第6話 神謀系女子の手練手管
それはイグレーヌが王都を発って四日後のことだった。
現国王と愛娘ド・ベレト公女マリアンの名のもとに、大規模な
歴代国王とその一の家臣たちの見上げるほど大きな彫像が円形のホールの壁に並び、絢爛豪華なドーム式の天井には古来から伝わる星座図が金と藍石の精緻なモザイク画となってきらめいている。玉座——この日に限っては主催者である国王とマリアンが金の椅子に座り、その背後にはバルドア王国の国宝とも言える五つの宝剣が飾られていた。
入り口から玉座まで敷かれた赤いカーペットの上を、舞踏会に招待された人々が進んでいく。国王とマリアンへの挨拶にと行列を作り、貴族は燕尾服とナイトドレスを、騎士は所属する騎士団の礼服とそれぞれの故郷の正装に身を包んでいる。確かに身分の差は未だにあるものの、ここにいる人々が分け隔てなく談笑するさまはバルドア王国が誇るべき貴族と騎士の融和の姿であり、理想の体現であった。
もっとも、まだまだそれが完璧ではないことを、マリアンはよく知っている。
礼服と黒貂の毛皮のコート姿の国王——四十を超えてから小太りが隠せなくなってきた上にただでさえ薄かった金髪が失われつつある——と、赤みがかった金髪にバーガンディのシックなドレスをまとったマリアンは招待客へ愛想笑いを振り撒く。
「お招きいただき感謝いたしますわ、マリアン様」
何十番目かの招待客の淑女が、夫ではない若い男性を連れて挨拶を述べる。
マリアンにとって遠い遠い縁戚の彼女は夫の身分の低さを気にして、アクセサリー代わりの
それについて何か言うつもりはない。皆似たようなもので、必ずしも伴侶を連れてきているわけではない。マリアンは笑顔と定型句でさらりと受け流す。
「ええ、楽しんでちょうだいね」
「もちろん。それでは失礼を」
もう一度淑女とその連れは礼をして、楚々とホールの人混みへと紛れ込んでいった。そんなことを数回繰り返すと、ようやくマリアンのお目当ての招待客に挨拶の順番が回ってきた。
ラングレ侯爵家子息ランパード、ならびに婚約者のモーリン子爵家令嬢アヴリーヌ。仕立てのよい燕尾服に乗っている顔はそこそこ上品なのにこれと言って特筆すべき印象に残らない青年と、うつむいた金髪の巻き毛のご令嬢。窮屈そうなドレスが気に入らないのか、少し目が腫れている。
とはいえ、マリアンは手加減しない。
「あら、アヴリーヌ・モーリン。お顔を上げなさいな」
名前を呼ばれたアヴリーヌは、びくっと肩を震わせた。ランパードが促す。
「アヴリーヌ、ほら」
「だって」
だって——何だと言うのだろう。ドレスが気に入らない、わがままが通じなかった、舞踏会になんて来たくなかった、などと泣き言を漏らすことが許される場ではない。国王の前であり、舞踏会の主催者の前でそのようなぐずりをするみっともない貴族令嬢など存在してはいけないのだ。そのくらいはアヴリーヌもわきまえているのかどうなのか、言葉にはしないが顔を上げることもない。
マリアンは知っていた。イグレーヌから子どもっぽい姉アヴリーヌについての愚痴をよく聞いていた身として、どうつつけばいいか把握している。
「もっと堂々となさったら? あなたの妹君はどこに出しても恥ずかしくない貴族令嬢ですのに」
妹と聞いて、アヴリーヌは顔を紅潮させた。一丁前に、妹と比べられて劣っていると見られて、恥ずかしいと思ったらしい。
すかさずランパードが口を挟む。
「あれのことはお忘れください、マリアン様。ここにいるのは僕の婚約者アヴリーヌです」
「あら、失礼。あなたの婚約者はイグレーヌだったはずなのに、と思ってしまいましたの」
