第41話 2学期の授業参観

「1時間目、理科だって。やったね」

「え、理科!? 数学だと思ってた」

 朝の会の後の休み時間。普通の会話がされる中、いつもとは少し雰囲気が違う。みんな、どこかソワソワしている。落ち着きがない。

「授業参観かぁ……」

 蜂田がつぶやいた。今、僕が1番聞きたくない言葉だ。

 そんなことは知らない蜂田は、僕をクルリと振り返ると、きいた。

「宮日は誰か来る?」

 コテンと首をかしげて、僕を見つめる。

「いや。うちは誰も」

 僕は、首を横に振った。

 来るわけない。授業参観があることは、伝えていないから知らないだろうし、そもそも子どもより用事を優先する人だ。僕になんて、きっと興味はないのだろう。

 ……なんて、蜂田に言っても意味はない。無駄に心配をかけて、迷惑になるだけだ。

 顔に出さないように、態度に出さないように、いつもどおりでいることを意識する。

 幸い、この憂鬱は顔にも態度にも出なかったらしい。

 蜂田は僕の言葉に軽くうなずいた。

「そっかぁ。うちも、誰も来ない。仕事だって」

 残念そうにしながら「ま、緊張しないからいいけどねぇ〜」と背伸びする。

「けど、やっぱ少し寂しいかなぁ」

「そうだな」

 僕は適当にうなずいた。

 うちは、お母さんはもういないし、お兄ちゃんだって二度と会えない。唯一残っている家族であるお父さんは、めったに帰ってこない。だから、寂しいのには慣れたつもりでいる。そうしないと、耐えられない。

「宮日も寂しいんだぁ。へえ、意外だなぁ」

「蜂田は僕をなんだと思ってんだよ」

「んー、ポンコツ」

「言うと思った」

「えへへー。……うわ、あとちょっとで授業始まるじゃん……。うちの親じゃないけど、誰かに見られてるのは緊張するよねぇ」

 蜂田は、さっきまで「緊張しない」と言っていたのに、さっそく顔をしかめている。

「まだ来ないんじゃねーの? 1時間目から来るとか、めんどくさいし」

 朝の準備もあるだろうから、来るとしたら、2時間目だと思う。

「誰も来ないわけじゃないよ〜? それに、2年の授業参観は1、2時間目だから、どっちかに来るって」

「いや、まあ……うん」

 蜂田に正論を言われたようで、言葉に詰まる。

 授業参観って、よくわからないんだよな。両親が授業参観に来たことはないし、お兄ちゃんも高校生だったから来られない。てことで、授業参観のときは、クラスメイトには家族がいるのに、僕には家族がいない。そんな寂しい記憶しかないのだ。

 蜂田は僕と同じ小学校だったから、このことは知っているはず。すぐに話題を変えた。

「不知火は、何時間目が参観だっけ」

「響は3、4時間目」

 僕のことではない話題に、なんだかホッとした。その気持ちのまま質問に答えたからか、蜂田は僕を見ながら、「優しい言い方……」とつぶやいた。

「あの子のところは来るのかなぁ」

「来ると思う。絶対」

「自信満々に言うねぇ」

 だって、響のお母さんだよ? 子どもの成長を見守るのが好きな人だ。授業参観は、成長記録を更新するためにもってこいな行事だろう。

「やばっ、チャイム鳴るじゃん!」

 蜂田は時計を見ると、「うひゃあっ」と声を上げる。

「1時間目なんだっけ」

「理科。宮日、記憶だいじょぶ?」

 あ、理科か。確実に寝るな。

「理科といえば、宮日、夏絵手さんがずぅーっと宮日を見てるよぉ」

 そう言ったあと、蜂田は前に向き直った。

 夏絵手? 僕は、隣の席を見る。

「やっと気づきましたね……」

 大きなため息をついて、夏絵手は僕にジト目を向けた。

 かわいい……じゃないや。

 えっと……休んでたことについては、朝の会話で終わらせたよな。

「夏絵手は、親来る?」

「来ます」

「いいね」

 どっちだろう。お母さんか、お父さんか。そういえば、夏絵手のお父さんは、どんな人だろう。お母さんしか知らないけど、見た感じだと、夏絵手はお母さん似だ。髪のうねりとか、ジト目とか。

