第39話 雫と優

 家のリビングにあるソファーの上で、雫は体操座りをして、丸まっていた。

「はぁ……」

 小さくため息をつく。

 また、学校を休んでしまった。昨日はちゃんと「行こう」と考えたんだけどな。今日の準備だって、夜に終わらせたし。あとは、朝起きて学校に行くだけだったのに、やっぱりできなかった。行きたくないと思ったら、身体が重くて起き上がれなくて。

 今日も、みんなは頑張ってたんだろう。雫は何もしないで、ただボーッとしていただけ。気がつけば、すでに夕方になっていた。みんなは、そろそろ家に帰りついたころでしょうか。

 ピンポーン。チャイムが鳴った。

「あら、宅配便かしら」

 テレビでドラマを観ていたママが、インターホンを確認しに行く。画面を見て驚いたあと、雫に飛んできた。

「雫。姫乃ちゃんと、もう1人男の子が来てるよ」

「中川さんと、男の子……?」

 頭がクエスチョンマークでいっぱいになった。

 雫と話す男の子は、宮日さんくらいしかいませんが……。あっ、あと後輩か。でも後輩は1年生だし、雫のことが好きじゃないようだから、わざわざ家に来ることはありえないはず。

 ……まさか、本当に宮日さんだったりして。

「見たらわかるから、早く出なさい」

 ママは、少し眉をつり上げた。

 お客さんを待たせてはいけません、と言おうとしていることがわかる。

「うん……」

 うなずいて、ソファーからおりる。ペタペタ足音を鳴らしながら、玄関へ向かった。サンダルを履いて、ドアを開けた。冷たい空気が、身体を震わせる。

 隙間から見えたのは、中川さんだ。

 ドアを開けきると、2人が目に入ってくる。

 目が合うと、2人そろって笑顔を見せた。

「こんにちは夏絵手さん。体調どう?」

「よ、夏絵手。先週ぶり」

 やっぱり、宮日さんだった。

 温かい笑顔に、胸がキュンっとうずく。

 いけない。雫が恋したのは朱雀様なのに、宮日さんにドキドキしちゃ駄目。

「お、お久しぶりです……」

 目を逸らして挨拶すると、チクリと針で刺すような視線を感じた。

 顔を上げて視線を感じた方を見ると、中川さんと目が合う。天使のような笑顔を浮かべていて、感情が読み取れない。

「急に来てごめんなさい。プリントを渡しに来たの。来週末が提出期限の大事な書類が入っているから、中身をしっかり確認するようにしてね」

 中川さんは通学カバンの中から茶色い封筒を取り出して、雫に渡してくれる。

「授業で使ったプリントもあるよ。休んだ分は、誰かに見せてもらって写して。できれば、しっかり授業を理解している人に、内容を教えてもらうといいよ。わたしはいつでも大歓迎だから、困ったときは頼ってね」

「ありがとうございます。覚えておきます」

 中川さんに向けて一礼する。

「どういたしまして。わたし、これから用事があるの。またね夏絵手さん。学校で待ってるよ」

 中川さんは、やることは終えたとばかりに、帰っていった。

「あっ、ちょっと中川!」

 宮日さんが、慌てた様子で中川さんを呼ぶ。

 中川さんには届かなかったようで、声は空気に溶けていった。

 声をかけたのに追いかけようとせず、その場に固まっている。

「……宮日さんは、帰らないんですか?」

 中川さんの付き添いですよね? どうして一緒に帰らないのか、不思議。

「あー、えっと……帰ったほうがいい?」

 そう聞かれると、なんて言えばいいのか……。

 雫と話したいことでも、あるのでしょうか。

 気まずい雰囲気になって、2人とも黙りこむ。

 そこへ、ママが来た。雫の後ろから、宮日さんを見る。

「こんにちは。もしかして、君が優くん?」

 宮日さんは、とつぜん名前を呼ばれたことに驚いたようだ。

「なんで名前……」とつぶやいて、ママを見つめる瞳に困惑の色を見せた。

 けれども、それは一瞬のことで、宮日さんは人懐っこい笑顔で、ママに挨拶した。

「はい。初めまして。宮日優です」

 宮日さんの名前を聞いて、ママは嬉しそうにほほ笑んだ。

「雫と仲良くしてくれて、本当にありがとう。雫が毎日、優くんが優くんが〜って言うものだから、どんな子だろうと気になっていたの」

「ちょっと、ママ!」

 毎日、宮日さんの話をしていることを言うのは、百歩、いや、千歩譲っていいとして、雫が宮日さんを「優くん」って呼んでいるのは、言わないでほしかったのに……!

「ゆ、優くん……って、え……?」

 宮日さんは目を白黒させて、雫を見つめた。

 みるみるうちに、頬が赤くなる。

 絶対に意識された……!

