第40話 父と息子
「はあぁ……」
僕は、歩きながら頭を抱えた。
まさか、夏絵手にあんなことを言われるなんて……。やっぱり、話すのはまだ先のほうが良かったかなぁ。僕の家族の事情を知っているのは、今のところ響と夏絵手か。いずれ知ることではあったと思うけど、今話すべきじゃなかったかもしれない……。
なんで「夏絵手だったら話してもいい」って、あんなこと考えちゃったんだろう。
薬が好きだったり、朱雀を好きだったり、ちょっと不思議なところはあるけれど、悪い人じゃないことは変わりない。弱いところを見せても大丈夫な相手だと思う。だからといって、実際に弱さを見せるのは気が引ける。
でも、話してしまった。どうしてかな。
いくら考えてみても、答えは出てこない。
「ただいまー」
いつもより距離も時間も長く感じる家路をたどって、帰宅した。
声をかけても、返事はおろか、物音1つしない。当たり前だよね。誰もいないんだもん。
いつもそうだ。
いつもなら、そのはずなのに――
「おかえり」
頭上から影がさして、フッと視界が暗くなる。
顔をあげた。心霊番組を見たあと周りに何もいないことを確かめるときのように、ゆっくり、おそるおそる。
「…………」
声が出ない。喉をぎゅっと掴まれているみたいだ。
僕を見下ろしているのは、幽霊などではない。
――お父さんだ。
何年も家に帰ってこなかったお父さんが、僕を出迎えた。
どういうことか考えようとしたけれども、気が動転して、頭が回らない。
なんで、お父さんがいるの?
ここで何をしているの?
どうして急に帰ってきたの?
「玄関で立ち止まっていないで、手を洗って着替えてきなさい」
お父さんの言葉で、平常心を取り戻す。
「あっ……はい」
うなずいて、言われたとおりに動く。
お父さんはリビングへ行ってしまった。
後ろ姿を見送って、僕は洗面所へ向かう。手洗いうがいを済ませると、今度は自室に入った。荷物を置いて、思い出す。
そういえば、大事なプリントがあるんだった。着替えた後に、お父さんに渡そう。
机にプリントを置いて、制服から洋服に着替える。
お父さんに言われたことは、これでおしまいだな。
プリントを手に持って、リビングへ向かった。
リビングのドアを開ける。
「え……」
そんな声が漏れた。
だって、ダイニングテーブルには、出来立ての料理が置いてあったから。
大きなハンバーグと味噌汁。それから、ポテトサラダもある。
キッチンにいるのは、黒いエプロンを身に着けたお父さんだ。僕を見ると言った。
「座りなさい。夕飯、できているぞ」
「は、はい……」
うなずいて、「あっ」と思い出す。
「お父さん、あの……プリント。書いて、持ってかなきゃいけなくて」
「ああ、学校の。今書こうか」
「うん。ありがとう」
お父さんはプリントを書き終わると「よろしく」と渡した。ちゃんと書いてくれるんだな……と、驚いてしまう。
「じゃあ、しまってくる」
一度、部屋に戻って、プリントをファイルにしまう。
今日は、すごく楽だな。
今までは、自転車をこいで祖父母宅まで走って、プリントに記入してもらっていたから。
リビングに戻ると、お父さんはテーブルの椅子に座っていた。
ご飯に手を付けていない。
どうやら、僕が戻ってくるのを待っているらしい。
僕はお父さんの向かいの椅子に、ゆっくり腰を下ろす。なんとなく、音を立ててはいけない気がした。全くそんなことはないんだけれど、やっぱり不安になる。
「いただきます」
お父さんが食べ始めたので、僕も味噌汁に手をつけた。
「美味いか?」
「……うん。美味しい」
美味しくない。きっと美味しいのだろうけれど、味がしないから、わからない。
でも、それをお父さんに言う勇気はない。
「どうして、帰ってきたの?」
ハンバーグをつつきながら、話を変える。
「用事があったんだ」
考えていたよりも、すんなり答えてくれた。
「ふうん」
なんだ、用事か。ちょっとだけ、がっかりした。
そこで初めて、お父さんは僕に会いに来てくれたのではないか、と期待していたことに気がついた。
そんなわけないのに。
どんなに頑張っても、お父さんは僕を見てくれない。お父さんが求めているのは、〝僕〟じゃない。