「夏絵手……僕が寝たら起こさなくていいよ」

 お父さんはどんな人? と聞きたかったけれど、その言葉は喉で止まって、外に出ない。名前を呼ぶだけになると気まずいから、別の言葉をつなげる。一応、不自然ではないはず。

「えっ。いいえ、それは無理です。先生が『起こして』っておっしゃりますもん」

 夏絵手は、首を何度も横に振った。何を思ったのか、動きを止めて、少し黙る。

「でも、起こしても寝ますよね」

 僕に呆れ顔を向けた。

 事実だけど、そんなこと言わなくてもいいじゃん。

 だって眠くて、まぶたが落ちてくるんだよ。先生の声が遠くなって、気がついたら時間が飛んでるんだよ。これはどうしようもない。

「家でしっかり寝てください。夜ふかしすると、お昼に眠たくなりますよ」

 わかってるよ……。

 でも、宿題があるし、家事もしなきゃいけない。部活があると、家に帰るのは夜7時とかで、それから色々していたら、いつの間にか日が変わってる。

 この状況をどう改善したらいいってんだ。

「……寝ないから、背が伸びないんです」

「あ、それは言っちゃいけない」

 小さい声で聞こえないように言っても、意味ないからな。しっかり聞こえるもん。響ほどではないけど、僕だって耳は良いんだから。

「――黙そうー!」

 教室中に行き渡る大きな声で、学級委員の号令がかかる。

 どうやら、夏絵手との会話はここで終了らしい。

 僕らは話を止めて、号令に従う。

 チャイムが鳴って、1時間目の始まりを知らせた。

「黙そうやめ、起立!」

 ガラガラと椅子が滑る音が響く。

「気をつけ! 礼!」

「お願いします」

「着席!」

 授業参観で張り切っているのか、学級委員の号令の声が、いつもより大きい。

 座りながら、少しだけ後ろを振り返ってみる。

 教室の後ろには、たくさんではないけれど保護者がいる。クラスメイトの親とはあまり関わりがないから、誰が誰の親かわからない。

 あ、でも夏絵手のお母さんは見つけた。やっぱり、夏絵手とそっくりだ。めちゃくちゃ美人で、目をひかれる。

「えー、今日は前回の続きから進めていきます」

 授業参観だからだろう、先生はスーツを着て、かしこまっている。

「プリントを出してください」

 プリント、たしかファイルに挟んでいたはずだ。

 授業が始まったけれど、頭が重い。なんでだろう、と首をかしげて考えたあと、あっと思い出す。

 今日は朝ご飯を食べていないんだった。

 すっかり忘れていた。

 それに、すごく眠い。まぶたが落ちてくる。

「宮日さん、寝ないでください。保護者の方々が見ていますよ」

 こっそり、小さい声で夏絵手が言った。

 そんなこと言われても、眠気には逆らえないよ……。

 それに、先生の声は優しくて睡眠導入剤みたいだもん……。

 ――――気がつくと、授業が終わる直前だった。

 先生が、次の授業で何をするのか、予定の説明をしている。

 丸々寝てしまった……。

 終わりの号令をして、休み時間に入る。

 まだ重い頭をおこして、次の授業の準備をしていると、夏絵手に話しかけられた。

「宮日さん、次の授業は寝ないようにしてください」

「うっ……わかってるよ。でも、気がついたら寝ちゃっててさ」