「あああの、忘れてください! 宮日さんの話をすると、雫が宮日『さん』って呼ぶせいか、ママがいつも『女の子?』って聞くものだから、覚えやすいように呼んでいるだけですので!!」

 機関銃のように、早口でまくし立てた。

「あ、そういうことか。うん、頑張る。忘れられるかな……」

 宮日さんは納得したあと、目を逸らす。

 お願いですから、忘れてくださいっ!

「ええっと……僕、帰るよ。夏絵手を見られて安心したし。じゃあ、また」

「あっ、待って」

 帰ろうとした宮日さんの、ブレザーの袖を掴む。

 ……どうしましょう。思わず、やってしまった。

「少しだけ、お話したいです」

 なんとか、そう言った。恥ずかしさに押しつぶされそうだけれど……。

「僕はいいよ。でも……」

 宮日さんは、ママを見た。

「優くんがいいなら、大歓迎よ。たくさん話してあげてほしいな」

 ママはにっこり笑顔で、宮日さんに言った。

 宮日さんも笑顔を返す。

「そうします」


 ☆


 ママは宮日さんを家の中に通した。

 リビングで待ってもらう間に、雫は自室で着替えを済ませる。パジャマだと、恥ずかしいもん。

 宮日さんが待つリビングに行くと、ダイニングテーブルで、ママと談笑しているところだった。

「優くん、いつもは雫のこと、なんて呼んでいるの?」

「夏絵手って呼んでいます。あ、駄目ならやめます」

「いいのいいの。全然、駄目じゃないから」

 な、仲良くなってる……?

 宮日さんに緊張した様子はないし、ママはママで、グイグイ質問している。ママったら、雫の友だちには昔からあんな感じなんですよね。

「あ、夏絵手」

 宮日さんが、こちらに気がつく。

「三つ編み似合うね」

「あっ、こっ、これはっ、そのっ……」

 髪がボサボサで、見た目が良くなかったからで……。

 まあ、今見た目を気にするのも、どうなんだろうとは思いますけれど……。

 というか、よくサラッと褒めることができますね。

「お団子でも似合うんじゃない?」

 ヒエッ!?

 ま、まさか、雫が楓だと確信を持つために言っているのでは……!?

 ……そんなわけ、ないか。

 後輩ならありえるけれど、宮日さんはポンコツだもの。そこまで考えられないと思う。

 楓だと気がついていることは確実なので、調べる必要もないはず。

 似合うと知っているから言ったんでしょう。

 さて、ママがいては、話したいことも話せない。雑談すら上手くできない気がする。だったら、ママがいないところに行くべし。

「ママ、宮日さんと2人で話したいから、他の部屋に行くね」

「いってらっしゃーい。じゃ、その間にお夕飯の準備でもしておこうかしら」

 ママがうなずいてくれた。それから立ち上がると、キッチンへ向かっていった。

 よし、これで大丈夫。

「宮日さん、行きましょう」

「うん。ついていったらいい?」

「そうしてください」

 宮日さんをつれて、リビングから数部屋分離れた空き部屋に行く。

 宮日さんは家をキョロキョロしながら、「部屋多いな」とつぶやいている。

 あなたの家も、ここと大差ありませんけれどね。

「空き部屋っているかなぁ」

「あって悪いことはありませんよ」

「あるよ。掃除が面倒」

 ママみたいなこと言いますね。

 毎日「お掃除が大変だわ」って家中を駆け回るんですよ。

「どうぞ」

 部屋のドアを開けて、宮日さんを部屋に通す。

 部屋の中は、すっからかん。椅子も机も、カーペットすらない。あるものといえば、カーテンだけ。若草色のカーテンなものだから、部屋の寂しさが増している気がしなくもない。

「ごめんなさい、座れなくて。少し待っていていただけますか? 何か、持ってくるので」

 椅子……は、1つずつしか運べない。

 座布団だけでも持ってこよう。

 雫が部屋を出ようとすると、宮日さんが左手を掴んだ。心臓が飛び跳ねる。

「ちょ、待って待って」

 足を止めて振り返ると、宮日さんはすぐに手を離す。にっこり笑顔を見せて、

「持ってこなくて大丈夫だよ。僕、立ち話したい気分だから」

 と言った。

「立ち話、ですね。しましょう」

 立場したいだなんて、遠慮したのかな。

「体調大丈夫? 2日も休んでるから、心配で……」

「体調は悪くないので、大丈夫ですよ」

「そうなの? よかったな」

 よくないですよ。だって、ズル休みだもの。

「夏絵手が元気なら、僕すごく嬉しいよ」

 宮日さんは、ニコニコ笑顔で話す。

「僕が風邪を引いたとき、夏絵手は色々してくれたよね。だから、夏絵手も困ったら言って。できることなら、なんでもするから」

 ぐっと拳を握って、やる気があることを示す。

 ジクジクと、胸が痛む。

 そんなに親切にしないで。みんなが頑張っているのに、雫は頑張るのを諦めた。できないからって、目を逸らした。宮日さんに親切にされるような、いい子じゃないのに、どうして優しくしてくれるの?

