第9話 アンジェルの異変

 高校3年生にもなると、僕らはあたりのライブハウスでは結構知られる存在になっていた。このままいけばプロとしてのデビューも視野に入ったので、楽曲作りにも力を入れていた。僕らふたりで「Ange Cache」としていくか、サポートの3人も含めた5人のバンドにするか。そんな話をアンジェルと作曲がてら僕の部屋で話していたときだった。


「あれ?今の話は聞いてた?」と僕が尋ねても、彼女は僕のベッドの上であぐらを組んでギターを持ったまま、黙ってベランダの方を見ている。


「ねえ!今って結構大事な話をしていたんだぞ!」


 僕がこう言うと彼女はハッとした顔をして、大きな瞳を更に大きくした。


「ご、ごめん。ちょっと別な考えごとしてた。」


 ちょっと変だな、と思ったので一旦会話を変えることにしたのだが、今から思えばミスチョイスな話題を振ってしまった。


「ったく・・・。あ、そういえばこの前のライブのときギターソロを結構ミスってなかった?」


 以前にもこんな会話を振ったことがあった。あのときのアンジェルは「はい?ヒデだって歌詞ミスってたじゃない!音程もはずしていたし!」なんてイタズラっぽく笑いながら返してきて、お互いに冗談っぽくなじり合いのようなじゃれ合いをしたことがあった。僕はまたそれがしたかったのだが・・・。


「え?・・・そ、そうだった・・・かな?」


 こう言って、彼女は自分の右手を見ながらグーとパーを繰り返していた。少し彼女の瞳が切なそうだった。その頃から兆候は現れていたのだろう。そして自覚症状もあったのだと思う。


 僕らが学生だったころ、まだ携帯電話はお金持ちにだけしか普及していない時代だったので、僕らは例えば「○月○日。何時。どこどこで。」みたいなメモを書いてお互いに交換して予定を約束していた。どうして交換していたかというと、僕が書いたメモを彼女に渡す、彼女が書いたメモを僕がもらうことで、お互いの筆跡が物証になる証拠品にしたかったからだ。こうすれば万が一「ごめん、予定を勘違いしちゃった」とか「メモを書き間違えちゃった」とかの言い訳はできなくなる。これは中学生のころからのルールでずっと続けていたことだった。発案者はもちろんアンジェルだ。


 僕はこのメモ交換を始めて以降、彼女が書いて渡してくれたメモを全て手元に残してある。彼女が書いてくれたメモひとつでも、僕にとって大切な思い出の品のような気がして、どうしても一枚もたりとも捨てることができなかった。なのでもうだいぶ溜まっている。


 ある日の学校の放課後、僕はメモを書いて彼女に渡そうとした。ところがアンジェルはメモを書こうとしなかった。


「どうしたの?ほら、明日はまた17時からスタジオだよ。」


「あ、うん。ヒデあのね。明日私、ちょっと病院に行ってくるの。」


「病院って・・・風邪か、どこか悪いのか?」と僕は聞き返したが、相手は年頃の女の子なので、もしかしたら女性的なことかと思い「わかった。じゃあ来られそうなら来てよ。遅くなりそうなら無理しないで良いよ。」と会話を終わらせた。


「ありがと。ごめんね。」


 そのときのアンジェルの表情は、なにかとても無理して笑顔を作っているような、そんな淡く憂いでいる微笑みをしていた。

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