3.急変する容態




「……ぃゃ~、今日もいい天気だねぇ……というわけで朱里。教室に行こうか」

「何をおっしゃっているのですか。早く帰りますよ」

「ちょ……」



 目の前の少女たちが最初から存在していなかったかのように問答無用で歩き出す朱里に、貴弘は半ば強引に引きずられる形となった。


 自分たちを避けて歩き出す二人に、一瞬呆然ぼうぜんとしていた黒髪の少女だったが、すぐに我に返ると、慌てて貴弘の肩へと手を伸ばした。



「ちょっと! どうして無視するんですのっ? それに、あなたのその格好はなんなんですのっ。どうして朱里に抱きついて歩いているんですのっ?」



 肩を掴まれ、動きを封じられた貴弘は溜息ためいきを吐いた。



「別に好きでこんな状態になっているわけじゃない。教室に着いたらお前たちの気に障らないように――席替えの時間まで大人しく寝ててやるよ……それでいいだろう?」



 うんざりして冷たく言い放つ貴弘に、少女の目尻がつり上がる。



「な、な、な……なんなんですの、その言い草は! せっかく心配して声をかけてさしあげましたのに!」

「は? ……心配? 嘘だろう……? あれは単にいちゃもんつけてきただけじゃないか」



 顔を真っ赤にしていきり立つ少女にげんなりしていると、朱里を含めたその場の生徒たちが一斉に溜息を吐いた。



「お前ら本当に相変わらずだな――おい、麻沙美あさみ。そんな奴に構うな。さっさと教室に行くぞ」

「何をおっしゃっていますのっ? このまま放置しろとでもおっしゃるおつもりですの、あなたは!?」

「あ~、いいから、さっさと行くぞ」



 がっしりとした体格の少年が、麻沙美と呼ばれた黒髪少女の腕を掴んで無理やり歩かせようとする。


 それにならって周囲の生徒たちも一度、貴弘と朱里に一瞥いちべつをくれたあとで歩き出す。


 これですべて、事が丸く収まるかに思われたが、引きずられていった黒髪少女が急制動をかけた。



「いい加減にしてくださいまし!」



 彼女は掴まれていた右腕を強引に振り払うと、ずかずかと貴弘の元へと舞い戻ってくる。明らかに怒り狂っていた。

 廊下をきしませる勢いで歩いてくる少女の姿を見て、貴弘はげっそりする。



「……あのバカ……火に油注いでどうすんだ……」



 ただでさえ調子が悪いのに、騒動に巻き込まれて意識すら霞んでくる。

 しかし、貴弘の前まできた少女はそんなことなどお構いなしに、彼の胸ぐらを掴んだ。



「今日という今日はもう、許しませんわ! 日頃からどれだけ私が気を揉んでいるか、あなたはわかっておりますのっ?」

「お、おい、落ち着け……」



 朦朧もうろうとする意識を振り払いながら抗議するも、少女の耳にはまったく入らなかった。

 彼女の怒りの矛先が、貴弘を支えていた朱里へと移る。



「朱里、あなたもですわ! 専属メイドだかなんだか知りませんが、ここは学校であり、あなたはこの男の義理とはいえ、妹ですのよ? それなのに、あなたがそうやってわけのわからないメイドだのなんだのと持ち出して甘やかすから、この男はつけあがるのです! あなたもこの栄誉ある浅川高校の生徒であるならば、そのような立場など捨て、一生徒として学校へ通うべきですわ」



 睨み付けてくる少女へ、朱里の方も冷たい視線を向けた。



「私はただのメイドであり、それ以上でも以下でもございません。私がこの学校へ通っているのはひとえに、貴弘様のお世話をするためですから。ですので、浅川さん。私たちのことはそっとしておいてください」



 ぷいっとそっぽを向く朱里に、口をわなつかせて、黒髪少女こと浅川麻沙美あさかわあさみは勢いよく貴弘へと向き直った。

 そして、唇が触れそうなぐらい顔を近づける。



「あなた! 自分の妹に何をさせているのかわかっていますのっ? もう我慢なりませんわ! ちょっと、こっちにいらっしゃい! 始業式の前に、お説教してさしあげますわ!」



 言うが早いか、麻沙美は貴弘の胸ぐらを掴んだまま、強引に引っ張って歩こうとする。


 しかし、朱里に支えられてかろうじて立っていただけの貴弘にとっては、その行動はあまりにも危険だった。


 不意を突かれて貴弘を支え損なった朱里が、「あっ……」と短く声を上げると同時に、貴弘の全体重を支える形となった麻沙美がバランスを崩す。


 そのまま二人、音を立てて床に転がってしまった。



「ちょ、ちょっと! 何してらっしゃいますのっ」



 横座りの状態のまま、打ち付けた左手を痛そうにさする麻沙美だったが、それに応える者は誰もいなかった。

 彼女同様、廊下に投げ出されて全身を強打した貴弘は、それどころではなかったのだ。



「なん……だ、これは……」



 身体を床にぶつけた衝撃と痛みが全身に駆け巡ってもおかしくない状況だったのに、それがまったく訪れなかった。

 否、そればかりか、身体の感覚がまったくなかったのだ。


 仰向けに倒れる形となった彼の視線の先にある天井が、歪んで見えた。

 起床時に感じた目眩めまいの比ではない。


 蛍光灯が複数に増殖し、次第にぐにゃぐにゃに変形していく。


 視界もどんどん狭まっていき、血相を変えて駆け寄ってきた朱里が何事か叫んでいる声すら耳に入ってこない。


 明らかに様子のおかしい二人に気づき、周囲にいた者たちも遠巻きながらに近寄ってくる。


 その中には先程まで床にうずくまっていた麻沙美の姿もあった。

 彼女は両手で口元を覆い、動揺に瞳を目一杯見開いていた。

 体中を小刻みに震わせ、今にも倒れてしまいそうだった。


 そんな彼女を数名の女子生徒が支えているが、焦点が合わなくなり始めていた貴弘にはそれすらも判別しにくくなっていた。



(あぁ……そうか……)



 貴弘は薄れる意識の中、本能的に感じ取っていた。



(はは……やっぱりこれって……)



 ――死にかけているんだな、と。


 そうして、泣き叫びながら懸命に自分を介抱しようとしている朱里へと、最期に視線を投げ、一言、「すまない」と告げた。


 薄れる意識の中、貴弘は周囲に浮遊する白いもやのようなものを視界に捉えた。


 人魂ひとだまのような、幽鬼のようなそれ。

 物心ついた頃から時折見かける幻妖。

 それらが「うふふ。こっちおいで」と、不気味な笑みを浮かべているような気がした。



(……遂に死神が迎えに来たか……)



 それだけを認識し、彼は永遠に意識をロストさせた。



「貴弘様! 目をお開けください、貴弘様ぁ!」



 いつまでもそう叫び続ける朱里。

 呆然とする麻沙美と周囲の生徒たち。



 ――新学期初日はこうして、始業式を執り行うこともなく、臨時休校という形で幕を閉じた。



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