それを聞いた周囲の人々が、くすくすと笑う。とっくにランパードがイグレーヌを捨てて姉アヴリーヌに乗り換えたことは広まってしまっている、少なくともこの場にいる人々は一度ならず耳にして、馬鹿にしていることだろう。
縮こまるアヴリーヌへ、マリアンはにっこり笑って指摘する。
「アヴリーヌ、あなたはデビュタントをこなして以来、一度も舞踏会に出たことのない深窓のご令嬢ですものね。ご自身宛ての招待状が届いても、妹君に行かせていたともっぱらの噂ですわよ?」
「それは、私は体調が優れないことがあるものですから、妹が代わりに出席してくれていたのです」
「であれば、普通は丁重に断るものです。あなたが指名されているのなら、あなたが出席することが礼儀というもの。そうではなくて? でなくては、いつまでも相手は出てきもしないあなたへ招待状を出さなくてはならないでしょう?」
「失礼を、いたしました。次からはそういたしますわ」
「次? そうね、次があればの話ですわね」
それは言外に、「礼儀も知らないあなたを招待する舞踏会がこれ以降あると思っているのかしら?」と言っているようなものだ。意図を察したランパードや黙って聞いていた国王が動く前に、頃合いを見計らったかのようにマリアンの横へ一人の騎士がやってきた。
「殿下、お呼びでしょうか?」
マリアンは自分の一の騎士——グローリアンに心の中で「よくやった」と褒める。事前に打ち合わせしていたとはいえ、ここまでことが上手く嵌まるとマリアンもしてやったりの笑みを隠しきれない。
騎士グローリアン、まるで物語の中から出てきたような麗しの美青年は、一気に招待客たちの視線を集め、黄色い声がそこかしこから上がっていた。
「騎士グローリアンだわ。いつ見ても凛々しいお方」
「ああ、何て美しいのかしら、
「唯一マリアン様へ剣を捧げることを許された騎士だもの、まさしく理想の騎士だわ」
真新しい儀礼用の騎士服に細めの長身を包み、銅色の金の髪を輝かせ、それでいて彼の明晰さも雄強さも微塵も失われることはない。グローリアンに足りないものは主君マリアン以外への興味くらいで、最強火マリアン推しという秘密を除けば確かに『
そのグローリアンは、最前列でマリアンへ挨拶をしていた二人組、ランパードとアヴリーヌへ目線を向ける。
グローリアンと目が合った瞬間、アヴリーヌはただでさえ紅潮していた顔をさらに赤らめた。
それをまったく気に入らない様子で、ランパードはアヴリーヌに声をかけて気を引く。
「アヴリーヌ、行こうか」
「え……?」
すっかり目が蕩けていたアヴリーヌを見れば、誰だって分かる。男漁りに精を出す淑女たちだって、グローリアンに微笑まれるだけで骨抜きにされるのだ。ましてや初心な深窓の令嬢が目線を合わせて微笑まれれば、否が応にも心臓を射抜かれる。
アヴリーヌはランパードに強引に手を引かれて、そのままマリアンの前から去っていった。
無論、これで終わりではない。マリアンはグローリアンへ耳打ちする。
「手筈どおりにしなさい、グロー」
「ええ、かしこまりました」
マリアンの忠実な騎士グローリアンは、主君の命令であれば必ず遂行する。たとえそれがバルドア王国を揺るがすことになろうとも、マリアンがすべて正しい。マリアンの言うことが絶対である。
そんな困った騎士だが、その実態を知っているのはマリアンのほかにはイグレーヌだけである。この場にいる全員が、騎士グローリアンの本性を知らない。だからこそ、マリアンは堂々と罠を仕掛けられたのだ。
招待客の挨拶が終わり、赤いカーペットがしまわれて、彫像の間はすっかりダンスホールと化した夜更けのことだ。