「……でしたら、次の授業、一度も寝なかったら、ご褒美あげます。中身は内緒です。寝ずに頑張ったら、教えてあげます」

 夏絵手は、僕にほほ笑みを向ける。

 ご褒美か……どんなのだろう。別に、それが欲しいわけではないけれど、ちょっと気になる。

「頑張ってくださいね」

 ……僕って、単純なのかな。

 これだけで、頑張る気になるとは。


 夏絵手のご褒美が気になる、ということで、2時間目の数学は、ちゃんと起きていた。

 もちろん超眠いし、今にも寝てしまいそうだけど。

 夏絵手は、よく寝ないでいられるよなー……と思って、となりの席を盗み見る。

 将来は母親みたいに美人になるんだろうと思える、整った顔立ちで、うねった髪が可愛らしい。黒板の文字を、ノートにせっせと写している。

 僕も写そう。いつも寝ているせいで、授業の内容はちんぷんかんぷんだけど。

 ノートに写したり、問題を解いたりしているうちに、2時間目の終わりがおとずれた。

 休み時間、疲れがどっと押し寄せてきた。

 だるいし、気分が悪い。

 思い当たることは1つ。朝ご飯を食べてこなかったこと。

 朝食を食べないと元気が出ないって、先生もよく言うからな。

 次は移動教室か……。保護者の人たちは、授業参観の時間は終わったから、帰ってしまったみたいだ。

 クラスメイトも、いつの間にかいなくなっている。

 みんな大好き、美術のかわいい田口たぐち先生の授業だもんね。

 男子も女子も、口をそろえて「好き」って言う。

 もちろん、僕も好き。優しいし、褒めてくれるから。

 でも、今日は行きたくないな。ここから動きたくない。

 行かなきゃ、授業に遅れてしまうけど……。

「宮日さん、お疲れ様です。ちゃんと起きてましたね」

 あ、夏絵手。なんか、心配そうな顔をしてる。

「顔色が悪いです。大丈夫ですか?」

「え? あ、ああ、大丈夫」

 顔色悪い? そうなんだ……。自分じゃわからないから、ビックリしてしまった。

 夏絵手は僕の答えを聞いて、さっきよりも眉を下げる。

 気を取り直したように、にっこり笑った。

「ご褒美をあげます」

 ポン、と僕の頭に手を置く。

 そして、小動物に接するように、優しくなでた。

「……? か、夏絵手?」

 声が裏返る。

 顔がブワッと熱くなって、何かで顔を隠したくなった。

 絶対、真っ赤になってる。

「なでられるのは嫌ですか?」

「い、いや…………その……」

 夏絵手にきかれて、言葉に詰まる。

 嫌じゃない――なんて、言えない。

 だからって、嫌だ、とは言いたくない。

「ここ教室だし、誰か見てるかも……! たとえば、学級委員とか……」

 2択で答えられないから、話をそらした。

 自分で言って、ハッとなる。

 そうだ、誰かに見られているかもしれないんだ。

 それって、ヤバいんじゃ……?

 もしかしたら、噂になって、どんどん想像が付け加えられて、本当のことみたいに思われるかも。

 例えば――2人は付き合っている、とか。

 もしそうなったら……やっぱり、考えたくない。

「色々悪いことを想像しているようですが、そこは大丈夫ですよ。雫が鍵を閉めるので、先に行ってください、と伝えておきましたから」

「え……なんだ、じゃあ、大丈夫?」

「他のクラスの人に、見られていなければ」

 それ大丈夫!?

