乙女心どころか人の心



 比企山の麓にある鈴月高校は、校門までも長い坂道が続いている。

 カズヤも通い始めて半年だが、毎朝この坂には辟易してしまう。勾配が強いわけではないが、緩やかだからこそ校門に着くまでじわじわと蓄積する疲労が嫌いだった。

 昨日の樹についた嘘がバレていないかという不安もあって、いつもより足が重いがうだうだ言っても仕方がない。

 カズヤが重い吐息をこぼして進み出す。

 その直前で肩をぽんぽんと叩く手が一つ。


「ん? ああ、おはよう」

「おはようございます」


 カズヤが振り返ると、図書室の少女が立っていた。

 楚々とした佇まいは、登校する生徒の視線を集めている。当然、話しかけられるカズヤにも同じ量の好奇の眼差しが向けられていた。

 図書室は基本的に人が少ないので気になる事は無かったが、いざ人目の多い場所になれば少女の注目度は天井知らずである。

 今までこんな美少女と勉強をしていて浮かれなかった自分に感心して、直ぐにそれだけ一途に葉桜海を想っていた過去の日々を思い返してまた胸が痛む。


「図書室以外で会うのは初めてだな」

「そうですね。私は何度もあなたを見かけていますが」

「俺は見かけないけど。まさか、いつも後ろから?」

「前に居てもあなたは気付きませんよね。鈍いから」


 言葉の端々に刺々しさを含んだ少女の言い方にカズヤは苦笑する。

 表情に目立った変化は無いが、不機嫌なのは分かる。

 もしかして、とカズヤは拳を掌に落とした。


「もしかして、君もこの坂道が嫌い?」

「え?」

「分かるよ。通い馴れて足腰鍛えられるけどさ。やっぱり疲れるものは疲れるし。登る前はいつも憂鬱になるよな」

「……本当に鈍い」


 ますます呆れの色を深くした少女の反応にカズヤは肩を落とす。

 これ以上の立ち話は後ろから来る通行人の邪魔になる。何より、少女と自分に募る視線の量に耐えきれなくて歩き出した。

 カズヤが坂道に歩を進めると、すかさず少女が隣に並んだ。


「あの、今日は何で?」

「どういう意味ですか?」

「さっきの話からしていつも俺を見かけてたけど声はかけなかったのに、今日は何で一緒にって意味」

「それは、その。昨日からあなたと」


 少女は込み上げる物を堪えるように唇をきゅっと結ぶ。

 あなたと、で中断された言葉の先が気になるカズヤは少女の顔を覗き込む。

 しかし、少女は逃げるように顔を背けてしまった。


「昨日って、俺がフラれた話?」

「その後です」

「あー。俺が椎名さんと付き合ってるってヒっ!?」


 言いかけて背筋を走った悪寒にカズヤは震え上がる。

 今まで自分に注がれていた視線が刺すような鋭さが帯びた。気付けば、誰も彼も瞬きを忘れたような目でカズヤを凝視している。

 理解不能な視線の変化にカズヤが身を縮こまらせていると、後ろでカバンの落ちる音がした。

 カズヤはこれ以上何かあるのかと半泣きになりながら後ろへ向くと、そこには茫然自失とした様子で立ち尽くす葉桜海がいた。


「はっ葉桜さん!?」

「え、え……一昨日わたしに告白したのに、もう椎名さんと……へ、へーそうなんだあの告白って遊びだったんだあははだよねわたしにとっては告白されるのって人生初だったのに遊びかあははは」

「え、大丈夫?」


 葉桜海が引き攣った笑顔でひたすら独り言を吐きながらカズヤたちを追い越して先に行く。

 台風の過ぎ去った後のような静けさに見舞われて、隣の少女も困惑していた。


「矢番くん。最低ですね」

「何でよ。俺だって真剣の告白が遊びって誤解されて泣きそうだよ。追撃ダメージとかあんまりだろ」

「慰めましょうか?」

「俺の傷心とか慰めて楽しい?」

「楽しいと言うか、義務というか」

「義務?」


 また顔を背けられて、カズヤは心の中にあった少女の印象が崩れていくのを悟った。

 今までお互いについて話した機会も無いので偏見も甚だしいのだが、ただ黙々と勉強を頑張り、友達でもないのに行き詰まったカズヤにすら親切に教える人格者に見えていた。

 しかし、今朝の少女は到底自分には理解できない生き物となっている。

 葉桜海に誤解された事といい、これ以上はもう情報を脳が受け付けないとカズヤは口を噤んで前だけを見る。

 それから黙々と昇降口まで行き、一階に教室があるカズヤは階段を上っていく少女と小さく手を振って別れた。

 鈴月高校はネクタイの色で学年が区別され、少女の物はカズヤと同じ藍色――つまりは一年生だ。

 一年のクラスは六つあり、内三つが一階でそれ以外が二階の教室に振り分けられている。


「あの子は一組か二組か三組……ってことか」


 少女について何も知らないと自覚したばかりだが、また聞きそびれてしまった。

 それでもカズヤとしては、名前も知らず特に過干渉をしない今の関係が心地好く、その関係性があったからこそ昨日のように傷を恐れず胸裏を吐露できたのだ。

 今は知らなくていいか、とカズヤは辿り着いた教室の扉を開けて自分の席に向かう。

 すると、前の席を陣取ってニヤニヤした笑顔で待ち構える樹の姿を目にした。


「よう。乙女心を理解できないやつは朝から災難だね」

「乙女心? ……ああ」


 樹が何を言いたいのか理解したカズヤは椅子に腰を下ろしながらため息を吐く。


「俺の真剣な告白をお遊びだと思うような乙女心なんて分かるわけないっての」

「え?」

「え?」

「何の話してんだ?」

「樹こそ何の話してんだよ」


 樹とすら会話が噛み合わず、カズヤは今日人の心を理解する事そのものを諦めた。








 






 




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