第2章 魂魄解離障害

1.目が覚めたら……




 貴弘たかひろが目を覚ましたのはそれから三日たった夕暮れ時だった。



「う……ん……」



 長いまつげが小刻みに揺れ動き、半分だけ大きな瞳が見開かれる。

 しかし、それ以上、まぶたが開かれることはなかった。

 理由は簡単である。


 貴弘から見て右側の壁一面に引かれたレースのカーテンから夕明かりが射し込んでいて、それが異様に眩しく感じられたからだ。



(なんか、おかしな夢を見ていた気がするな)



 明るい日差しに顔をしかめながら、貴弘は夢の内容を思い出そうとする。


 ある朝起きたら自分が幼女――しかも絶世と言っても過言ではない、美しくも愛らしい美少女になっているという、なんとも面妖な夢を見たような気がする。


 別に、女性への変身願望など持ち合わせてはいないというのに。


 彼はおかしな気分になって軽く苦笑しながら、眩しさから逃れようと視界を手で遮ろうとして異変に気がついた。



「え……?」



 金縛りにでも遭ったかのように、両腕がまったく動かなかったのだ。

 否、それだけではなく、両足までもが動かなかった。



(どういうことだ……?)



 焦って大暴れし始めるが、やはりびくともしない。



「なんでだよっ、どうして身体からだが動かない……!」



 絶望にも似た感情に支配されそうになり、更に貴弘は手足をばたつかせたところで、ようやく、それに気がついた。

 固定されている。

 何かベルトのようなもので両手両足だけでなく、腹部までもが拘束されていたのだ。



「バカな……! どういうことだよ!?」



 甲高くて可愛らしく、それでいてとても逼迫ひっぱくした声音こわねが室内に響き渡る。


 それがあまりにもうるさかったからだろうか。

 ベッド左側の真ん中辺りで、何やらガサゴソと動く気配がした。

 朱里しゅりだった。

 どうやら側でずっと控えている内に、眠ってしまったようだ。



「朱里! どうなっているんだ? なんでオレは縛られている!?」



 相変わらず可愛らしい声を出している自分にまったく気づかず、貴弘は首だけをメイド服の少女へ向ける。


 彼女は椅子に腰かけたまま上半身だけ布団に身体を埋めていたが、むにゃむにゃ言いながら上体を起こすと、軽く目元をこすってから、しばらくほうけたような状態となった。


 しかし、切羽詰まった顔をする貴弘と視線が絡み合うと、はっと我に返る。



「貴弘様! ……よかった……目を覚まされたのですね」



 今しも泣き出しそうな顔をする妹に、しかし、貴弘はそれどころではなかった。



「いいわけあるか! なんでオレは縛られてるんだ!」



 先程と同じような台詞を吐いてジタバタもがく貴弘に、朱里が慌てて覆い被さった。



「お、落ち着いてください! 暴れてはダメです! それ以上興奮されると、今度こそ本当に死んでしまいます!」

「……え?」



 言っている意味がわからず、貴弘は硬直した。

 頭の片隅にチクリとした痛みが走る。

 何か大切なことを忘れているような気がした。


 貴弘はこれまで、どこにでもいる普通の少年として、日々を過ごしてきた。


 中学時代はよく、クラスの悪友に絡まれ、これでもかというぐらい、うんざりされられてきた。

 あの決して消えないトラウマもその一つである。


 あれ以来、周りの友人とは距離を置くようになったが、高校に入り、貴弘の人嫌いは更にエスカレートすることとなった。


 中学時代の悪友を遙かに凌駕する天敵が現れたからだ。


 御三家筆頭の浅川あさかわ家令嬢、浅川麻沙美あさかわあさみや、彼女のいとこで、やはり御三家の藤沢ふじさわ家長男、藤沢省吾ふじさわしょうごの二人である。


 彼らは大抵いつも一緒にいて、何かにつけて貴弘にケチをつけてきた。

 貴弘本人はあまり関わらないようにしていたのに、何が気に食わなかったのか、毎日のようにちょっかいかけてくるのだ。

 特に、あの浅川麻沙美の方が、であるが。



(そうだ。確か、始業式の日も絡まれたよな。確か、あの日は調子が悪くて……あれ?)



