2.エリの変化の真相(梓乃視点)




 室内に取り残された梓乃は思いっきり舌打ちしたあと、すぐに気分を切り替えると、椅子に座って小さくなっている朱里の肩に手を置いた。



「大丈夫よ、朱里ちゃん。ラファエラが妙なことを言っていたけれど、エリちゃんは無事だと思うわ。単純に、ストレスが原因で一時的な記憶喪失になっているだけだから。その内、何かしらのきっかけさえあれば、思い出すと思うわ」



 梓乃は朱里を慰めるためにそういったが、自分で口にしておいて、なんと曖昧あいまいな台詞だろうと内心、鼻で笑っていた。


 彼女自身、なんとなくわかっていたからだ。

 今のエリがただの記憶喪失などではないだろう、ということが。


 エリは見た目はとても可愛らしい女の子だが、中身は貴弘である。

 そして、数日前の家出直前まで、エリはそのほとんどを男言葉で話していたのだ。


 マナー教室のおかげである程度は丁寧語や女性的な言葉で話すようになっていたものの、彼女はすぐに集中力を切らし、本来の粗野な口調に戻っていたのだ。


 そんなエリが記憶喪失になっただけで、言葉遣いや仕草までもが女性的になるはずがない。


 もっと言えば、記憶喪失になったとしても、のだ。


 もし仮に、男として生きてきたことすら忘れて女となってしまった場合、それは記憶喪失などではなく、貴弘という人格が死んだことを意味する。

 そう。魂の初期化だ。


 専門家であるラファエラではないから、梓乃にわかることは少ないが、数日前に渡された資料の中に受動体じゅどうたいに関する記述も載っており、それによると、人の性というのは肉体に魂が宿ったとき、ようにできているらしい。


 つまり、魂の性別――で、するということだ。


 しかし、希に受動体の機能が低下していることがあり、そういった場合に性の多様性が発生するそうだ。


 いわゆる、肉体に合わせた魂の初期化――オーバーライドの失敗である。

 もし初期化が失敗してしまうと、肉体の性別とは違った性別に初期化されたり、あるいは一切、性の初期化が行われなかったりしてしまう。


 エリ=貴弘の場合もそれに当てはまる。

 エリの受動体が壊れていたから、男として生きてきた魂の記憶がリセットされず、魂の移し替えが行われたあともエリは自身が男であると――貴弘であると認識できたわけだ。


 そういった魂と肉体の仕組みがある以上、本来であれば、記憶喪失になったとしても男として作られた魂である限り、人格も男であるはずだった。


 それなのに、エリは今、女の子になっている。嫌でも最悪の事態を想定してしまう。



(考えられる可能性として挙げられるのは二つだけ。一つはなんらかの理由で魂や受動体が異常を来し、すべてが消去されてしまったというパターン。だけれど、この場合、魂が初期化されていることを意味するから、赤ん坊の状態に戻っていなければならないのに、実際には)



 オーバーライドされた場合は、赤子に魂が宿ったときと同じ状態になるため、現在のエリのように、ただの記憶喪失のような状態にはならない。



(となると残る可能性は一つしかない)



 エリを救出してから感じてきた違和感。

 人ならざる何かの気配。

 ラファエラではないが、確かに未だ、それを感じている。

 一方でエリの気配はますます小さくなっていた。

 目を覚ましたのにもかかわらずだ。

 それが意味するところは一つしかない。



(彼女の中には何かがいる)



 このままいけば、エリという少女は、得体の知れない何かに喰い殺されてしまうだろう。


 当然のことながら、その事実を朱里に教えることはできない。そんなことをすれば、落ち込んでいる彼女が何をしでかすかわからないからだ。


 貴弘の魂が消えかかっているなどと口を滑らせようものなら、あるいは、完全に消えてなくなり、別の存在になってしまったなどと言えば、彼女は間違いなく、半狂乱となり自ら命を絶つだろう。


 梓乃は努めて冷静に、そして、限りなく慈愛に満ちた笑顔と声色で朱里に話しかけた。



「ね、朱里ちゃん。あなたがそんなでは、せっかく意識を取り戻したエリちゃんが困ってしまうわ。あなたがエリちゃんの面倒を見るのでしょう? いつもの朱里ちゃんらしく、毅然きぜんとした態度で導いてあげなきゃ、戻る記憶も戻らないと思うの。ね?」



