第8章 変容の時
1.目覚め、そして、疑惑
――翌日。
研究所への入出を許された
片時も離れたくない。
そんな意思の表れだったのかもしれない。
事実、彼女は食事も摂らず、更には寝所に戻ることすら拒否した。
さすがにそれは容認できることではなかったため、
その代わり、診察室隣の応接間で寝泊まりすることだけは許したが。
そのことに、朱里は素直に感謝した。
そんな毎日が続いた三日後、予定通りエリの身体の傷は綺麗さっぱり完治し、元通りの美しくも愛らしい姿に戻っていた。
バイタルも正常でぱっと見、どこにも異常は見られなかった。
しかし、例によって目を覚ます気配はなかった。
仕方なく、怪我も治ったということでユニットから出されたエリは、自室のベッドへと移された。
今後はそこで、経過観察を兼ねて療養することとなる。
この時既に、屋敷の結界は対タミエル用に強化されており、少しでも近づいた
しかし、強化されたとは言っても、防衛力には限度がある。
何しろ、対神霊用の結界をかけたのはラファエラの手のものだからだ。
最強の名を冠する梓乃がかけたわけではない。
それに、相手はタミエルだ。
未知の存在となりつつある相手にどこまで通用するか、甚だ疑問である。
そういった不安要素も手伝ってか、結界強化以外にも当然、対策が講じられていた。
エリの部屋と廊下には元ガブリエラ
有事の際には、彼女たちが敵を撃退する運びとなっている。
そして、朱里がエリの側を離れるはずがないので、都合、室内には二、三人が常時詰めていることになる。
それ以外に変わったことと言えば、庭にも巡回警備担当の神霊憑きが数名配置されたことと、ラファエラが新たに研究施設のための小屋を敷地の裏手に建築し始めたことくらいか。
この施設は今回のこととは関係ないらしいが、エリの健康を維持するために今後、必要となるものらしい。
あまりにも中途半端な説明に、梓乃は
それから、当然のことながらタミエル捜索部隊も編成されて行方を追っていたが、依然、所在は掴めなかった。
そんな感じで厳戒態勢が取られる中、時間だけが過ぎ去っていった。
そうして、更に十日が過ぎた頃だった。
警備の厳しさに二の足を踏んだのか、それとも何事かを企んでいるのか。
特に何も起こらないまま、唐突にエリの意識が回復した。
◇◆◇
その日も、いつもの日課で朝のメロドラマを見ていたラファエラだったが、エリの部屋に詰めていた神霊憑きの女性が室内に入ってきたせいで、視聴の中断を余儀なくされた。
「お目覚めになりました」
若い神霊憑きの女性はただそれだけを口にした。
彼女たち職員はラファエラとは違い、普段は宿主の人間が表に出ている。
そのため、梓乃たち
「わかった。今すぐ行く」
名残惜しそうにテレビを消して立ち上がるラファエラ。
しかし、次に発せられた職員の言葉に硬直することとなった。なぜなら、
「ですが、記憶をすべて失っているそうです」
と、発言したからだ。
ラファエラがエリの部屋へと辿り着いた時、そこには既に梓乃も到着しており、なんとも言えない顔を浮かべていた。
エリの部屋で寝泊まりしながら、毎日のように彼女の世話をしていた朱里に至っては、声なく泣き崩れている。
そして、ただひたすらに、両手に包み込んだエリの左手を自身の額に押し当てていた。
「それで、どういう状況なのか説明してもらえるか?」
ラファエラはそう、背後に付き従う職員に声をかけながら、朱里から少し下がった位置にいる梓乃の横へと歩を進める。
そのままベッドの中の少女をじっと見つめた。
長いプラチナブロンドの髪の少女は、髪と同じ色の長いまつげを時折震わせながら、ゆっくりと瞬きする。
焦点は定まっておらず、どこかぼうっとしているような感じだった。
それでも何かを気にするかのように、何度か
そうして、最後にラファエラを捉え、動きが止まる。
「あなたは……だぁれ? 白い服……だれ?」
そして、右手でいきなり頭を撫で始める。
「どうして……泣いているの?」
「……わかりません……わかりません」
なんと答えていいのかわからないようで、すすり泣きながら声を発する朱里に、エリはただ、きょとんとするだけだった。
「……重傷だな」
ぼそっと呟いたラファエラに、彼女と一緒に部屋に戻ってきた職員が頷きながら資料を渡してくる。
「そうですね。エリさんは先程目を覚まされたばかりですが、最初からこのような状態でした。すぐに朱里さんが色々質問されましたが、何も思い出せないようで」
「そうか」
ラファエラは手元の資料に目を通した。
彼女が到着する前に一通りの簡易検査はしたようだが、身体機能は特に異常はなく、魂の数値も平常だった。
魂の
一見すると、健康そのものといった感じだ。
もっとちゃんとした精密検査をしないとなんとも言えないが、これだけで今のエリの状態を判断するのであれば、心的外傷による記憶喪失ということになるだろう。
まぁ、あれだけ酷い目に遭ったのだから、当然、精神を犯されたとしてもなんら不思議ではない。
梓乃が救出した時、魂の抜け殻のような状態になっていたという話だったから。
だが――
ラファエラはもう一度、くまなく資料に目を通し、とある一点を見つめて「む……」と声を漏らした。
それに素早く梓乃が反応する。
「どうしたのかしら?」
「いや、なに。たいしたことではないのだがな」
それっきり黙り込むラファエラに、梓乃は何かを感じ取ったのか、
「この
軽蔑の視線を向けてくる梓乃に、ラファエラは嫌そうな顔を浮かべた。
「そんなつもりは毛頭ない。単純に、可能性を考えていただけだ」
「可能性って、どのような?」
「エリの記憶喪失が心的外傷によるものではなく、魂の損傷、もしくは変容によるものなのではないかということだ」
「どういうこと?」
「……魂の質は通常値に戻っているが、質量の方が僅かに増量しているのだよ。タミエルによって喰われそうになっていたにもかかわらずな。減るのではなく、確実に増えている。あくまでも誤差の範囲だがな」
「それがエリちゃんの記憶喪失に関係していると?」
「わからん。だが、なんらかの異常が発生した可能性はあるな。何しろ、先程からプンプン匂うのだよ。以前はほとんど感じなかった、我が同胞の匂いが」
ラファエラはそう言って、懐疑的な瞳をエリへ向けたが、少女はそれになんの反応も見せず、壊れたおもちゃのようにひたすら朱里の頭を撫でているだけだった。
「やれやれ。問題
ラファエラは興味を失ったかのように視線を外すと、隣の職員へ耳打ちする。
研究所職員兼護衛の神霊憑きは、軽くお辞儀をして部屋を出て行った。
怪しい態度を見せ始めるラファエラの言動を見逃さなかった梓乃が、胡散臭そうにする。
「何をする気かしらね?」
しかし、その質問に答えることなく、ラファエラは部屋を出て行った。口元に、微かな笑みを浮かべながら――
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