4.豹変(朱里視点)




「お嬢様、もう誰もおりませんのでご安心ください」

「う、うん……」



 エリはやや怯えたような素振りを見せたまま、上目遣いに顔だけを上げ、周囲へと視線を彷徨さまよわせた。

 そして、自分たち以外誰もいないことを再確認して、少しだけ安堵あんどしたように溜息を吐いた。



「……なんだか今日はつかれちゃった……少し、眠るね」

「……はい」



 朱里はベッドに横になるエリに、夏用の薄い布団を掛けた。そして、定位置に戻ろうとしたところで、腕を掴まれる。



「お嬢様……?」

「お願い、側にいて。なんだか嫌な予感がして、すごく落ち着かなくて、怖いの」



 エリは潤んだ瞳を向けながら、思いのほか、強い力で、ぐいっと朱里の腕を引っ張った。



「少しの間だけでいいの。私が寝付くまでの間だけでも、側にいて。できれば、その、添い寝してくれると嬉しいのだけれど」



 そう訴えかけてくるエリに、朱里は言葉を詰まらせる。

 エリに言われるまでもなく、片時も側を離れたくないというのが、彼女の本心だった。

 メイドとして一定の距離を保って側にいるのではなくて、文字通り、寄り添って支えてあげたい。

 そうすれば、早く記憶を取り戻してくれるのではないかと、そう思うから。


 しかし、それは自分の知らないエリのことを、常に至近距離で見ていなければならないということを意味していた。


 朱里にはそれが辛いのだ。

 自分の知らない言動しか見せない彼女の姿を見る度に、もう、あの人はこの世から完全にいなくなってしまったのではないかと強迫観念にかられてしまう。


 もし、このままずっと記憶が戻らなかったら。

 もし、本当にそのようなことになったら、果たして自分は耐えられるのだろうか。


 そういった無意識に近い感情が、朱里を葛藤させていた。



(ですが、このようなお姿のお嬢様をむげにすることなど、私にはできない)



 朱里は散々ためらったあと、深く深呼吸をした。



「わかりました。それでお嬢様のご気分が晴れるなら、お安いご用です」



 一礼する朱里の答えに、エリは恥じらったように薄く微笑む。



「そ、そう。よかった。これで安心して寝られる」



 そう言って、エリは少し窓側へと身体を移動させる。


 それを確認し、朱里は屋内用のハイヒールパンプスを脱いでから、「失礼します」と断りを入れ、ベッドに潜り込んだ。


 お気に入りのメイド服がしわになりはしないかと気になったが、すぐにその感情は打ち消される。

 居住まいを正した途端、エリが朱里の右肩に頭を乗せ、そのまま抱き枕にしてきたからだ。



「お、お嬢様?」



 これにはさすがに朱里も慌てた。

 まさか、ハグされるとは思っても見なかったからだ。


 傍目からは、年端もいかない小さな女の子が姉に甘えているようにしか見えないが、そういった経験がまったくない朱里には、どうしていいかわからなかった。



「お願い。このままでいて。こうしていると、安心するの。今は、誰かの温もりを感じていたい」



 エリの発言を裏付けるかのように、彼女は微かに震えているような気がする。


 夏の熱気を払うためにかけられているエアコンが効きすぎているということでもないだろう。

 おそらく、色々なことに不安を覚えて、無意識の内に出た反応なのだろう。


 朱里はそう自分を納得させ、腕枕したままエリの方へ身体を傾けると、遠慮がちに背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめてあげた。