「……あの、もう少し、なでていいですか?」

 夏絵手が、僕と目を合わせて言った。

 ドキッと心臓が跳ねて、目をそらす。

 魔法にかけられているんじゃないか――そう思うほど、夏絵手が輝いて見えた。

「……移動したほうがいいんじゃね?」

「…………行きますか」

 夏絵手の言葉とは関係ないことを言うと、不満そうにしながら、うなずいた。

 よかった、と思う。

 夏絵手と2人きりだと、調子が狂ってしまう。

 夏絵手が鍵を閉めるのを見ながら、考えた。

 僕は、夏絵手のどこが好きなのだろう。

 惚れ薬を飲まなければ、今でも夏絵手を友だちとして見ていたのだろうか。

 好きな女の子として、ではなく。


 ☆


「お願いします!」

 大きな声に、教室が震える。

 俺・響は、思わず両手で耳をおさえた。

 昔から、大きな音が苦手だ。最近は、特に気になってしまう。

 普段の声量なら、まだ耐えられるけれど、今日は授業参観だからか、みんな張り切っているらしい。いつもの倍、声が出ている。2時間目までは、普段どおりだったのに。

「おっ。みんな元気で素晴らしい!」

 社会の先生は、ハハハ、と豪快な笑い声を上げた。

「授業参観ですねー。頑張りましょう。お母さん方も、ぜひ近くで見てください」

 そう言って、授業に入る。

 今日は、班で活動するらしい。古代の歴史人物について調べて、それを発表するというもの。

 うちの班は、阿部くんの希望で小野妹子を調べることにしたそうだ。

 俺は学校を昨日、一昨日と休んだから、調べられていない。みんなの話を聞いて、プリントにまとめるしかないな。

「とりあえず……不知火、司会頼んでいい? お前、調べ学習できてないよな? 休んでたし」

「うん、ごめん。やるよ、司会。じゃあ、阿部くんから、時計回りで」

「おっし。俺は――」

 5人班で、1人ずつ発表していく。

 阿部くんの次は、はやしさんという真面目な女子。その次は、美術部の梅田うめだくん。最後に、文化委員の渡辺さんだ。

 ただ、渡辺さんのときだけ、みんなは声を聞き取れなかった。彼女の声はかなり小さくて、俺でも小さな声に聞こえる。

 みんなが不思議そうな顔をして、渡辺さんを見ている。声が聞こえないのだから、しょうがない。

「ひまりちゃん、どうかしたの?」

 林さんが、渡辺さんにきく。

 渡辺さんの顔は、真っ赤になってしまった。何度発表しても、みんなには聞こえない。恥ずかしいのか悔しいのか、それとも悲しいのか、ふるふる震えている。

「プリント見せたら?」

「うん、そうする……」

 渡辺さんは俺にうなずいて、みんなにプリントを見せた。

「なるほど。サンキュ、渡辺」

 阿部くんはプリントを覗き込んで、内容を確認したあと、渡辺さんに笑いかけた。

 あとの2人も、阿部くんと同じようにする。

 全員が発表を終えたところで、俺は言った。

「それじゃあ、調べたことをまとめて、発表の準備をしよう」

「発表はいつだっけ?」

「授業の後半じゃない?」

 林さんと梅田くんが話す。

 たしか、さっき先生がタイマーをセットしていた。

 黒板にあるタイマーを見ると、残り時間は15分だった。

 あと15分でまとめないといけないのか。

「15分でいける?」

「できる」

 梅田くんにきかれて、俺は強くうなずいた。

 ――言葉通り、残り時間でまとめて、無事に発表を終えた。

 授業後の休み時間、参観に来ていた母さんに話しかけられた。

「響、よく頑張っているわね。次の授業も頑張って」

「うん」

 母さんは応援の言葉を口にしたけれど、どこか不安そうだった。

 4時間目は英語で、文法の勉強だ。

 正直、英語を身に着けたいのなら、実際に話してコミュニケーションを取る練習をするべきだと思う。文法がわかって長文読解ができても、日常生活で使えなければ意味がないから。

「この問題、わかる人」

 先生が質問した。発表して、親にいいところを見せるチャンス。けれど、大半は手を挙げない。

 こういうところで差がつくんだよな。

 成績を維持するなら、試験だけじゃなく発表も頑張らないといけない。

「はい」

「じゃあ、不知火」

 挙手すると、先生は俺を当てた。

 問題に答える。

 先生は満面の笑みで、満足そうにうなずいた。

「そうそう。ここは――」

 解説を始める。

 この先生の授業は、わかりやすいから楽しい。

 たまに寒いギャグを言って、反応に困るけれど。

 今日もいつもどおり、寒いギャグをたびたび挟みながら、楽しい授業を終えた。

 授業参観の時間も終わって、保護者が帰り始める。

「響」

 母さんが、3時間目の後と同様に、俺に話しかけた。

「何?」

「すごく頑張ってた。お母さん、嬉しいわ」

「そっか」

「……キツかったら、帰ってきていいからね」

「あ……うん」

 なんとなく、わかった気がする。母さんが、不安そうにしていた理由。

 学校を休んだ日、母さんに「疲れた」と言った。優に言われた「ほんの少しずつ、本当の自分を見せる」こと。それを、やってみた。

 すべてを話すことはできなくて、母さんにきかれたことにも、ハッキリと答えられなかった。

 でも「疲れた」という言葉だけは、母さんに伝えることができた。母さんからしたら、なんでもないことかもしれない。なんだ、疲れただけか――って、軽く思われたかも。

 そう思っていた。けれど意外にも、あの言葉だけで十分だったようだ。

 一度、家に帰ってこなかった息子が「疲れた」という言葉だけを発したのは、普通の「疲れた」とは感じ方が違ったのかもしれない。

「それじゃあ、お母さん帰るね」

「うん。…………ありがとう」

 遠ざかる背中に、そう言った。


 ☆


 昼休みになった。勉強は嫌だし、外で遊ぶと疲れる。だから、教室で読書することにした。

 昼休みが始まって、10分くらいたったころだろうか。

「……くん。……不知火くん、ちょっといい?」

「何?」

 声に気がついて、顔を上げる。目の前に、渡辺さんの顔があった。

「うわっ!?」

 ち、近っ!

