3.変わってしまった主(朱里視点)
――一週間後。
エリの身体になんらかの異変が起こることもなく、いたって平穏無事な毎日が繰り返されていた。
エリや
そんな昼時のこと。
最近では毎日の日課となっている精密検査を終え、自室に戻ってきていたエリは、部屋に運び込まれていた昼食を自ら率先して朱里に食べさせてもらっていた。
本来の彼女であれば、色々難癖つけて一度は拒否するのだが、それらしい気配は
「あの……朱里ちゃん。お願いがあるんだけど……」
昼食を終えたエリは、食器を片付けている朱里にベッドの上から声をかけた。
エリは検査の結果、急性ストレス障害が原因による一時的な記憶喪失と診断されており、それ以外は肉体も魂も問題ないと判断されていた。
そのため、ベッドの上で安静にしていなければならないというわけではなかったのだが、エリ自身がベッドの上の人でいることを望んでいた。
そういった理由から、昼食もそこで摂っていた。
「なんでしょうか? お嬢様」
目を覚ましてから、エリは朱里のことをちゃん付けで呼ぶようになっていた。
朱里はそのことに多少の違和感を覚えたが、今のエリでは仕方がないと割り切っていた。
何しろ、記憶がないのだから。
「うん。えぇっとね、携帯電話ある? ちょっと、ネットでファッション情報調べたいんだけど」
「……えっ?」
朱里は普段通り、表面上は沈着冷静に振る舞っていたのだが、さすがに今の発言には面食らってしまった。
エリが――もっと言えば、
普段から部屋着はジャージだったり、Tシャツにジーンズだったりと、ラフな格好を好み、エリになってからも朱里が用意する衣服をことごとく拒否したものだ。
そんなエリが、いくら記憶がないからと言ってファッションを気にするなどと。
これではまるっきり別人格だった。
(記憶喪失とは、こういうものなのでしょうか……?)
嫌でも目の前にいる少女が自分の知らない人間に思えてきて、暗い気持ちとなる。
ただでさえ、見た目が貴弘とは似ても似つかない可愛らしい女の子なのに、中身まで別人となってしまったら、この少女はもう、自分の主人でも兄でも家族でもない。
完全に赤の他人だった。
元々、朱里は貴弘のことを兄だと思ったことは一度もないが、本当の家族のように、そして、唯一付き従う主だと思って接してきた。
しかし、その大切な主を失って、エリという少女になってしまったものの、中身が貴弘だからと言い聞かせてなんとか今まで現状を受け入れてやってきたのだ。
それなのに、それすらなくなってしまったら、いったい何を支えに生きていけばいいというのか。
朱里は心の奥底から湧き上がってくる悲しみを懸命に堪えながら、鏡台の上に置かれていた携帯電話をエリに渡した。
「ありがとう……」
それを、通路に控えていた別のメイドが運んでいく。
本来であれば朱里がそのままキッチンまで運んでいくのだが、今は朱里も、部屋の中でエリを護衛する役目を負っているため、このような対応が取られていた。
部屋に戻った朱里は、扉の横で直立不動の姿勢を取った。いつもの待機場所である。
室内には朱里以外にも、
一人は扉から見て右隅、一人は左隅と、両サイドを固めるように護衛していた。
二人の内、右隅の女性はエリのベッドから近い位置にいるため、結果的に外敵のみならず、エリそのものも監視するような役目を負っている。
このような状況だ。
エリが本来の状態ではないということもあり、何が起こってもいいようにと、右隅の女性は
聞くところによると刃はついておらず、形式上は模造刀ということになっているらしい。
しかし、彼女たちがそんなものをこけおどしのために所持しているはずもなく、実際の戦闘となった場合には刀身部分に霊気を流し込んで神霊と戦うらしい。
もう一人の女性も一応、武装はしているが、手にしているのは杖である。
文字通り、足腰の悪い人やウォーキングなどで使用されるものだ。