 そのまま、背中をさするようにする。


 朱里はそのまま、自分の両親のことを考えた。


 今はもうこの世にいない母親も、自身が幼かった頃はこうして、抱きしめてくれたのだろうか。

 物心ついた頃には既に孤児院で過ごしていたから、親の顔も思い出も、何も思い出せないが、そうであったら嬉しい。


 そんなことを考えていたら、胸の中がなんだか温かくなり、こういうのもたまにはいいものだと、優しい気持ちになった。

 しかし、そんな時だった。



「……らない」



 胸の中のエリが、何か呟いた気がした。



「……どうかされましたか?」



 怪訝に思い、眉間に皺を寄せる朱里だったが、そんな彼女に何を思ったのか。

 エリの腕に更に力がかかり、ぎゅーっと抱きしめられてしまった。

 更に、吐息まで荒くなり始めた。



「……朱里ちゃんって、ホントに可愛い。すごくいい匂いがするわ」

「お、お嬢様? い、いったい何を……」



 慌てて身をよじり、包囲から逃れようとしたが、逆に物凄い力で組み敷かれてしまった。

 朱里は、その時のエリの顔を見てぎょっとした。

 笑っていた。

 ニヤニヤと嫌らしく、今にもよだれを垂らしかねないような緩みきった笑顔だった。



、これ以上もう我慢できないわ。いいよね? いいわよね? だって、朱里ちゃんとっても可愛いもん。あ、勿論、あたしもメチャクチャ可愛いけどね? だって、だからあたし、この身体気に入ったんだし」



「うふっ」と笑ったあとで、しまったという顔をし、舌を出すエリだった。


 朱里はあまりの豹変ひょうへんぶりに言葉を失いかけたが、すぐさま本能的に危険を察知し、我に返った。

 そして、あることに気がつき、愕然となる。



「あなたは……誰ですか? お嬢様は……お嬢様はどうされたのですかっ?」


「あは、やば。ちょっと本音がダダ漏れになっちゃった。ねぇ、そんなことより、いいでしょ? あたしもう我慢できないの。今すぐ、全部食べちゃいたい。だって、朱里ちゃん、ホントに可愛いし、あたし好みなんだもん。もうこれ以上、自分を抑えられないわ。それに、朱里ちゃんだって、あたしのことが大好きでしょ? だから、あいつらが戻ってくる前に、二人っきりで愛し合いましょう」



 そう言ってキスしてこようとするエリを、慌てて朱里は押し戻す。



「な、何をなさるのですか! おやめください!」

「大ジョブ、大ジョブ。気持ちいいことした上に、ちょ~っとだけ、霊力もらうだけだから」

「あなたが何を言っているのか、さっぱりわかりません! あなたはなんなのですか? お嬢様をどうされたのですか! 答えてください!」



 焦り、いら立ち、悲しみ、憤り。


 様々な感情が混ざり合ったかのような複雑な表情を浮かべながら懸命に抵抗したが、無駄だった。


 本来のエリではあり得ないぐらいの力で両肩を押さえ込まれている。

 このままでは本当に、わけもわからぬまま、色々な意味でエリに食べられてしまうだろう。



「おやめくださいと申しているのです、お嬢様!」



 一際大きな声で朱里が叫んだ時だった。

 突如、おかしな気配が周囲に沸き起こり、ガバッと跳ね起きたエリがそそくさと逃げようとする。

 その瞬間、ベッドの周囲にまばゆい光が迸った。


 朱里はあまりの眩しさに目を開けていられず、しばらくの間、まぶたを閉じていた。

 しかし、扉が開く音が聞こえてきたため、ゆっくりと目を見開いていく。



「――もう少し本性を隠していると思ったのだが、予想外に早かったな」



 ラファエラだった。

 彼女は渋い顔をしながら、梓乃しのと一緒に室内に入ってきていた。


 自身の上からエリがいなくなったことで自由を取り戻した朱里は、ゆっくりと上体を起こして呆然となる。

 周囲に異様な光景が展開されていたからだ。


 ベッドを取り囲むように広がる巨大な光のおり

 鳥かごとでも言えばよかろうか。

 それが、自分とエリの二人を閉じ込めていたのである。



「いったい何が……」



 朱里に出せた言葉はそれだけだった。



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