2.崩壊への階
七月上旬に入り、夏を待ちきれないと言わんばかりに、せっかちな
目がぐるんぐるん回っているエリには、そうとしか思えないような耳障りな鳴き声だった。
日もすっかり西日となっており、もうじき日も暮れそうな、そんな時分である。
勉強を終えたエリは、自室の丸テーブルで
今朝方、朱里の着せ替え人形にされた時、ついでに彼女にセットしてもらったゆるふわツインテールが宙を舞う。
「お行儀が悪いですよ、お嬢様」
「……だって仕方がないだろう。毎日毎日、健康診断と勉強の繰り返し。しかも、極めつけはマナー教室だぞ?
エリが口汚く言うクソばばぁとは、朱里を含めたこの屋敷のメイドたちを束ねるメイド長の
この屋敷には彼女と朱里以外にメイドが三人おり、他のメイドは緩い性格をしているにもかかわらず、
エリが貴弘だった頃から彼女の厳しさは徹底されており、少しでも所作が悪いと、即、叱責されたものだ。
それがたとえ雇い主の子女子息であろうと関係ない。
容赦なく彼女の手にする鞭が床に炸裂した。
咲良井はまだ三十八歳という若さだが、あそこまで頭が固いと、実年齢より歳を食っているのではないかと錯覚させる。
「やれ言葉遣いが悪い。歩き方や言動が汚いとか、余計なお世話だっつうの。こちとら元男なんだぞ? いきなり女みたいに振る舞えとか、無理に決まってるだろうが」
このマナー教室は
テーブルマナーに関しては、お家の事情で元々叩き込まれていたから、そこまで酷いことにはならなかったが、それ以外の所作はどうしようもなかった。
特に言葉遣いだけは勘弁して欲しい。
女言葉で話すとか、自分でやっていて鳥肌が立ってくる。
いっそのこと、「オレは貴弘だ」と言ってやりたいところだったが、そんなことを言えば頭のおかしな子だと思われ、余計に叱られるのは目に見えていたから言うに言えなかったのだ。
「もう面倒くさいから、オレはトランスジェンダーみたいなものだから無理って言おうかな」
エリはベッドの上で左右にぐるぐる回転しながら、投げやりに呟いた。
それを聞いた朱里が音もなく忍び寄ってくると、エリの頬をつねった。
「ひてっ。にゃにすんにゃよ!」
言葉にならない文句を返すが、朱里は意に介さない。
「しっかりしてください。お嬢様は将来、
静かに離れる朱里に、エリは上半身を起こして口を尖らせる。
「何が早瀬川家だよ。第一、今のオレは親父と血の繋がりがまったくない赤の他人だぞ? そんなオレを跡取りにするとかあり得ないだろう。しかも女だし。もし仮にそんなオレでもいいってんなら、正真正銘の娘である姉貴の方がふさわしいだろうが」
元々エリは父親が経営する会社の跡継ぎになることに対して、かなり懐疑的な見方をしていた。
息子だから家を継がなければいけない、長男だから親の面倒を見なければいけないというのは昔の日本であれば当たり前だったのかもしれなが、しかし、今は時代が違う。
別に会社なんて誰が継いだっていいはずだ。
世間一般では、皆そうしているだろう。
第一、父親がいくら親族経営したがっていたとしても、トップの座を狙っている者たちが何人もいるはずだ。
父親の会社はあまりにも多くの人間が関わりすぎている巨大企業だ。
当然、なんの経験も力もないエリを突然次期後継者に指名して、会社に入社後すぐに経営のノウハウを教え込んだとしても、野心家たちが黙認するはずがないだろう。
一応、逆らうとうるさいので父の意向通りにこれまで勉学に励んできたが、エリ自身はもっと自分の思う通りに生きてみたいと思っていた。
これまでの人生、あまりいい目を見ていないし、このまま操り人形になどなりたくなかった。
そういったわけで、面白くなさそうに吐き捨てたエリだったが、それを努めて冷静に朱里が否定する。
「お嬢様もおわかりかと思われますが、
「あのさ。オレだって施設から引き取られたことになってるんだが?」
「それでもです。お嬢様の中に誰がいるのか、旦那様もご存じですから」
「ちっ……」
軽く舌打ちしたあとで、エリは「そう言えば」と思い出す。
「そういや、親父、最近こっちに顔出したとか聞いたんだけど?」
「えぇ、なんでも数日後に新商品発表のためのレセプションパーティーを開催されるそうです。それで一度、お顔をお見せになられてますね」
「朱里は親父と会ったのか? オレ、会ってないんだけど?」
「きっと、お忙しかったのだと思われます。何しろ、こちらに立ち寄ったのは夜遅くで、その時間には既に、お嬢様はお休みになられてましたから」
それを聞いて、エリはぶそっとした。
自分の息子があんな死に方をして、更に、今こうしておかしなことになっているのだ。
ちょっとぐらい心配して様子を見にきてくれたっていいのではないかとエリは思った。
勿論、父親は息子の身に起きたことを知っている数少ない人間の一人だから、わざわざ心配したり会いに来たりする必要がないのかもしれないが。
何しろ、ラファエラとは知己らしいから。
もしかしたら、今回の魂移送を指示した張本人かもしれないとすら思えた。
いくら知り合いだからといって、父親に内緒で勝手に魂を移すはずないからだ。
で、あるならば、だ。
余計に会いにくる責任があるというものだ。
しかも、今はこんな姿になってしまってはいるが、父親にとっては大切な一人息子のはずなのだから。
そういったわけで、エリは自分の置かれた現状が色々な意味で不愉快だった。