宮廷管弦楽団が緩やかな音楽を演奏する。ダンス初心者向けの楽しげな曲だ。テンポがよく、思わず踊りたくなるようなその音楽とともに、グローリアンは壁際にいたアヴリーヌへ丁寧に誘いの手を差し出す。
「失礼。一曲いかがですか、姫」
アヴリーヌの隣には当然ランパードがいるのだが、大勢の前で踊りたくないと駄々をこねた婚約者のために壁際にいたにもかかわらず、その婚約者は蕩けた目をして降って湧いた絶世の美形になびいた。
「喜んで」
「えっ」
ランパードが驚いている間に、アヴリーヌはグローリアンの手を取ってダンスの輪の中に入っていく。
アヴリーヌは困ったような声で、エスコートしてくれる騎士へと甘えていた。
「私、あまり踊りが得意ではありませんの」
「大丈夫、この曲はそう難しくありません。ゆっくりと足を動かして、リードしますよ」
「まあ、お優しいお方」
舞踏会で男女が恋に落ちることはそう珍しいことではない。世慣れた男性がおっかなびっくり社交界へ入ってきた少女を優しく導くことは慣習的に多いし、多くの場合男性側は節度をわきまえている。
ところが、今回に限っては
ランパードは曲の途中でもかまわず突っ切り、鼻息荒くグローリアンからアヴリーヌを引き離そうとした。
「アヴリーヌ! そいつから離れろ!」
ランパードに無理矢理両肩を掴まれて引っ張られ、アヴリーヌはやっとグローリアンと繋いでいた手を離した。アヴリーヌは至極不機嫌に、婚約者を睨み、責める。
「何をするの? ランパード、踊っているだけだったのに」
「違う! 君の婚約者は僕だ、そいつじゃなくて」
「まあ、嫉妬?」
図星を突かれたランパードの表情が引きつる。しかし、グローリアンは紳士的に対応し、アヴリーヌはグローリアンの肩を持った。
「落ち着いて、お二人とも。ここは舞踏会、そして国王の御前です。どうかお静かに」
「そうよ。何を怒っているの、ランパード。舞踏会なのだから踊るのは当たり前でしょう?」
踊っていた老若男女が足を止め、三人を遠巻きに見る。管弦楽団の演奏も止まり、誰かがランパードを止めに入ろうとする——その前に、ランパードの苛立ちは爆発した。
「たかが騎士の分際で、他人の婚約者に色目を使うな! 舞踏会に出てくる騎士の分不相応な卑しさには吐き気がする!」
その言葉は、グローリアンへの必要以上の侮辱であり、翻っては貴族として分不相応な非寛容さを示した。
しんと静まり返る大広間の中央で、グローリアンの顔から笑みが消える。
それを見たアヴリーヌは、親に叱られることを恐れる子どものように怯える。
自身の言葉の意味と価値を捉えきれていないランパードだけが、無謀にも猛り、怒っている。
「撤回しろ、ランパード・ラングレ。貴殿は騎士を貶める発言をした」
「な、何を今更! お前がアヴリーヌを誘ったから悪いんだろうに」
「それとこれとは話が違う。貴族が騎士を卑しいと言ったからには、我々は貴族へ忠誠を誓うことができかねる」
この場にいる燕尾服やドレスを着た人間と、礼服やそれ以外を着た人間の間に、見えない溝が広がりつつある。
それはバルドア王国にとって致命的な傷だ。その傷を何とかしようと歴代国王たちは苦心してきた。貴族と騎士、そして平民。身分階級の断絶により何度となく誤解やすれ違いを生み、話し合いではなく暴力の嵐を引き起こしてきた。身分の上下で常識も知識も財産も違うことがおかしいのだと大昔に声を上げたのは貴族ではない、騎士だった。それに平民が続き、バルドア王国の貴族たちは彼らの力を恐れて融和を図る方向へ舵を切ってきた。できるだけ懐柔しよう、いやいっそ何世代もかけて身分階級を誰も気にしなくなるほど混ざり合ってしまえば、この問題はなくなる。これまでそう思った貴族が多かったのは、騎士の武力と平民の飢餓が貴族の権威と財産を上回る脅威となっていたからだ。
