第5章 逃避行の少女
1.浅川麻沙美と立花可奈
七月も半ばを過ぎ、全国的に梅雨が明けようとしていた。
この季節になると、学生たちの頭の中に真っ先に思い浮かぶのは夏休みのことだろう。
浅川麻沙美たちの通う浅川高校は前後期の二学期制を採用しており、期末テストは九月に行われるのだが、中間テストや期末テストとは別に、実力テストが七月の頭に実施されている。
今日はそのテスト結果が返される日だった。
クラスメイトたちは戻ってきた答案用紙に、皆、一喜一憂しているが、麻沙美には彼らのように、無意識に感情を表に出せるほど、気力も体力もなかった。
あるのはただ、蒼白な顔色と、虚ろな瞳だけ。
そこに、かつての清く逞しく、そして、あふれんばかりの勇ましい面影は微塵も感じられなかった。
麻沙美はあの一件以来、まるで別人のような、生気の抜けた表情をし続けていたのである。
元々、貴弘&朱里のコンビと絡むようなことさえなければ、彼女が大騒ぎすることなどほとんどなく、むしろ、今現在の彼女のような物静かな言動がスタンダードではあった。
しかし、それでも、今のような儚げな印象とは皆無の立ち位置にいたのが、浅川麻沙美という少女だった。
いついかなる時にも活力がみなぎっており、率先して全校生徒の手本となるべく行動していたのが彼女である。
祖父が理事長を務めているということも、彼女を彼女たらしめている理由の一つではあったが、根本的な原動力となっていたのは、極限まで高みを目指そうとする向上心だった。
しかし、今の彼女からはそのすべてが欠如していた。
麻沙美とは初対面の人間から見ても、一発で見抜けるほど、やつれ果てていたのである。
麻沙美はぼーっとしながら、返された答案用紙に視線を落とした。
学業もスポーツも常にトップクラスを維持していた彼女だったが、眼前にある英語の答案用紙には八十五点と書かれていた。
一般生徒から見れば十分高い部類に入るだろうが、生まれてこの方、九十五点以下になったことがない麻沙美からすれば、あってはならない悲惨な結果だった。
もし、この点数を祖父や父に見られたら、叱責されかねない。そういう次元の数字である。
「あっさみ~。どうだった~?」
明るくゆるっとした声を発しながら、肩に手を置いてきた少女が麻沙美の答案用紙を覗き込む。
麻沙美の小学校時代からの親友である立花可奈だった。
可奈はオタクで腐女子で百合で、更には幼児好きであることを別段隠すこともなく、良くも悪くも自分に素直に、欲望のままに突き進んでいる少女である。
彼女は顔も可愛い部類に入る少女で、通りすがりの男子たちの視線が釘付けになるぐらい、胸が大きいことでも知られている。
麻沙美と二人そろって、二年生の二大巨乳として男子たちの熱い視線を浴びる少女でもあった。
ただ、先に述べた通り、可奈は特殊な性癖の持ち主なため、フレンドリーに接してくる男子はいるものの、告白目的で近寄ってくるような強者は今のところ存在しなかった。
何しろ、成人男性に興味のない少女である。
当然、同級生の男子を恋愛対象としてみることはないのだから。
「ん~どれどれ? お、結構いい感じなんじゃない? まぁ、麻沙美からしたらいまいちだろうけど、でも、うん。頑張った頑張った」
可奈はニコニコしながら、「お疲れ様」と声をかけつつ、麻沙美の頭を撫でるようにする。
いかにも、麻沙美の現状を憂えて出た言動だと、誰しもが気づけるほどの慈愛に満ちた対応だった。
本来の麻沙美はそういった気遣いをとても嫌がるのだが、現在の彼女がそのような反応を見せることは全くなかった。
「そうですわね。頑張った方だと思いますわ。ですが、お爺さまになんと言われるか」
ぼそぼそっと発する声を聞いて、前の席に座っていた麻沙美の従兄弟である藤沢省吾が後ろを振り向いた。
「大丈夫なんじゃないか? 爺様もお前の今の状況をわかってくれているしな」
心的外傷後ストレス障害。通称PTSD。
麻沙美が今現在、患っている病気の名前だった。
原因は言わずもがな、四月の始業式の日に起こった貴弘との一件にある。
一時期、麻沙美はかなり危険な状態にあり、貴弘が死んだのは自分のせいだと酷く自分を責め立て、自ら、彼の後を追おうと自殺未遂を起こしたこともあった。
幸いにして、何が起こっても大丈夫なようにと、万全の体制を整えていた麻沙美の祖父、浅川重蔵らの働きかけにより、取り返しのつかない事態になることはなかったが、四月の約一ヶ月間は自宅療養を余儀なくされた。
当然、貴弘の葬儀に出られる状態ではなく、それが麻沙美の心を更に暗くさせた。
なまじ常日頃から真面目すぎるぐらい真面目に生きてきた女の子だったから、今回の一件は余計に自分が許せなかったのだ。
(私なんて、生きている価値のない愚かな人間ですわ。もし、あの人にもう一度会えるのであれば、私は、喜んでこの命を捧げます。いえ、そうではありませんわ。もしも、もしもあの方が生き返るのであれば、私はたとえ相手が悪魔であったとしても、喜んでこの身のすべてを差し出しますわ……)
仄暗い光を瞳に宿す麻沙美の顔から、より一層生気が失われていった。
そこには、かつて存在した自信にみなぎった美しい相貌はどこにも見られなかった。
あるのはただ、妄執に取り憑かれた痛々しい姿、それだけである。
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