第5話 たのしいキャンプ!

 気まずい空気が解消されたのは、次の日の午後のことだった。


 騎士領の北端で、アリエスヴェール侯爵領に伸びる街道から逸れて、西へと向かう。ここからは馬車の通るような大きな道ではなく、地元民が使う細い小道を通っていく。この小道がロスタス山脈までの最短の道のりであり、馬車道よりも盗賊に遭う確率が低く安全だった。何せ、金目のものを持つ商人や貴族は小道を通らず、しかも熟達した地元の狩人たちがそこいらにいるものだから、弓矢の的にされまいと盗賊も寄りつかない。


 ただし、小道はしっかりと深い森を突っ切っており、石がごろごろ足元に転がるわ大木の根っこが道を横断しているわ、となかなか野生味に溢れている。しかも、ロスタス山脈の麓まで宿泊施設のある街や村はない。食糧の不足や怪我病気など非常事態が起きても対処に困るところだが、野営訓練代わりなのだから問題ない……はずだ。


 小休憩を挟みながらの行軍は特にアクシデントが起きることもなく、ウルスもハイディも文句一つこぼさなかった。特にウルスは森林に慣れているようで、路面の悪い道では私が何か言わなくても歩幅を狭くして歩いていたし、ハイディも街育ちではないのかここまで息を乱していないほど体力に余裕がある。案外、見習いとは言っても実家は騎士階級以上でそれなりに鍛えられているのかも、と思える。


 バルドア王国にはたくさんの騎士がいる。王家や貴族に忠誠を誓う職業騎士のほか、ブルックナーのように政治的戦略的に重要な土地を騎士領として封じられて統治者の側面を持つ騎士もいるし、単なる軍人階級としての騎士の家系も多い。中には貴族を上回る財力を持つ騎士団があったり、バルドア王国軍を率いることを許された司令官クラスの騎士もいて、騎士の身分を持つ者はバルドア王国の上流から中流階級あたりに幅広く分布する、他国にはない独自の階級層を形成していた。同時に彼らは王侯貴族と平民という上流か下流かしかない経済的身分階級の中間に柱のように立つ、中産階級としてバルドア王国を政治的にも経済的にも支える屋台骨となっていた。


 これ、実はすごいことなのだ。他国はほぼ、国のお金の九割九分以上を占める一握りの王侯貴族と、ほんの一分を分け合うその他大勢の平民という経済構造をしているわけだが、バルドア王国に限っては王侯貴族が六割、騎士階級が三割、平民が一割くらいとなる。


 それはどういう意味かって? まず、バルドア王国では王様は絶対的な存在ではない。同等以上のお金持ちなら他にもいるし、忠誠を誓うものの自分の意見は主張する貴族たちや騎士たちの意向を伺ってお金のやりくりをしたり、政治を回していかなくてはならない。だから有力な商人や平民たちを味方につけて貴族や騎士たちと対抗したり、その折衝の中で互いに妥協点を探り合い、互いのことを情報交換して交流が生まれる。この交流が重要なのだ。だって、見下す相手と和気藹々と話し合いはできないし、一方的な関係なら互いを深く知ることもない。そうではなく、同じ国に住む者として連帯意識を持って、ときにお金やものを融通しあったり、婚姻関係を結んだりして絆を深め、あらゆる身分階級が関係を強固にしていくことは——他国の侵略を跳ね除ける防壁として大変有用なのだ。王様を含むすべての国民の中に守るべき自分たちの国という意識を作り、外敵の付け入る隙を与えないことで、バルドア王国は頑強に存在していける。それもこれも、王侯貴族と平民の間にいる騎士階級が身分階級間のクッション兼潤滑剤としての役割を見事に果たしているおかげだった。