しかし、もちろんそう思わない貴族もいる。騎士や平民を蔑み、奴らは自分たちよりも身分が下だと主張する強硬派も貴族の中には密かに息づいている。
その強硬派であると指差されることは、現代のバルドア王国においては多くの場合恥であり、無用な警戒を生むだけのデメリットしかない。なのに、ランパードはその愚を犯してしまった。彼の貴族としての誇りの中にある無意識下の差別感情が顔を出し、衝動的に家の外で言ってはいけないことを言ってしまったのだ。
さすがに箱入り娘のアヴリーヌもそのまずさに気付いた。二人の傍らで、おろおろしながら——ランパードを気遣ってこう言った。
「ランパード、謝って」
それをランパードは、婚約者アヴリーヌがグローリアンに味方したと勘違いした。
一瞬で絶望し、激昂したランパードがグローリアンの胸ぐらを掴みかかる。
「お前が、アヴリーヌを誑かして!」
無論、グローリアンはその程度に反応することもなく、冷ややかな目線を投げかけながら仁王立ちして身じろぎ一つしない。
打って変わって、周囲の貴族の男性たちが騎士や給仕たちを押しのけて、ランパードを黙らせようと必死で抑えにかかった。
「止めろ!」
「ランパード、手を離せ!」
「うるさい、成り上がりの騎士ごときに馬鹿にされて黙っていられるか!」
人間、止められると余計に口が滑りやすくなるものだ。
まだまだ侮辱の言葉を吐き出そうとしたランパードの口をネクタイとチーフで塞ぎ、若い貴族たちが彫像の間から凄まじい勢いで担いでいく。舞踏会で失言をして放り出された、という何とも不名誉なことだが——ランパードのちっぽけな名誉云々よりも、はるかに重大な出来事が同時進行していた。
彫像の間、ダンスの集まりから距離を取り、壁際の椅子に座っていたご老人たち——誰もが顔や手足に傷を負い、無数の勲章がかかった古い騎士団の礼服を着ている——はため息を吐いていた。
「潮時ですな」
「ええ。我々の苦労は水の泡だ」
彼らの言葉は、ときに国王の命令よりも重い。
かつてバルドア王国王宮騎士団長を務めたダヴール卿、辺境に騎士領を持ち鉄壁の守りを長年勤めた騎士家の家長たちが、国王の前にやってきて頭を下げた。
「陛下、我々はお暇をいたしまする。貴族の方々の前には、卑しき身分の騎士は不要でしょう」
身分階級の融和策の一環で、本来貴族だけが参加する舞踏会に騎士たちが参加するようになって久しい。だが、それは見せ物や見下されるために参加しているのではないし、騎士の誇りを傷つけられてまで居座るべきところでもない。
踵を返したダヴール卿が命じたわけではないが、しかしさあっと潮が引くように礼服を着た騎士たち、そのパートナーたちが彫像の間から引き上げていく。
「な、何を! 待て、ダヴール卿! 皆、待たぬか!」
これに大慌てなのは、国王だ。思わず玉座から立ち上がって家臣たちに引き止めるよう命じにかかる。
この状況に青ざめる貴族たち、ランパードとグローリアンが去ったあと呆然と立ち尽くすアヴリーヌ、何が起こったかわかっていない年若い乙女たちや使用人たち。
何より、まだ玉座に座ったままのマリアンは、笑いが堪えられず扇子で顔を隠していた。
——ここまで上手くいくとは、お馬鹿な貴族ランパード様様だ。おっと、主演男優のグローリアンをあとで褒めておかなくては。
すでに国を揺るがす大事だが、マリアンの企みはまだ始まったばかりだった。
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