戦闘時はこれで殴ったり、杖に流し込んだ霊力を弾丸のように飛ばしたりして戦うようだが、二人とも神霊憑きである以上、普段は宿主の人間が表面に出ている。
つまり、二人とも普通ではないが人間である。
そんな彼女たちが神霊と共に敵と戦うというのは、どういう心境なのだろうか。
本来はただの研究者、ただの科学者だったろう人間が神霊と結びつき、その結果、不可解な存在と戦闘せざるを得ない状況に陥っている。
嫌ではないのだろうか。
朱里は疑問に思うも、深く詮索するのはやめにした。
自分自身も彼女たちに負けず劣らず、おかしな立ち位置にいることを思い出したからだ。
里親に拾ってもらったかと思ったら、義理の兄となった少年の守護メイドなどという立場に収まっているわけで、赤の他人から見たらやはり、眉根を寄せる状況に変わりないのだ。
そのことをよく、クラスメイトの
今となっては遠い昔のように感じられ、酷く懐かしい気持ちになる。
朱里はふと、ベッドの上のエリを見た。
彼女は上半身を起こして携帯電話と睨めっこしている。
その顔があまりにも真剣そのもので、その姿がなんとなく、自分の知っているエリに似ているような気がした。
そのため、一瞬記憶が戻ったのではないかと淡い期待を抱いたのだが、すぐにその思いは儚く打ち砕かれた。
視線の先のエリは携帯電話の画面を見ながらも、すぐ側の女性に何度も
彼女はその知らない表情を浮かべるエリに、複雑な気持ちのまま近寄っていく。
「お呼びでしょうか?」
「うん……あの……私、怖くて」
そう言って、横目でチラチラと神霊憑きの女性を見た。
「怖くて怖くてたまらないの……。ただでさえ、自分が何者なのか、どういう状況に置かれているのかわからなくて不安なのに、あんなものを持っている人が側にいたら……私、怖くて怖くて……」
朱里の目に映る小さな女の子は、本気で怯えていた。
時折、身体を小さく震わせ、今にも泣いてしまいそうだった。
このままにしておくのはあまりにもかわいそうな気がする。
何より、これが原因でエリの記憶が二度と戻らなかったら、目も当てられない。
「お嬢様。どうされたいですか?」
「……少しの間だけでいいの。朱里ちゃんと私の二人だけにさせて欲しい。あなたがいれば、護衛は十分でしょう?」
二人の会話を聞いていたのか、朱里と目のあった神霊憑きの女性は
しかし、エリは更に怯えたように朱里の左手を両手で握りしめると、自身の頬へと持って行き、背中を丸めてしまう。
朱里はしばらく困惑していたが、諦めたかのように側の女性を見た。
「申し訳ありませんが、お嬢様が怯えておられます。三十分ほどで結構ですので、席を外していただけないでしょうか?」
「ラファエラ様からきつく申しつかっております。この場を離れるわけには参りません」
「ですが、その影響でお嬢様の身に何かあったら、どう責任取られるおつもりですか? 私もそうですが、
どこか冷たく言い放つ朱里の剣幕に気圧されたのか、それとも早瀬川家の名を出されたのが嫌だったのか、神霊憑きの女性は逡巡した素振りを見せた。
朱里やエリの父である早瀬川家当主は、様々な団体に寄付をしていることでも有名である。
ひょっとしたら、その一つにラファエラの研究所があるのかもしれない。
何やら、昔から繋がりがあるという話であったから。
ともかく、朱里は続ける。
「十分でも構わないのです。とりあえず、お嬢様のお気持ちが落ち着くまでの時間をいただけないでしょうか? ラファエラ様にご確認いただいても構いませんので」
「……わかりました。少しの間、席を外します。ラファエラ様と、エリ様のことについて話して参りますので、くれぐれも、警戒怠りませんように」
神霊憑きの女性は迷ったあげく、そう言って二人とも部屋を出て行った。
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