 根気よく呼びかけたおかげか、それとも、朱里自身もわかっていたのか。彼女はようやく顔を上げると、涙を拭う。



「……そうですね。えぇ、まさしくその通りです……。私がこんなことでは、お嬢様に顔向けできませんね。本当に情けない」

「情けなくなんかないわ。だって、エリちゃんとあなたは兄妹だもの。悲しんで当然よ。だけれど、残念ながら、状況がそれを許してくれない。わかるかしら?」

「……はい。心得ております。お恥ずかしいところをお見せして、申し訳ありません。少し、頭を冷やしてきますので、お嬢様のこと、よろしくお願いします」



 朱里は席を立つと、足早に部屋を出て行った。


 部屋の中に残される形となった梓乃は、改めて、ベッドの上のエリを見た。

 急に手の中にあったおもちゃが失われて、手持ち無沙汰になったという感じだった。


 エリは再び、仰向けのまま天井をじっと見つめるようにした。

 その瞳からは、先程まで存在していた茫漠ぼうばくとした雰囲気が大分薄れており、光が宿り始めていた。

 しかし、それと同時に、困惑したような表情が浮かび上がっていた。



「何も……思い出せない。なんなの……? どうして私はこんなところで寝てるの?」



 エリはぼそぼそと呟き、周囲を見渡してから梓乃を視界に捉える。



「……教えて。わたしって……何?」



 泣きそうな顔を浮かべるエリに、梓乃はこっちが聞きたいぐらいだと思ったが、声には出さなかった。




◇◆◇




 翌日の昼前。


 エリの意識が大分はっきりしてきたのを確認し、動いても大丈夫そうだというラファエラの判断で、一度、精密検査が実施された。


 早瀬川はせがわ家の屋敷に作られたラファエラの研究室にはホムンクルス用の調整ユニットの他に、ホムンクルス専用の精密検査ユニットも運び込まれている。


 本来であれば、もっと色々な設備を神霊の本拠地にあるガブリエラの研究所から運び込みたかったが、さすがにスペースが足りず、今のところ、大きなものはこれだけだった。


 その精密検査ユニットでエリの身体を調べた限りだと、やはりどこにも異常は見られなかった。

 あと行っていないのは魂の精密検査ぐらいだが、こちらは本拠地に行かなければ実施できない案件である。


 この検査をすれば、魂がどのような状態になっているのか、受動体に異常がないかなどすべて調べられるのだが、それを実行に移すには色々と問題がある。


 最大の障害は、やはり、ガブリエラの欠片を狙っていると思われるタミエルや、他のちたる神霊たちの存在だろう。


 敵がタミエルだけならまだしも、それ以外の招かれざる客が同時襲撃してきたら、いかな梓乃と言えどもすべての敵を蹴散らすことは難しいし、そもそも、相手が神霊だった場合、邪操師である彼女では肉体を滅ぼすことはできても、本体を消滅させることはできないのだ。


 つまり、彼女にできることと言えば、牽制と護衛、邪霊の殲滅のみである。


 そのため、タミエルや神霊の相手はラファエラ以下、神霊の戦闘部隊が対応することとなる。

 しかし、力量の差が掴めないため、どこまでやれるかわからない。


 そういった懸念があり、万全の態勢を整えてからでなければ、本拠地まで移動することはできなかった。



「――となると、現時点でできることは何もない。放置の一語に尽きるな」



 診察室の隣にある応接室のソファに腰を下ろしていたラファエラが、独り言のように呟く。

 扉の近くの壁にもたれるように立っていた梓乃は、腕を組んで考え込んでいるラファエラを一瞥いちべつした。



「……は?」



 梓乃にはラファエラが何を言い出したのか、さっぱりわからなかった。頭でもおかしくなったのではないかと疑いたくなってくる。



「ごめんなさい。よく聞き取れなかったのだけれど?」



 コーヒーサーバーからマグカップに中身を注ぎ始めたラファエラは、梓乃に目もくれずに口を開く。



「エリを我々の本拠地に連れて行くのは、現時点では高いリスクを伴う。となれば、今の我らにできることは何もないということだ」

「だけれど、それだと万一のときに対処しきれないかもしれないと思うのだけれど?」


「わかっている。だから既に対策は講じている。案ずるな」

「またいつもの隠し事ね。秘密主義も大概にして欲しいところだけれど、まぁ、いいわ。それで、本当に大丈夫なのでしょうね? 失敗は許されないわよ? 私の予感が正しければ、今のエリちゃんは……」



 梓乃は途中で言い淀む。

 その先を口にすれば、最悪の事態になりそうだったからだ。

 ラファエラは梓乃が何を言いたいのかわかったのか、マグカップを手に持ったまま、彼女を一瞥した。



「私の目論もくろみ通りであれば、お前の考えているようなことは起こらんよ。だが、何事にも例外というものはある。そのときには、よろしく頼む」



 そう言って、ニヤッと笑うラファエラの顔を見て、梓乃はすべてを理解した。



(この人……エリちゃんの中にあるものがなんなのか、既にわかっているということかしら)



 答えが見えていて何も言わない。相変わらずの隠蔽いんぺい体質に、梓乃は瞳を鋭くするのだった。



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