なのに、まだ期待しているなんて、馬鹿馬鹿しいにも程があるだろ。
「ごちそうさま。宿題してくる」
ご飯を口にかきこんで、皿をからっぽにした。
ここにいると、酸素を吸えている気がしない。早く、部屋に戻ろう。それで落ち着かなきゃ。お父さんが帰ってきたくらいで、動揺しすぎている。
ご飯の味がしないのは、きっと緊張しているからだ。味を感じる余裕がないんだ。今日の給食までは普通だったもん。今は、環境に左右されているだけ。
「おい」
お父さんが、部屋に向かおうとする僕を呼んだ。何か、気に障ることでもしてしまったのだろうか。振り返って目が合うと、お父さんは淡々と言った。
「わからないところは、そのままにするんじゃないぞ」
「うん」
コクリと一度だけうなずいて、リビングを離れた。
自室のドアを閉めて、リビングの音が聞こえないようにする。勉強机には座らず、ベッドに倒れ込んだ。
「……用事以下か」
ポツリとつぶやいた。
自分で言ったことなのに、胸がえぐられる感覚がした。
☆
翌日、午前5時に目覚ましが鳴った。
朝練があるから、早い時間に家を出なければならない。
洗面所で顔を洗い、寝癖がついた伸ばしっぱなしの髪を櫛でといて、自室で制服に着替えた。
あとは朝ご飯を食べて、できることは家を出る前に終わらせておかなきゃ。
「おはよう」
リビングに行くと、なんとお父さんがいた。僕が目に入ると、仏頂面で言う。
「お、おはよう…………」
近づくと、コーヒーの香りがする。お父さんが持つマグカップに入った飲み物だ。
コーヒー、飲むんだ。知らなかった。いや、長いこと一緒に過ごしていないから忘れているだけかもしれないな。
「お前も飲むか?」
お父さんは僕に、自分が飲んでいるコーヒーを見せた。
「ううん。僕はいいや」
「苦手か」
「いや、そうじゃないけど……」
決して飲めないわけではない。苦いのは苦手じゃないし、コーヒーなら、ときどき飲む。たとえば、やらなきゃいけないことがあるのに、眠くてたまらないときとか。だから、少しは慣れている。ただ、あまり好きじゃないだけ。
「用事終わってないの?」
僕がコーヒーを飲めるかどうかなんて、別に気にすることじゃない。それよりも、お父さんが家にいる理由が知りたい。
「用事なら終わった」
お父さんは、マグカップに口をつけながら、当たり前のことのように言う。
「じゃあ、なんでいるの?」
「家にいるのは、普通のことだろう」
その言葉に、モヤッとする。
「普通ならそうだと思うけど、やっぱりおかしい。お父さん、いつもは帰ってこないじゃん」
「帰ってくるぞ」
お父さんは、飲み干したマグカップを持って、席を立つ。
「お前が知らないだけだ」
「知らない……って、どういうこと?」
僕の質問は、水道の音にかき消された。
お父さんは、もう、僕と話す気がないらしい。
「…………」
何を言っても無駄だよね。
……胃が痛い。気持ちが悪い。
お父さんは僕なんて、どうでもいいんだ。だから、こんなふうに適当に話を終わらせるんだ。
「いってきます」
「おい、朝飯は」
「いらない」
まだ朝早くで、学校に行ったって長時間待つだけだろうし、他に行くあてもないけれど、家にいるのは苦しい。
僕は通学カバンを背負うと、家を飛び出した。
そこまでは良かったけれど、これからどうしよう。
学校に行くにしても、早くて6時半を過ぎた頃じゃなきゃ。
「どうしよ………………ん?」
視界の端に、見たことがある子が見えた。
三つ編みおさげで、ちまっと小さい。ベンチに座って、うつむいている。知り合いか確信が得られないため、顔が見える位置に移動する。
思った通り、渡辺だ。響のクラスメイトで、本好きな女子。こんな朝早くに、どうして外で本なんか読んでいるんだろう。わざわざ外に出なくても、本は読めるのに。
「おはよ、渡辺」
「んぇっ!? み、宮日先輩!? お、おは、おはようございます」
声をかけると、渡辺はベンチから背中側に転がり落ちそうなほど驚いてのけぞった。ギリギリ落ちなかったから、ホッと安心。
「なんで、ここで本読んでるの?」
「あ、ええと、わたし、朝の空気が好きなんです。静かで集中できますし、周りに人の気配がないのは、すごく楽ですから」
恥ずかしそうに、はにかみながら言う。