ちなみにだが、エリが貴弘だと知っているのはラファエラや梓乃たち特殊な立場の人間を除いては、父親や執事の
噂によると、姉の麻里奈も小耳に挟んでいて、
「なぁ、朱里。十五時以降は一応、自由時間なんだよな?」
「厳密に言えば、お嬢様に自由などありませんよ?」
「なんでだよっ」
さも当たり前のように言ってのける酷い妹に、エリは頬を膨らませた。
「もう勉強の時間もマナーの訓練も終わってるし、あとは何やってもいいんじゃないのか?」
「確かにそうですが、お嬢様には決定的に時間が足りておりません。一応、十月までに一人前の淑女になっていただく必要がありますので。ですが、現在の習得状況から察するに、とてもではありませんが期限内には間に合いません。もう少し積極的に咲良井さんの教えを学んでいただき、それを吸収していただければ可能かもしれませんが」
「嫌だよ。あの人、容赦ないから疲れるんだよ。それに、女言葉でしゃべるとか反吐が出るし。しかも、今後はダンスやピアノとかもやるとか言ってなかったか? 冗談だよな、あれ」
「残念ながら冗談ではありません。すべて事実です。旦那様から、下半期が始まるまでにおてんば姫の汚名を返上し、人前に出ても恥ずかしくない女性に仕上げるようにと、指示されております」
「はぁっ? あの鬼のような咲良井のばばぁの態度は全部、親父の差し金かよっ。てか、下半期に何があるんだ!?」
「さぁ? 早瀬川家の次期党首として、周りの方々に紹介されるのではないでしょうか?」
「……アホかよ……ぁ~……めんどくせぇ」
エリは深く溜息を吐いて、再びベッドに仰向けに転がる。朱里も別の意味を込めたような溜息を吐いてから、口を開いた。
「ともかくです。そんなわけですから、お茶の時間が終わったあとは夕食まで休憩していただき、入浴後、再び本日の復習と明日の予習を行っていただきます」
死刑宣告を言い渡す朱里に、エリはげっそりした。
「……なんでこうなったんだろうなぁ? ちょっと前までは普通に自由を
元々エリは、貴弘だった頃からゲームで遊ぶ時間は一日二時間と制限されていたから、正確に言えば、すべてが自由だったというわけではない。
しかし、制限されていたのはそれだけで、他の趣味に関しては放任されていたから、ある程度の自由は約束されていたのだ。しかし、今はそれすら許されない。
「あ~……久しぶりにゲームやりたい……」
ぼそっと独り言を呟くエリに、朱里は一瞬考える仕草を見せたが、やおら、手をポンッと叩いた。
「ゲームでしたら、そう言えば、いくつかありますね」
朱里の告白に、エリはガバッと上体を起こした。
「ホントか!? 今すぐ出せ! 携帯ゲームじゃないぞ? ちゃんとしたゲーム機のやつだぞ?」
「えぇ、ありますよ。少しお待ちください」
彼女はそう言って自室へ向かうと、しばらくしてから戻ってきて紙袋を手渡してくる。
エリは狂喜乱舞した。
「あるならあるって最初から言えよっ。RPGか? FPSか?」
エリは紙袋をガサガサあさり――そして、動きが止まった。
そのまま、震えながら一本のゲームソフトを取り出して愕然とする。
「お、おい。これってまさか……」
「はい、いわゆる乙女ゲーというものですね」
「あほか~っ。なんで乙女ゲーだよ! 男のオレが、なんでそんなもん、やらなきゃいけないんだよっ。オレに逆ハーレムでも作れとでも言うのかよっ」
「いいではありませんか。今は女の子ですし」
「いいわけあるかっ。てか、なんでお前こんなもん、持ってんだよっ」
「以前、
エリは立花という名前を聞いて天を仰いだ。
天敵である
麻沙美とは性格も真逆で、しかも、浅川家と違って立花家は金持ちの家柄というわけでもない。
金持ち御用達の学校に通うぐらいだから、比較的裕福な家庭なのは間違いないが、それでも、他の生徒たちに比べたら普通の家の女子である。
そんな彼女が、なぜか麻沙美とは馬が合うらしい。
しかし、この女子生徒には一つ問題があって、それが有り体に言えば、オタク女子ということだった。
別にオタクが悪いというわけではい。
かくいうエリも、朱里から見たら十分オタクだったから、エリ自らがそれを否定することなどできはしない。
墓穴を掘ることに繋がるからだ。
しかし、それでもである。
そんな彼女ですらも、『ヤバい子』と思ってしまうほどには、立花可奈という少女のオタク道は次元を超えていたのだ。
ゲームや漫画は勿論だが、BL、百合物も大好物だし、おまけに、可愛い物ならなんでもかんでも
たとえそれが幼い男の子、女の子であったとしても関係なく。
ゆえに、もし彼女が今のエリの姿を見たら、きっと、目の色を変えて捕獲しにかかるだろう。
その光景を想像して、エリはぞっとした。
もし彼女に捕まったら何をされるかわかったものではない。
ハグや頬ずり程度ならまだいいが、可愛いものに目がない彼女のことである。
犯罪行為にすら手を染めかねない。
エリは疲れ果てて、手にしたゲームソフトを袋に戻すと、朱里に返した。
「はぁ……期待したオレがバカだったよ……なんかもう、色々うんざりだわ……すべてがどうでもよくなってきたよ……」
すっかり
彼女は、心の奥底で何かが崩壊していくような、そんな気がした。
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