「ごめんね、邪魔しちゃって。話したいことがあるの」

「大丈夫。気づかなくてごめん。それで、話したいことって?」

 俺は本を閉じて、渡辺さんに聞く。

「えっと……他の子に聞かれたら恥ずかしいから……」

 周りをキョロキョロと何度も見て、俺にさらに近づく。

「社会のとき、ありがとう。わたし、みんなに聞こえなくてパニックになっちゃって、泣いちゃいそうだったの。不知火くんが手助けしてくれてよかった」

 ナイショ話をするときのように、耳打ちする。

 いやいや、そんなことしなくてもいいだろ。君の声は、普通の聴力じゃ聞こえないんだから、いつもどおり話しても聞かれる心配はないよ。

「当然だよ。それで……渡辺さん、近い」

「えっ。ご、ごめんなさい!」

 俺が言うと、渡辺さんは小動物の速さで距離を取った。

「遠い、遠いよ」

「あわわわ、ごめんね……!」

 手招きして、渡辺さんを呼び戻す。

 俺にも、言うことがある。

「俺も、言いたいことがあるんだけど」

「言いたいこと? わたしに?」

「そう」

 うなずきながら、席を立つ。

「先週のこと。渡辺さんの頼み、聞かなくてごめん」

 頭を下げると、渡辺さんは「えっ!?」と声をあげた。

「謝らないで。気にしてないよ。頭上げて」

「……本当にごめん」

 言われたとおり頭を上げて、もう一度謝る。

「だから、大丈夫だって。みんなが、色々言ってたみたいだけど……でも、あれはわたしが悪いの。不知火くんは、いつもお願いをきいてくれるから、今日もきいてくれると思ってたんだ。拒否されてビックリしたけど、考えてみたらそうだよね。不知火くんだって、やりたくない時があるよ。わたしも頼み事、面倒だなって思うもん。不知火くんが思わないわけない。わたしの方こそ、ごめんなさい」

 今度は、渡辺さんが謝った。

 渡辺さんは悪くないのに。1人じゃ大変だから、俺を頼ったとわかる。あのときは、俺が渡辺さんに八つ当たりしたんだ。

「不知火くんは優しいから、お願いきいてくれるんだよね」

「優しくないよ」

「ううん。優しい。だって、聞いてくれない人は、たくさんいるもん。自分から手伝ってくれる人も、なかなかいない。だから、不知火くんは優しい。思いやりがあるよ」

 違う。渡辺さんが言っていることは、違う。

「本当に、優しくないんだ。全部、自分のためにやっていることだから、全然優しくない。思いやりなんて、欠片もない。ただ、優等生でいたいだけで――」

 そう言ってしまった後、ハッと息を止めた。

 言うつもりはなかったのに。

「優等生でいたいって……?」

 渡辺さんは、首をかしげた。俺をじーっと見つめる。

「わ、忘れて。いまのは、なんでもないから」

 顔をそらして、読んでいた本を見る。ブックカバーをしてあるから、表紙は見えない。これは、この間、書店で見つけたものだ。あらすじを読んで、なんとなく自分と似ている気がしたから、買ってみた。

「…………不知火くんは、優等生でも、そうじゃなくても、素敵な人だと思うよ」

 渡辺さんの、つぶやくように優しい声がした。

 理解するのに、時間がかかった。

 優等生でも、そうじゃなくても……?

 それは、優等生じゃなくてもいいってこと?

「渡辺さん――」

 渡辺さんがいたところを見ると、すでに彼女はいなかった。

 教室を見渡しても、姿がない。

 なぜか、さみしくなってしまった。

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