今日はかなり寒いよ? 朝の空気が好きなのはわかったけど、寒いのは平気なのかな。
「寒くない?」
「厚着してるので、大丈夫です。宮日先輩こそ、制服で上着も着ないで、寒くないんですか?」
渡辺に指摘されて、「あっ」と気づく。
そっか、家を飛び出してきちゃったから。
「平気だよ」
そう言った直後、ヒュゥゥと冷たい風が吹いて、思わず「さむっ」と声が出る。
「やっぱり、寒いかも」
「ええっ、一度家に帰って、上着を取ってきたほうが……!」
「そこまではないから、大丈夫」
今はまだ、お父さんと顔を合わせたくない。
それに、急に家を出ていった息子が「寒い」って理由で帰ってきたら、お父さんは今回のことを笑って済ませるかもしれない。なぜかわからないけれど、すごく嫌だ。考えるだけで、モヤモヤする。
「渡辺は、家の人に言ってきた? 外で本読んでくるって」
このモヤモヤを消し去るために、話題を変えた。
渡辺は、ビクッと肩を揺らす。
僕から目をそらして、「えっと……」と、両手の指を合わせる。
「い、いえ……。コッソリ来ました」
「良くないよ」
「うっ……。ごめんなさい」
首をすくめる渡辺を見て、思った。
これ、家を飛び出した僕が言えることじゃないか。
でも、危ないことには変わりないよね?
「不審者とかがいるかもしれないんだから、気をつけないと」
「はい……」
渡辺は、しょもーんと縮こまった。パタンと本を閉じる。
何を読んでいるんだろう……と、表紙を見て、僕は首を傾げた。
「あれ? それ、響も読んでた」
「えっ、あっ、その……知ってます」
渡辺は視線をさまよわせたあと、本を抱きしめてうつむいた。
「駄目でしたか……?」
上目づかいで、僕に聞いた。
なんか、すごくなんとなくだけど、ハムスターみたい。
小さいからかな? それとも、弱そうだからかな? って、僕から見れば弱そうなのは、当たり前か。
「いやいや、全然駄目じゃないよ。ただ、響が読んでたなーって、思い出しただけなんだ」
僕が首を横に振ると、渡辺はホッと息をついた。一体、何を気にしてたんだか。
「そうですか……。ところで、不知火くん、どうかしたんですか? 最近、学校を休んでいるから心配で」
話は、響のことに変わる。
「響なら休養中。頑張りすぎたみたい」
詳しいことには触れずに、簡単に理由を伝える。
すると、渡辺は不安そうに表情を歪めた。
「もしかして、風邪ひいちゃったんですか……!? いつもなんでもしてくれるけど、無理してたのかな……。あ、でも、前に色々あって、不知火くんを頼りすぎてたって気づけましたから、不知火くん以外の子も頼ることにしたんですよ。もちろん、自分だけでできることは、ちゃんとします」
渡辺は、独り言を交えながら早口でまくし立てた。
「今日は来るかな……」
ポツリとつぶやく。これは、完全に独り言らしい。
「渡辺は、響のこと好き?」
「はえっ!? すすすすす…………」
あ、やべ。恋愛的な意味じゃないんだけど、それを言うのを忘れてた。
……にしても、めちゃくちゃ動揺してるじゃん。もしかして、恋愛的に好きだったりして。まあ、もしそうだとしても、僕が首を突っ込むと良くないから、気になっても放っておくのがいいよね。
「す、好きって、どういう意味でですか……?」
渡辺は、寒い冬の日なのに、汗をダラダラ流しながらきいた。これが冷や汗ってやつか。
「あいつ、本当に友だちと呼べる人が極端に少ない……というか僕くらいだから、悩みを相談できる相手も僕しかいないみたいでね。渡辺が響を人として好きなら、友だちになってやってほしいと思って」
「友だち、ですか。たしかに、わたしと不知火くんは、クラスメイト以上友だち未満って感じの関係です。ただ同じ空間で過ごしているだけの」
渡辺は、寂しそうに言う。
「あるあるだねー」
クラスメイトと友だちは違うって、中学生になってから気がついた。響が昔言っていたんだけど、『クラスメイトが友だちなら、クラスが一緒になった瞬間から友だちってことにならない? それって変だよな。一度も話したことがないのに、友だちなわけがないから』って。
正直、あの考えで過ごしているから友だちができないんだと思う。「友だちじゃない」と思って、クラスメイトと距離をおいているから、自分の首を絞めることに繋がっているんじゃ……。
