3.悪夢と絶望と崩壊と ※鬱あり




「……お前はなんだ……? 何をする気だ?」



 おぞましさに耐えきれなくなって、勝手に震え始める身体を必死で抑え込みながら、ようやくの思いで声を絞り出す。


 もはや人間の形を一切保たない黒い靄のかたまりとなったタミエルは、目だけを赤く光らせる。



「決まっているではありませんか。神霊が人に対してすることなど、一つだけですよ。即ち、吸魂きゅうこん――魂を喰らうことです!」



 言って、タミエルは口と思われる場所を目一杯開いて、エリの細い首筋に喰らい付こうとする。エリは焦ってそれを押しのけようと、抵抗した。



「ば、バカ、よせ! 何考えてんだ! 神霊は魂を喰わないんじゃなかったのかっ?」

「何をバカなことをおっしゃっているのですか? 神霊が魂を喰わない? そのような愚かなことを誰が吹き込んだのです?」

「ラファエラたちだよ! 神霊は人と共生する道を選ぶって聞いたぞ!」


「いかにもあの方らしい言い分ですねぇ。ですが、そのようなことをしていては、いつまで経っても神霊は神霊のままです。なぜ、そのようなつまらない生き方をせねばならないのですか? 人も神霊も邪霊じゃれいも、生まれたからには自由を手にする権利があるというのに。わかりますか? 人の子よ」



 タミエルは言葉を切り、天を仰いだ。



「自由を手にする喜びがいかに尊く甘美であるか、あなたも理解しているはずだ! 何者にも縛られず、すべてが思いのまま。あの芳醇ほうじゅんな味わいを、思う存分味わえる悦楽えつらく饗宴きょうえんを! 私はな、人間。ゆえに喰らうのだよ。お前たち家畜の魂を。そして、吸血種の力を有するこの私の唯一無二の楽しみ、即ち、霊力に満ちた生き血を余すことなくすべてすすりつくのだ!」



 人格破綻者のようにいきなり口調の変わったタミエルが、再び襲いかかってくる。



「バカ、やめろって言ってんだよ! こんなところで死んでたまるかっ」



 エリは必死で抵抗しようとしたが、タミエルの力は圧倒的だった。

 とんでもない怪力の持ち主で、タミエルの身体を押し戻そうとした腕が逆に潰されそうになった。



「だ、だめ……だ。このままじゃ……!」



 懸命に勇気を奮い立たせ、異形の存在に抗おうと躍起になるが、徐々に白く輝く四本の牙が首筋へと近づいてくる。

 タミエルから吐き出される甘い匂いが鼻腔をくすぐり、思考能力が低下していくのを感じた。



(そうか……あの時眠くなったのはこいつの……)



 だが、今更気がついても遅かった。

 このままでは確実に化け物に喰われてしまう。

 得体の知れない恐怖が、身体の奥底から湧き上がってくる。



(死ぬ、死んでしまうっ……こんなわけのわからない奴に喰われて死ぬとか、そんな理不尽なことがあっていいはずがない……!)



 絶望と焦燥感に支配されたエリは、メチャクチャに暴れ回った。

 動かせる両手、両足すべてを総動員して、黒い化け物を押しながら蹴り飛ばす。

 しかし、彼はまるでびくともしなかった。

 そればかりか、ケラケラと笑い始める。



たのしいなぁ、人間よ――そうだ、その顔だ。恐怖に歪みきった人間のその顔が見たいのだ。人間は感情の生き物という。その感情が爆発したとき、人が持つ霊力は極限まで高まるのだ。その時に喰らう霊力ほど格別なものはない。あの清廉せいれんで味わい深い霊力の香り! あれを一回味わったら、もう他のものなど、二度と食すことなどできるものか!」