 まあ、これは全部、ブルックナーからの受け売りで、私はヘーっと感心するばかりだった。つまり、『騎士は重要』。そういうことだ。


 だから、ウルスとハイディがどういう家の出身なのか知りたいところだが、剣術が得意ではないと言ったあたり、あまり探るような真似をするのは失礼かもしれないと思って私は聞けないままいる。商売が得意な騎士の家は騎士の本業が疎かになっていると批判されるのを嫌がるし、子弟に剣術も教えられないなんてと言われて悲しい家の事情があるかもしれない。気まずい空気の中で無理に聞くことでもないし、と後回しにしていた。


 時折鳥や動物の声が聞こえてくるほかは静かな森の小道で、突然ウルスが私の肩を叩いて止まった。


「静かに。あそこ、鹿がいます」


 思わず私も足を止め、ウルスが指差す先へ視線を向ける。豆粒に見えるほど遠くに、ときどきある木立の下草を食べている鹿の後ろ姿があった。


 私がどうする、と聞くまでもなく、ウルスは狩る気満々で狩猟用弓を手にして、ハイディを手招きしていた。 


「あっちに川ありますね。ちょっと寄り道しましょう。ハイディ、手伝ってくれ」

「分かった」


 小声で短く打ち合わせて、ウルスとハイディはリュックを下ろし、静かに行動を開始した。私は狩猟はあまりやったことがないので、参加はせずここで座って荷物番として見守っていようと思う。


 一流の狩人は、獲物を水辺へ追い込んでから仕留めるという。なぜなら獲物の息の根を止めたあと、美味しく肉をいただくためには素早く血抜きと冷却を行わなくてはならないからだ。


 ウルスは忠実にその手順を守り、ハイディを風下に向かわせて鹿を追わせ、先にある川へと誘い込んでいた。先回りしていたウルスが矢を番え、待ち構えているところに——という考えだろう。しかし地の利のない慣れない土地、狩人も毎回獲物を仕留められるわけではないし、失敗してもそれはそれで、などと私は呑気に慰めの言葉は必要かと考え込んでいた。


 ところが、である。道端の木の根を椅子に座り込んでいる私の耳へ、鹿の甲高い鳴き声が聞こえた。その一鳴きのあとは何も聞こえなくなり、しばらくするとハイディが戻ってきた。精悍なその顔には、ほんの少し笑みが浮かんでいる。


「やりましたよ。ウルスが仕留めました」

「えっ、本当に?」


 このとき、私は割と本気で驚いた。


 ハイディとともにリュックを持って川へ辿り着くと、すでにウルスが仕留めた鹿の内臓を取り出して、川の中へと鹿の体を置いているところだった。石を運んできて川底に鹿を固定している真っ最中で、ブーツを脱ぎ、シャツの袖とズボンの裾を思いっきりめくっている。


 水からざぶざぶと上がってきたウルスは、狩猟用弓と矢筒を拾って、イタズラが成功した子供のように満面の笑顔で私たちを迎えた。


「獲れたのは若い牝鹿めじかでしたよ。いやあ、やってみるもんですね」

「へえ、牝鹿めじかがいるなんて運がいいわ」

牡鹿おじかはこの時期臭いですからね。川も冷たくて気持ちいいですよ!」


 そう言いつつ、ウルスは「へぷし!」とくしゃみをして笑いを取った。


 これにより、どうやらウルス・ウヴィエッタは狩人としての腕ではなかなかのものだ、と証明されはしたのだが——ウルスは確か騎士見習いだったはず、という私の疑問はとりあえず胸の奥底にしまっておいた。弓術に精通した騎士がいたっていいじゃない、うん。