 そのあとを思い出そうとするのだが、突如記憶がばったりと途絶えてしまった。



「どういうことだ……? オレは確か、浅川の野郎に絡まれて……それで?」



 一人、難しい顔でブツブツ言い始める貴弘。

 それを見た朱里が、上から覆い被さったまま、彼の両頬を自身の両手で挟み込むようにする。

 そして、至近距離になるまで顔を近づけた。



「貴弘様っ……貴弘様!」

「え……? あ、あぁ……ぅん?」



 朱里は酷く心配したような顔をしていた。

 もしかしたら、気でも触れてしまったのではないかと考えていたのかもしれない。



「大丈夫ですか? どこか痛むのですか? それともご気分でも? 私のことはおわかりになりますか?」



 矢継ぎ早に質問してくる朱里に困惑しながらも、貴弘は努めて平静に口を開いた。



「状況がよくわからないが、多分、大丈夫だ。だから落ち着けって」

「……はい」



 朱里はか細く返事をしたあと、ゆっくりと貴弘から身体を離して椅子に腰かける。それから軽く深呼吸をして、



「……よかった……本当に……」



 こらえていた何かを吐き出すかのように呟くと、目元を拭う仕草をした。

 貴弘が怪訝に思っていると、彼女の頬を光るものが伝わっていた。どうやら泣いているようだ。



「なんだよ……何も泣くことはないだろう」

「だ、だって……」



 声を詰まらせ本格的に泣き出しそうになる妹に、貴弘は軽く溜息ためいきを吐いた。


 昔から朱里は自分はメイドだからと妙に年不相応な振る舞いをすることが多かった。


 彼女の逆鱗に触れるようなことをしない限り、感情を表に出すこともほとんどなかった。


 人によってはその態度を冷淡と感じて、不愉快になることもあっただろうが、貴弘にとってもそれは同じだった。

 さすがに冷たいと感じることはなかったものの、彼女のそういった言動に時々、煩わしさを覚えていたのだ。


 血の繋がりこそないものの、彼女は間違いなく妹なのだから、メイドなどというおかしな状況から解放されて、普通の女子高生のように振る舞えばいいと何度思ったことか。


 しかし、いざこうして、普通の女子のような姿を目にしたらしたで、妙な戸惑いしか出てこないという。

 なんとも酷い兄貴だった。



(やれやれ……)



 貴弘は面倒くささを感じながらも、彼女を慰めようと手を伸ばそうとして――そこで固まった。

 全身拘束されていることを忘れていたのである。



「そうだった――ちょ、朱里、泣いてないで、こいつをなんとかしてくれ。ていうか、それ以前に、なんでオレはベッドに縛り付けられているんだよ。何が起こったのか説明してくれ」



 甲高い声で口を尖らせブーブー言う貴弘の姿を見た朱里は、次の瞬間には吹き出すようにクスッと笑い始めた。

 ほとんど泣き笑いである。



「お、おいっ……何笑ってんだよっ。泣くか笑うかどっちかにしろよ!」

「す、すみません。貴弘様の反応が以前と変わりなくて。ほっとしたらおかしくなってしまって」

「何がおかしいんだよ。全然おかしくねぇよ。笑えねぇよ。たくっ。何が悲しくて、目が覚めたら全身縛られてなきゃなんねぇんだよ。オレにそんな趣味なんかねぇってぇの」



 不機嫌そうに一人ブツブツ言い始める貴弘の姿に安心したのか、少しずつ落ち着きを取り戻してきた朱里。

 彼女は静かに椅子から立ち上がった。


 貴弘はそんな彼女を不機嫌そうに眺める。

 朱里の顔には既に、涙はなかった。



「貴弘様、色々思うところもあるかと思われますが、しばらくそのまま大人しくしていてくださいね。すぐに先生をお呼びいたしますので」



 そう言って軽く会釈をし、彼女は静かにその場から離れようとした。



「ま、待て。先生ってなんだ?」



 慌てて声をかける貴弘に、朱里は身体半分だけ振り返る。



「貴弘様の命を救ってくださった方です。その方から、今現在の貴弘様の状態を説明していただきます。なぜ、ベッドに寝かされているのか。なぜ、お姿が可愛らしい女の子になっているのか」

「そ、そうか。わかった……て、え? 女の子?」



 そこまで言って、貴弘はようやく気がついた。自分の声が可愛らしい女の子の声になっていることに。そして、



「な、バカな……。あれは夢じゃなかったのかっ? 男であるオレが、ある朝起きたら幼女になってたとかっていうメルヘンなあれはっ?」



 顔面蒼白となる貴弘。それに対して朱里は、先程までの取り乱しようが嘘のように、いつも通りの沈着冷静な態度を見せる。



「そのことも含め、すべて説明していただきますので、しばらく辛抱していてください。その拘束も、先生が解いてくださると思いますので」

「あ、ああ……ぃや、しかし、ちょっとっ……」



 自分の置かれた状況に納得いっていない貴弘。そんな兄へ再度、軽く会釈だけして、朱里は部屋の出入り口へと向かってしまった。


 そして、扉を開けようと彼女がノブに手をかけたところで、ガチャッとそれが勝手に開いた。



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