから。硬直化して血縁主義に走った貴族、武力を背景に賄賂を得て肥え太る騎士、搾取の限界に達して縋るもののない平民、その行く末が滅亡なんて歴史上枚挙に
——お姉様、言われてましてよ。出来の悪いほうって。
母としては見舞いにも来ないお淑やかな娘より、貴族らしくなくてもいつもやってくる娘のほうが可愛いのだろう。ランパードの経歴から私の婚約者でもあったことは母の頭からは消え去ってしまったようだ。
そこへ、私の後ろに立っていたウルスが手を挙げ、驚いたように瞬きしつつこう言った。
「あのー、イグレーヌ様のお母上は静養中では……?」
「静養中よ。夫曰く、「癇癪持ちの妻を静かな環境で治療する」という名目でね」
私に代わり、母が嫌味たっぷりに答えた。すでに私の父モーリン子爵と母の間に愛情はなく、貴族の義務として後継者である子どもを産んだあとは結婚など書類上のことでしかないのだ。
「私も貴族生活が馬鹿馬鹿しくなって王都からここへ居を移した、というわけ。家族のうち会いに来てくれるのはイグレーヌただ一人だけれど」
何となく、ウルスは聞いてはいけない話題に入りつつあることを察したのか、口をつぐんだ。ハイディが肘で小突いている。
母の嫌味が次々爆発する前に、タイミングよく一人の騎士がやってきた。大柄ながらも理知的な顔立ちをして、貴族と言っても通りそうな気品を備えた黒髪の壮年の紳士だ。甲冑と騎士団服と使い込まれた剣がなければ、本当に貴族と間違われるだろう。
騎士ブレイブリク、長年母に仕えている騎士だ。ブレイブリクは母の横へやってきて、うやうやしく一礼する。
「失礼、アンブロシーヌ様。早馬がまいりました」
「要約して」
「はっ」
ブレイブリクは手にした書状を開き、さっと読み終える。
その間、私の後ろが騒がしかった。
「もしかして、銀槍の騎士ブレイブリク……!?」
「こんなところにいらっしゃったのか、道理で噂を聞かないはずだ」
ウルスとハイディは憧れの騎士を見つけたらしく、密かにはしゃいでいた。
ブレイブリクは元は母の近衛騎士であり、王女でなくなってからもその忠誠は変わらず、こうしてこの地にこっそり滞在して母を警護している。近衛騎士になる前は勇猛果敢な騎士として長槍を手に戦場で名を上げ、その武勲から銀槍の騎士と称えられている——までは私も知っていた。
「やばい、かっこいいんだけど」
「落ち着けウルス」
「お前だって嬉しそうじゃん」
二人は私の後ろで、まるで劇場で花形俳優を見た乙女のような反応をしていた。そういうものなのだろうか、憧れの騎士とは。
母の命令どおり、ブレイブリクが長い書状を簡潔に要約する。
「王位継承権者各位へ、現在王都では問題が発生し、有力騎士家の多くが自領へと戻りつつある。各自、決して玉座に背かぬよう対処せよ。以上となります」
「つまり、
「もちろん。アンブロシーヌ様へ挙兵を促すものが一つ、母娘揃って自勢力へ入るよう誘いが三つ」
「アリエスヴェール侯爵は?」
「まだ届いておりませんが、今日明日にも来るでしょう。それ次第ですかな」
「そうね、私かイグレーヌを担ぐ後ろ盾に本当になってくれるかどうか、それを見極めてからよ」
何やら、私は展開されている物騒な政略に置いていかれそうになっていた。目の前で流れるようにスムーズに進んでいく話に、私は待ったをかけた。
「ちょっと待って!」
ぴたっと母が止まり、私へ微笑みかける。その目は笑っていない。
「何? イグレーヌ」
「お母様、私は王位なんていらないんだけど」
「そんなこと言わないで、もらえるものは病気以外もらっておいたほうがいいわ。あなたの将来を考えて、私は長年ここで各地の騎士たちと連絡を取っていたのよ? 誰も彼もの目を欺いてね」
「それは知っているけど」
「無能は排除すべきでしょう?
母は時々怖い。腹黒い貴族たちが跳梁跋扈する王宮育ちだけあって、こんな政略はお手のものだ。自分を縛りつけようとする男性たちからあれこれ理由をつけて離れ、ここでゆっくりじっくりと反撃の機会を窺い、牙を研いでいたのだから恐ろしい。
もちろん私だって、何となくそれは分かっていた。幼いころからこの別荘に何度も来ているし、知らない騎士たちに囲まれることもしばしばだった。母は包み隠さず私へ話してくれたし、まだ話が十分理解できない私は母のためだと思って父や姉には何も話さなかった。そもそも父と姉は母に興味を示さなかったし、私に対しても雑な対応しかしなかったから、当然と言えば当然だ。
そんな私を母は可愛がって、騎士の真似事をしはじめれば騎士を師匠に剣術を教え、森で探検したいと言えば狩人を連れてきてサバイバル技術を教えてくれた。だから、私は母のことが大好きだ。
たとえ、ここで話していることが、政権転覆の大立ち回りとこの国の今後を左右する話だったとしても、私はお茶を飲んでいるしかない。だって私はただの子爵家令嬢、剣術ができて
すっかり何もかも諦めた私はお茶を置いて、この村特産のチーズを載せたクラッカーを頬張ることにした。
一方で、母は私の背中の向こう、ウルスとハイディへ問いかける。
「あなたたちは? 私に言いたいことがあって、ブルックナーが遣わしたのでしょう?」
そんなこと、私は寝耳に水だ。振り返ってみれば、ウルスはイタズラがバレた子どものような顔をしていた。
「あらま、お見通しでしたか」
「こうなることは分かっていただろう」
ウルスをたしなめるハイディは、厳かにその場で地面に片膝を突き、敬意を示す。ウルスもそれに続いた。
そして、二人は至極真面目に告げる。
「ウルス・ウヴィエッタ、テッサリシア共和国より言伝を持ってまいりました」
「ハイディ・トフト、ハルンバール連合筆頭当主の使いでまいりました」
いきなりの宣言に度肝を抜かれたのは、この場では私一人のようだった。
二人は異口同音に、私の母へとんでもないことを伝える。
「「ぜひとも、アンブロシーヌ様にこの国を治めていただきたい、とのことです」」
——ブルックナー、こういうことは先に言ってよ。
のどかな僻地の別荘は、バルドア王国に新女王の誕生を望む国内外の騎士たちが集う地になりつつあった。
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