 ——そんなことより、功を立てた騎士を労わなくてはならない。


 私は二人へ、ある決断を伝えた。


「ウルス、ハイディ。今日はここで野営をしましょう。美味しいステーキを作るから、まずは火を熾すための枝を集めて」

「了解です!」

「お任せください」


 二人はキビキビと動き、森の中へ枝探しに走り出す。


 残った私はやることがある。そう——。


「よし、玉ねぎペーストを作るわ! ……目が痛くなりませんように!」


 どすんと地面に置いたリュックから、大きな玉ねぎを二つ。それと小さい木のまな板と愛用のペティナイフが揃えば、ああちょっと待った、安定して座れるところじゃないと。


 覚悟を決めて、私は玉ねぎとの格闘に入った。





 私がずびっずびに涙と鼻水を垂らしながら完成させた玉ねぎペーストと料理用ワイン、急速冷却した鹿の肉、それに砕いたスパイスを加えて、防水加工を施した大きめの皮袋に放り込んでしっかりと揉む。夕暮れの風が冷えてきて、生肉を外に放っておいても問題ないくらいの寒さになってきた。


 ウルスとハイディは一晩燃やす分の量の枯れ枝でいいのに、倒れて大分経った細い木を丸ごと持ってきた。苦手な剣を使って乱暴に木の皮や枝を削ぎ、速やかに川沿いの石を拾ってきて円形に並べ、焚き火の準備を整えた。やっぱり二人とも手慣れている、野営訓練なんてしなくてもいいんじゃないかと思えてしまうほどだ。


 ブルックナーが私の護衛——あくまで女の一人旅は危ないからと親心で——にと二人を付けたのではないか、とさすがに私も勘繰りはじめたが、それよりもそろそろ肉を焼きはじめないと日が暮れてしまう。森の日暮れは早い、私は自分のリュックから鉄製フライパンを引っこ抜く。しかし一人用で小さいため、これで鹿一頭を焼くとなると時間がかかりすぎる——私はウルスとハイディにも協力を仰ぐ。


「二人とも、焼く道具は持っている?」

「一応、フライパンなら」

「私は鍋を」

「使わせてもらっていい? 一気に焼いておかないと、もったいないから」

「そういうことなら全然オッケーです! 鹿の解体を……って、もうやったんですか?」

「うん。食べられる部分は全部削ぎ落として、いらないのはそこにまとめてあるわ。あ、そうだ。脳や舌は食べる?」

「い、いえ、遠慮します……ハイディ、食うか?」

「いらない。いらないです」


 そんな調子で、割と自然に私と二人との間にあった気まずい空気はなくなり、焚き火が熾きるとより口は軽やかに、気分は楽しくなってきた。大人数でのキャンプは、不思議とうきうきする。火を囲んでみんなでおしゃべりをして、そういうのは私——イグレーヌ・モーリンという貴族令嬢のしみったれた境遇をすべて忘れさせてくれた。


「ステーキに、皮袋……?」

「中で漬けているの。前にシェフから習った鹿肉の美味しい食べ方があって」

「へえ……鹿肉って焼くと固いんですよね。干し肉のほうが俺は好きです。ハイディは?」

「私は鹿肉自体が初めてだ」

「あれ、そうだったのか。鹿追いは上手かったのに」

「要領的には羊や馬を追うのと同じだからな」


 熱したフライパンに大きめのバターのかけらを加えながら、私は話を聞き逃さない。


 狩猟と弓が得意なウルス、馬術が得意で羊や馬を追ったことのあるハイディ。どちらも騎士見習いにしては、異色の経歴だ。少なくとも、王都など都市部に住んではおらず、騎士になる伝手のある比較的裕福な家の出身ということは分かるが、ウヴィエッタもトフトも聞いたことのない家名だ。もっとも、私だってすべての王侯貴族と騎士たちの家名を把握しているわけではなく、バルドア王国国境沿いの地域はそれぞれ隣接する国との関係のほうが王都よりも強いことはままある。


 それはさておき、私は皮袋から漬けておいた鹿肉を取り出した。すでに切ってあるので、あとは焼くだけで美味しくいただける。


 石を組んだ焚き火にかけられた二つのフライパンと鍋には、すでにバターが溶けて沸騰し、食欲をそそる香りを放っている。そこへ、私はスプーンとフォークをトング代わりにして肉を放り込んでいく。じゅわっと熱々のバターによって鹿の生肉は色付き、焦げ色がつく。