 タミエルは言い様、エリの左頬を引っ叩いていた。

 突然の痛みに、彼女は呆然として動きを止めた。何が起きたのかわからなかったのだ。



「さぁ、人間よ。泣け! 叫べ! そして、存分に恐怖しろ! この私をもっと楽しませてくれ!」



 あざけり叫び、タミエルがもう一度、今度は右頬を引っ叩いた。


 可愛らしかったエリの顔が赤くれ上がる。

 唇からも血が流れていた。

 もしかしたら、頬骨が折れてしまったのかもしれない。


 エリは痛みからなのか恐怖からなのか、勝手にこぼれ落ちてくる涙を堪えることができなかった。


 なんでこんなことになってしまったのかと、絶望が胸中を渦巻き始める。


 幼い頃から自由のない人生で、色々なトラブルに巻き込まれはしたが、それでも、なんとかそつなくやってきた。


 人間関係が面倒になったからと言って、周囲の人間を遠ざけたことはあったが、だからといって、その程度のことでどうしてこんな目に遭わなければならないのか。


 魂魄解離障害こんぱくかいりしょうがいなどというおかしな奇病にかかって死んだと思ったら、年端もいかない少女の姿となり、挙げ句の果てには化け物に襲われ、今、再び死にかけている。



(こんなの……あんまりじゃないかっ。オレはただ……普通に生きたかっただけなのにっ……)



 エリは痛みと絶望と悲しみを懸命に振り払い、弱々しい力で再びタミエルを押しのけようとした。

 しかし、ただ見下ろしているだけの、何もしてきていない相手にすら、まるで歯が立たなかった。



「……ぃゃだ……」



 エリは何かが湧き上がってくるのを感じた。



「……タスケテ……」



 自分ではない誰かが声を上げている。



「……ゃだ……ワタシはもっとイキタイ……」



 エリは正真正銘、女の子のような悲痛な声を上げ、何度も何度も黒い靄状の化け物をぽかぽかと力なく叩いた。

 しかし、それはなんの意味もなさない行為だった。


 次第に虚ろになっていく瞳と共に、エリの全身から力が抜けていく。そして、彼女は完全に動きを止めた。


 ふと、自身の左側へと視線が向く。そこには、白い麦わら帽子が置かれていた。


 多分たぶんにおもちゃにされたが、エリのことを心から心配してくれた帽子屋店主がくれた真心の品。

 それが無造作にベッドの上に置かれていた。


 彼女は無意識の内に手を伸ばし、それを掴もうとした。

 しかし、それより早く、タミエルから黒い邪気が迸り、白い帽子が木っ端微塵に粉砕されてしまった。



「あぁぁ……」



 記憶の中の楽しそうな女性店主の笑顔が、パリンっと、音を立てて壊れていく。

 悲しみと申し訳なさに、心が慟哭どうこくする。


「なんで? どうして?」と自分なのか別の誰かなのかよくわからない存在が、何度も何度も自問する。

 だけれど、答えなんて返ってくるはずがない。


 そうしてエリは、



「もぅ……ゃだ……」



 そう呟いたのを最後に、彼女のあお双眸そうぼうからは、完全に光が失われていった。


 その際ふと、彼女は部屋の片隅に何か得体の知れない気配を感知したような気がしたが、死にゆく自分にはすべてがどうでもいいことだった。


 虚ろな目をした泣き濡れた少女を見下ろす黒い靄状の化け物は、しばらくそのまま、痛々しい姿の少女を見つめているだけだったが、やがて、その黒い靄を徐々に消滅させていくと、牙だけが生えた人間の姿に戻っていった。



「……やれやれ。これでは楽しみが半減してしまったではないか。もう少し楽しませてくれると思ったのだが?」



 そう呟いたあと、横を向いたまま動かないエリのあごを右手で掴み、ゆっくりと自分の方へ向けさせる。


 ただ一点だけを茫漠ぼうばくと見つめるエリの瞳に、生気の光が蘇る気配はまったく見られなかった。

 彼女の心は完全に壊れてしまっていた。



「まぁよい。それでも、目的だけは果たせるのだからな。くく、ガブリエラ様、せいぜい後悔することですね。私のことを認めなかったあなたの愚かさを!」



 タミエルは両手をエリの首にかけようと両腕を動かし――と、その動きが止まった。


 彼は焦りの色を浮かべて、そちらを見た。

 とんでもなく強大な霊力が膨れ上がる気配に愕然とし、大慌てでベッドから飛び退すさる。

 そして次の瞬間、カーテンが引かれてあった壁が、爆音を轟かせながら粉微塵に吹き飛んでいた。



「これは……間に合わなかったのかしら」



 砂煙の舞う室内に夏の陽光が射し込んでいる。

 それを背にして壁の穴から飛び込んできたのは上宮寺梓乃じょうぐうじしのと、彼女に抱きかかえられた朱里しゅりだった。



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