少し考え込んでしまった。
ふと渡辺に意識を戻すと、じーっと見つめられていたことを知った。
大きな目が、僕に釘付けだ。「ひえっ」と声が出てしまいそうなくらい、長いこと見つめられる。
「な、何?」
居心地が悪いから、思い切って聞いた。
「宮日先輩、不知火くんとどういう関係なんですか? 部活の先輩後輩ではないですし、体育会は別のブロックでしたよね? 関わりがないように思えます」
な、なんだ、そんなことか。瞬きもしないで見つめられるものだから、何かしてしまったのかと思った。
「幼馴染で親友だよ。家が向かいでさ、幼稚園のころから仲がいいんだ。言ったことないっけ?」
僕は、気を取り直して答える。
「はい。気になってはいたけど、聞く勇気がなかったので……。宮日先輩、よくうちのクラスに来ますけど、不知火くんと話したらすぐ帰っちゃうし」
「そっか。……あ、もうこんな時間だ」
僕は、近くにあった時計を見て、今が6時20分を過ぎようとしていると気がついた。
そろそろ学校に行かないと、部活に遅れてしまう。
「じゃあ、またな。渡辺」
「はい。さようなら」
僕は渡辺に手を振ると、学校へ向かって走り出した。
その道中、響に会った。響は僕を見つけると、テンション低めに話しかけてきた。
「おはよう、優」
「響!? お、おはよう。大丈夫? 学校行くの?」
「え、嫌、行きたくない。でも行かなきゃ成績おわる」
感情と理性が戦っている……。
「そういえば、優の家からおじさんが出てきたけど、帰ってきてたんだな。めずらしい」
その言葉に、胸の奥がひんやりと冷たくなる。
学校が終わって帰ったら、また1人ぼっちかな。
「…………用事だってさ」
響に、お父さんが帰ってきた理由を言う。
本人が言っていたんだから、本当のことだろう。「用事」というのは、きっと仕事関係で、僕に会うために帰ってきたのではない。ハンバーグを作ってくれたのは、嬉しかったけど……。
僕が「用事」と言ったからか、響が首をかしげた。
少し考えたあと、きいた。
「知ってる? 今日は授業参観だって」
「……へ? ジュギョーサンカン……じゅぎょう、さんかん……授業参観!?」
「何その3段活用」
響にツッコまれたけど、それに反応する余裕はない。
授業参観ってことは、もしかすると、僕のために帰ってきたかもしれないってこと……!?
一瞬、そんな考えが浮かんだ。でも、あっという間に消え失せる。
「……用事は終わったって言ってたな……」
僕の授業参観に来てくれたなら、あんなこと言わないよな。
あからさまに落ち込んだからか、響が眉を下げる。
「そもそも伝えてるのか? 授業参観があるから見に来て欲しいって」
「…………言ってない。言ったって、どうせ来ないもん」
そういえば、参観のプリントは祖父母に渡した気がする。
2人とも来られないのはわかりきっているから、プリントを渡すっていう形だけだけどね。
お父さんには一切話してない。そもそも普段会えないし、電話するにもなかなか出ないし、メールも既読がつかない。
「そりゃそうか。たぶん忙しいよな、社長さん」
社長さん……ああ、そうか。
「それ、たまに忘れる」
普段会わないせいか、それとも、僕が知るお父さんは、まったくの別人だからか。
「御曹司だって友だちに知られたのは、たしか親の仕事を聞きましょう……みたいな授業のときだって言ってたよな。小学生のとき」
「御曹司? やめてよ、その言い方。みんなは言わないよ」
なんか頭が良さそうだし、顔も良さそう。
僕はそんなんじゃないから、似合わないよ。
みんなも思っているからか、僕に「御曹司」とか「令息」とか、そんな言い方はしない。
「良かったな。周りが良い人ばかりで。環境最悪なら、いじられてると思う」
「……そうかもね」
いい環境だと思うよ。
恵まれているのか、いないのか。僕には、よくわからない。
「急がないと、部活遅れる」
「ああ、そうだな」
ちょっと冷たい言い方になってしまったと思ったけれど、響はたいして気にする様子もなく、うなずいてくれた。
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