第2話 ソロキャン予定が変更に

 翌日未明、私は家出のようにこっそり屋敷を発って、王都の北門から街道を徒歩で北上し、とある宿場町にやってきた。


 活気に満ちた朝市には多くの旅行者が集まっていた。これからの旅に必要なものを買い、または護衛となる傭兵や道案内ができる地元民を紹介してもらうために仲介者を探している。中には春の貢納のため王都へ上る荷馬車を引いた人々もいて、朝早くからあっちこっちがごった返していた。


 そんなところで私みたいな貴族令嬢が目立たないか、って?


 大丈夫。私は一目で貴族と分かる金髪の巻き毛をしっかり三つ編みにして後頭部に編み込み、鹿追い帽子ディアストーカーの耳を下ろして隠している。麻のストールを首に巻きつけて顔を隠し、使い古したローブで足元まですっぽり覆い、キュロットと脚半に履き慣れたサンダル姿だ。背中にはレードルとフライパンがぶら下がった帆布製リュックを背負っている。誰も私を少女だったり良家の子女だったりと見ることはないと自信を持って言える。


 露天が立ち並ぶ騒がしい大通りの先、一際大きな店に私は向かう。立派な看板には『ブッシュリー・ダドンクール』、つまりは肉屋だと一目で分かるハムの絵も描かれていた。


 肉屋といえば、一言で言うなら『地域の有力者』だ。人々の主食である肉を扱い、加工し、流通網を維持できるほどの財を持つ。直接生産に携わる農民や牧畜民ではなく、最終的に食卓に並ぶ食材を作る者、食を握る者が強いのだ。肉屋の店主は貴族ではなくても、畏敬の念を払われるに値する名士であることも珍しくはない。


 私は美味しそうなハムやソーセージ、サラミがぶら下がる木製カウンターの中へ声をかける。


「こんにちは、ダドンクールさん」


 すると、中で骨付き塊肉相手に牛刀を振るっていた店主ダドンクールが、ぱあっと明るい顔をしてやってきた。筋肉隆々の筆髭を生やした、健康そうな中年男性だ。


「おお、モーリン子爵家の! 元気かね? また一人旅かい?」


 親しげに応じてくれたダドンクールは、私のことをよく知っている。私が一人旅をするときは、必ずここに来て商品を買っていくからだ。それに、ダドンクールの取り扱う牛肉の骨髄オス・ア・モエルのような珍味は絶品でモーリン子爵家屋敷にも仕入れている。


 私は買い物がてら、旅情報を聞いてみることにした。


「うん、ちょっとお母様のところまで。最近はどう? 周辺の天候と治安について教えてくれる?」

「ああ、いいとも。今は旅をするには絶好の日和だ。雨も降らないし、人の出入りが多いから騎士団が巡回を増やして安全を確保している。これが六月中ごろまで続くから、しばらくゆっくりするといいだろう」

「ありがとう! いつもの食料をもらえる?」

「毎度! 加工肉シャルキュトリーセット、香辛料、そうだおまけにシチュー用の玉ねぎも入れよう。こんなものかな」


 ダドンクールは楽しそうにカウンター上へごろごろ商品を取り出す。ソーセージだらけの紙袋、麻紐で縛られたサラミ、岩塩と乾燥ミックスハーブ、生のタイムやローズマリー、そして玉ねぎを十個。


 私はリュックから取り出した麻袋にそれらを詰め込み、金貨を一枚支払った。本当はそれほどかからないことは知っているが、わざわざ売り物ではない高品質のハーブや玉ねぎを出してくれたお礼も兼ねてである。屋敷と変わらない品質のものが食べられるし、買いに行く手間が省けた。


「くれぐれもお父様には内緒でお願いね」

「ははは、分かっているよ。気をつけて!」


 ちょっと重くなったリュックを背負い、私は次の目的地へと足を運ぶ。一人旅の前に、必ず寄っていかなければならないところがあるのだ。


 宿場町の北端、商人や農民たちの馬車が並ぶ広場の隣には、古い砦がある。ここはすでに王都の範囲内ではなく、北に隣接する騎士領なのだ。街道を巡回して安全を維持する、万一攻め込まれた際には防衛線を張るなどの役割を持つ騎士領の古い砦だが、建国以来こんなところにまで外敵が攻め入ったことはなく、もっぱら敵といえば街道沿いに湧く盗賊くらいなもので、ここの騎士は盗賊の天敵とも言われている。


 砦の入り口に立つ騎士に案内を頼み、私は古馴染みとの面会にこぎつけた。私がここへ来た目的は、彼に預けたものを返してもらうためだ。


 きびきびと砦の入り口までやってきた、全身を兜と鎧で包んだ壮年の偉丈夫は、私の前で朗らかに慇懃な一礼をした。


「ようこそ、イグレーヌ様。久しぶりですな」


 この人こそ私の古馴染み、ブルックナー卿だ。この騎士領の統治者、砦の騎士団の長である。そして、ブルックナー卿は私の理解者でもあった。


「ええ、お元気そうで何よりです、騎士ブルックナー。置いてある剣とボウガンをお借りしても?」

「分かりました、今持ってきましょう。ちゃんと手入れはしていますからご心配なく」


 ブルックナーはすぐに来た道を戻り、帰ってきたときにはその手に一本の鞘に入った片刃剣と軽量型ボウガン、それにみっちり専用の短い矢を詰め込んだ矢筒があった。片刃剣の柄の先端には、可愛らしい赤いリボンが結ばれ、それには簡素ながらも私のイニシャル——IとMが刺繍されている。ボウガンも持ち手に同じリボンがあった。間違いなく、だ。


