第10話 アンジェルの病

 その日、アンジェルはスタジオには来なかった。


 それどころか学校を休みだしたのだ。最初は体調でも崩したのかな?とか考えたが、でも風邪ひとつひいたことがないアンジェルだったので、僕は言いようのない不安がじりじりと湧いてきた。


 彼女が学校を休みだしてから三日目。僕は彼女の家を訪ねることにした。家の前まで送ったことはそれまで何度もあったが、呼び鈴を鳴らす行為は一度も無かったので少し緊張したが、それどころじゃなかったので迷いは無かった。


 大きい一軒家だったが、家の所々には電灯が灯っているようだった。応答に出たのは使用人の女性らしかった。あいにく留守にしています。と、それだけで終わってしまった。


 その翌日は日曜日だったので昼前には彼女の家に行き、また呼び鈴を押した。


「すみません。あいにく留守にしておりますので。」


「あ、すみません。僕は冴樹秀彰という者です。アンジェルさんと一緒にバンドをしています。」


「え?・・・あぁ、あのヒデさんでしたか。しょ、少々お待ちください。」


 ようやく取り合ってもらえそうなことに安堵した。僕はもうこれで彼女に会えると思ってしまった。


 玄関が開くと使用人の菅原さんという中年女性が小走りにやって来て門を開けてくれた。


「ごめんなさいね。奥様が中でお待ちです。」


「えっ・・・。」


 どうしてアンジェルではなく、彼女の母親なのだ?そう思ったのと同時に、確か彼女の母親はフランス人だったよな、会話できるのか?など、とにかく不安になっていた。そこで大いに活躍してくれたのが使用人の菅原さんだった。彼女は語学淡麗で英語もフランス語も、ドイツ語にイタリア語までペラペラな人だったのだ。


 アンジェルの母親イザベル・スチュワートは、彼女が母親似だったのかと納得できるような風貌の人だった。


 僕は応接室みたいな場所で彼女について、唐突にこんな話を聞かされた。


「アンジェルは病気なのです。身体が動かせなくなる少し特殊な病気です。病名は(当時はなんだか難しい名前だったのとショックで覚えられなかった)なのですが、今のところの症状は、右手の神経が・・・自由が効かなくなり始めているところです。」


 一気にこの前の「異変」を思い出した。僕はからかい半分でミスの話を出してしまったことを痛烈に後悔し、膝の上で両手を強く握ってプルプル震わせていた。それと同時に足がすくんでいくような、僕の身体は嫌な反応を示していた。


 彼女の母は、そんな僕の両手に視線を落としていたが、そのブルーの瞳が少しずつ赤らんできたように見えた。


「娘は高校生活をバンド活動に全て捧げていました。あなたのような素晴らしいメンバーと出会えて奇跡だっていつも話していたの。ところが、今年に入って少しずつ様子がおかしいことにあの子自身も気付いていたのに、バンド活動が順調にいってて止められなかったのね。」


「あの、彼女の・・・アンジェルさんの病気って治るんですよね?」


 少しだけアンジェルの母親の表情が曇った。


「あの子の病気は、一度侵された神経はなかなか元には戻らないらしいの。早く治療を始めれば進行を遅くできそうだけど、次第に全身まで動かなくなるかも知れない。その可能性があるの。だから・・・今のところ楽器の演奏は。」


「い、いや!・・・僕は彼女がギターを弾けなくなるとかは良いんです!!い、命は・・・アンジェルの命は大丈夫なんですよね!?」と立ち上がった。


 僕はこのとき本気でそう思っていた。


 バンド活動とかギターが弾けるようになるとかならないとか、本当にどうでも良かった。


 とにかく彼女が、アンジェルが居なくなってしまうことの方が僕にとっては最大の恐怖だったんだ。


 僕がそう強く言うと、少しだけ応接室が静まり返ってしまった。場の雰囲気を壊してしまったような気がして、僕がいささか戸惑っていると、アンジェルの母親の両方の瞳にはたくさんの涙がユラユラしていた。


「あの子が言っていた通りの人ですね、あなたは。」と言ってハンカチで涙を拭っていた。僕はそのときその言葉の意味がよく判らなかった。


「あなたには言わないでと頼まれているけれど・・・あの子は今、治療と静養を兼ねて私たちの別荘に居るの。今は6月でしょ。とりあえず夏休みいっぱいまで学校はお休みさせるつもりなの。別荘の場所はあとで紙に書いて私(通訳の菅原さん)からお渡ししますね。」


 僕は菅原さんから彼女が居る別荘の住所が記してある紙をもらって帰路についた。


 僕はほとんど抜け殻みたいだったに違いない。彼女の家まで自転車で行ったのに置いて歩いて帰ってしまったほどだった。

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