 忙しなく肉をひっくり返し、フライパンを一つ空けて肉汁の中に皮袋に残った玉ねぎペーストや漬け汁を混ぜ、塩胡椒で軽く味つければソースの出来上がりだ。


 ウルスとハイディはというと——期待に満ちた目は肉に目を奪われ、くださいとばかりに自分の木製皿を差し出している。


 焼き上がれば即皿へと肉を取り出し、私はそのご期待に応えて料理を完成させる。


「というわけで作りました、シャリアピンステーキ! 召し上がれ!」


 木製の皿に、ミディアムレアの肉、肉、肉、バターと玉ねぎ混じりの濃厚ソース! と山盛りのステーキが湯気を立ち上らせてどんと鎮座している。


 待ちきれなかった育ち盛りの青少年二人は、すでに自前のフォークを肉へと突き刺し、大きく開けた口で頬張る。何度も咀嚼して、そしてぷるぷる震えながらの歓喜の声が上がる。


「う、うまー!」

「美味い……!」

「たくさん食べてね、まだあるから」


 ウルスとハイディは聞いているのかいないのか、それ以降は言葉少なにお行儀悪く肉を噛みちぎり、溢れる肉汁で口の周りを汚しながら堪能していた。美味しいようでよかった、私はひたすら肉を焼きながら自分の皿の肉を片手間で食べる。我ながら美味しくできたものだ、うん。


 しばらく三人の間に言葉はなかった。焚き火を囲んで、星空の下で美味しく焼けた肉をひたすら味わい、やがて肉が全部焼けて、満腹になったウルスが地面に転がり、出会ったころよりは表情が緩んだハイディが残りの肉を火から下ろした鍋に集めてくれた。


 美味しい肉、それは気まずい空気も吹き飛ばしてくれるご馳走である。


 ところが、ハイディが気になることを口にする。


「この国に来たときは憂鬱としていましたが、こんなに美味しいものがあるとは」


 言い方が気になり、私はすぐに復唱して尋ねる。


「この国、って?」


 私がじっと見つめているが、ハイディは顔色を変えない。


 やがて、ハイディは冷めたフライパン二つと麻の端切れを持って、立ち上がる。


「フライパン、汚れを取っておきます。手入れが必要でしょうから」


 ハイディは穏やかながらも、私の疑問に答えるつもりはないようだった。さらに突っ込んで尋ねようと、私が腰を浮かせかけたそのとき、ウルスの呻き声が聞こえてきた。


「み、水をください」


 お腹と口を押さえたウルスがうつ伏せになって地面に寝転んでいる。私は慌ててブリキのコップに水を注ぎ、ウルスの手に押し付けた。


 何だか誤魔化された気がする。尋ねてはいけないことだろうか、しかし——そう思いながら、私はそれ以上聞くことができなかった。翌日からもハイディは何事もなかったかのように振る舞っていたため、疑問を飲み込む。


 とはいえだ、シャリアピンステーキのおかげで二人との距離は大分縮まり、世間話やブルックナーの世話になっていたころの話に花を咲かせつつ、私たちはちょっとだけ早足で先へ進む。


 おそらくは、三人それぞれが隠しごとを胸に秘めている。人間、知られたくないことはあるし、それはいいのだが、この旅の中でそれを明かすときは来るのだろうか。明かさなくても仲良くしているじゃないか、そう思いはする。


 でも——まあ、私がブルックナーの剣術の弟子ということはそれほど知られていない、と信じたい。


 だって、貴族令嬢が騎士を負かすほどの剣士だなんて知られたら、それこそもう婚約の話は来ない。そもそも次の婚約の話はあるのだろうか、マリアンが上手く婚約破棄の噂を何とかしてくれていればいいけど。


 時折出かかるため息とじれったさをグッと我慢して、私は同行人のいる旅を楽しむ。うん、楽しんでいたのだ、確かに。

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