 私は片刃剣を鞘ごと腰の剣帯に差し込み、リュックの左側にボウガンと矢筒を取り付ける。片刃剣は斜めの鍔の根元までしっかり磨かれ、研がれている。


「ふう、落ち着くわ」


 何を隠そう、私はブルックナーへ自分の剣とボウガンを預けているのだ。まさか屋敷に武器を置くわけにもいかず、というよりも私が剣術や弓術を修めていることは父や姉アヴリーヌに言っていない。家族の中では、私へと手ほどきをしてくれた母しか知らないことだ。


 もちろん、一人旅をするためだけに習ったわけではない。王位継承権者として、自衛の手段をきちんと習得していなければならず、そもそも最初に私へ一人旅をやるよう促してきたのは母だ。騎士ブルックナーたちを師として満足いくまで習ったのち、王都から母の療養地までを何度も往復して——ときにトラブルに遭い、無法者を成敗しつつやってきた。


 将来私が王位を継ぐことはないだろうし、おそらく私の子孫が王位継承権を維持することもない。だとしても、今私は母と同じ王位継承権者で、その義務を全うしなくてはならない。私が貴族令嬢らしくある理由は、ただそれだけだ。王位に近く、貴族の身分にありながらみっともない真似をするわけにはいかないからであって、その品位を保つために私は剣術と弓術を習った。子爵家令嬢である前に王位継承権者である私は、ドレスよりも化粧よりも優先されるべき事柄、つまりは自分で自分の身を守る力を持たなければならないのだ。


 私の手にあるタコの数々、うっすら残るあざや何度も擦りむいた膝は努力の証だが、これを知っても双子の姉アヴリーヌは王位継承権が欲しかったと言うだろうか——まあ、それを問うのは意地悪だ。黙っておこう。


 準備ができた私は、ブルックナーへ別れの挨拶を、と顔を上げたところ、ちょうどこんな頼みをされた。


「イグレーヌ様、ひとつお願いがあるのですが」

「何ですか?」

「旅に騎士見習いを二人、同行させてもらえませんか? 入団時期が遅れてまだ野営訓練を受けさせられておらず、早めに経験させておきたいのです。従者と思ってくださってけっこうですので」


 それは、と口に出たが、私はすぐに頭を働かせた。私の護衛にというブルックナーの気遣いか? いや、本当に野営訓練代わりにと思っているのだろう。ブルックナーは私の腕をよく知っているはずだし、騎士の野営訓練もこなしてきたのだから教えてやってほしい、と本気で思っているに違いない。これが騎士見習い一人だけなら男女二人旅として醜聞の種になるから断るところだが、男女三人ならギリギリ大丈夫だろう。


 とても子爵家令嬢に頼むことじゃないなぁ、と思いつつも、私は引き受けることにした。


「うーん、まあ、いいわ。ブルックナー先生の頼みですもの」

「ありがたい。すぐに支度させます」


 そう言って、ブルックナーは近くにいた騎士に伝令を命じる。伝令の騎士は急いで砦の奥へと消えていったが、私がブルックナーと世間話をしているうちに二人の騎士見習いを連れて帰ってきた。


 野営用の大荷物を背負っている二人の騎士見習いは、私とブルックナーの視線に気付いて、慌てて背筋を伸ばして敬礼の姿勢を取る。


「はあ、はあ……ウルス・ウヴィエッタと申します! お会いできて光栄です、イグレーヌ様」

「ハイディ・トフトです。よろしくお願いします!」


 ウルスとハイディ——機敏そうで私よりちょっとだけ背の高いくらいの小柄な黒髪の青年ウルスと、泰然とした長身で足の長い茶髪の青年ハイディは、革と鉄板だけの胸当てやブーツ、軽装の騎士団の青い制服を着て、支給品の両刃剣を剣帯にぶら下げている。ウルスはリュックの横に手の込んだ狩猟用弓を下げ、ハイディのリュックからは釣竿が伸びていた。


 二人へ向けて、ブルックナーは張りのある声で訓令を出す。


「いいか、二人とも。イグレーヌ様を教官と思って、命令には従うように。お手を煩わせるなよ」

「はい!」

「はっ!」


 ブルックナーへ元気一杯の返事を返し、ウルスとハイディは私へ向き直った。


 ——二人とも、なぜそんなにもキラキラ輝く目をして私を見るのか。


 それはまあいいのだが、それよりも言っておかなければならないことがある。私は二人へ、できるだけ威圧感や偉そうな雰囲気を感じさせないよう、微笑んでこう言った。


「気張っておられるところ悪いのですけれど、荷物が多すぎますから減らしてくださいな」


 荷物運びの馬を連れていくわけでもないのだから、とまでは言わなかったことを褒めてほしい。


 ウルスとハイディは顔を見合わせ、それからわたわたとしながら荷物を減らす作業に取り掛かった。




 予定では一人旅ソロキャンのはずが三人旅になってしまったが、まあいいやとしかこのときの私は思わなかった。


 後々考えると、もう少しちゃんとブルックナーの意図を考えておくべきだったと思わなくもないが——うーん、まあいいや。

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