「学校が嫌いだから、休んだんです。体調は問題ないんです」

 こんなにも優しい人を騙していることが嫌で嫌で、そう伝えた。

 宮日さんは、雫を黙って見つめて、目をパチクリさせる。

 何を考えているのか、ちっともわからない。

「ごめんなさい。せっかく、心配してくれたのに」

 雫が謝ると、首を横に振った。

「休息を取るのは、大事だと思うよ。キツいんなら、休んでいい」

「でも、勉強とか……成績も」

 不安なのは、ここ。

 3年生になると受験があるのに、今から休みすぎていては、不利になってしまう。

「そりゃあ、休みすぎるのは良くないけどさぁ……。1日だけとか、そのくらいならいいんじゃね?」

「……ママも言ってました」

「へえ、いいお母さんじゃん。よかったね」

 宮日さんは、雫と目を合わせる。

「僕に会うために学校来てよ。毎日いるからさ。連絡先も交換しよう。そうしたら、いつでも話せるだろ? なんなら、お悩み相談窓口? みたいな使い方でもいいし」

 ……この人、どうしてこんなに優しいのでしょう。

 後輩の悩みも聞いてあげていましたよね。盗み聞きだけれど、あれを聞く限り、後輩の心はボロボロなのでは……。

 幼馴染が苦しい状況で、こんなに優しい人が平気でいられるとは思えない。

 あの子だけでも手一杯なはずなのに、雫にまで寄り添ってくれるなんて。

 それに宮日さん自身にも、悩みはある。お兄さんのことを知った時は、何も言えなかった。

 夢で見るほどにつらい思いをしているのに、加えて友だち2人のお世話? 雫が宮日さんの立場だったら、絶対に抱えきれない。

「ありがとうございます、宮日さん。でも……大丈夫です」

「……そっか。やっぱり、僕じゃ駄目かな」

 宮日さんは、眉を下げた。ポツリと、言葉をこぼす。

 そういうわけではありませんよ。宮日さんに、無理してほしくないから。雫のことまで背負わせるわけにはいかない。

「これからは、ちゃんと頑張りますから。学校は週1くらいで休むかもしれませんけれど、でも行くようにします。あと、連絡先交換したいです。お休みの日に」

「……! そっか、わかった」

 宮日さんは、雫の話に目を丸くした。それから、フッとほほ笑むと、ゆっくりうなずいてくれた。

 彼の表情と優しい声音に、ギュッと胸が締めつけられる。

 ああ、取られたくないなぁ……。雫のものにしたい。

 どうして、こんなことを思ってしまうのだろう。

 雫が好きなのは朱雀様であって、宮日さんじゃないのに。

 ………………本当に、そうかな……?

 雫が朱雀様に惹かれたのは、1年前。あのとき、朱雀様は雫を助けてくれた。そして、とっても優しい言葉をかけてくれた。

 今の宮日さんのように。

 何も不思議ではない。だって、朱雀様は宮日さんだもの。

 雫は、朱雀様の――宮日さんの優しさに、心を奪われた。

 やっぱり、好きです。宮日さんが好き。

 だから、取られたくないんだ。他の誰かに、宮日さんを取られたくない。

「あの……優くんって、呼んでもいいですか?」

 取られないようにするには、みんなよりも宮日さんと親しくなる。これが、一番良い。

「へっ!?」

 宮日さんは、スットンキョウな声を上げる。

 驚きすぎて、後ろの壁に頭をぶつけた。ゴツンと、とっても痛そうな音がする。

「いったぁ……!」

 後頭部を両手でおさえて、その場にうずくまる。

「わ、大丈夫ですか?」

 かがみ込んで目を合わせてきくと、宮日さんは顔を赤くした。

「だ、大丈夫! ………………呼び方くらい、自分の好きにすれば?」

 ツンと、そっけない答えが返ってきた。

 頬が真っ赤で、雫から目を逸らしている。

 好きにすれば……ということは、呼んでいいってことですよね?

「ありがとうございます。優くん」

 自然と笑みがこぼれる。

 名前を呼ぶと、優くんは雫をちらりと見た。

 けれど、それは一瞬で、またそっぽを向く。

「別に、勝手にしていいけど、学校では今まで通りに呼んでよ」

 姿勢を変えて、体操座りする。

 雫も、それに合わせた。

「どうしてですか?」

「…………」

 口を開きかけて、閉じる。唇をとがらせて黙り込んだ。身体を小さく縮こませるようにギュウッと膝を抱え込む。

 うーむ、これは…………恥ずかしいのでは?

「わかりました」

 答えを聞くのはやめた。予想はついたし、質問され続ける優くんが可哀想だもの。

「……ん。じゃあ、僕は帰るよ」

 優くんは立ち上がると、部屋を出ていく。

 扉の向こう側へ、いなくなってしまった。

「あわわっ、速いです」

 急いで追いかけると、優くんはママに捕まっていた。

「優くん、もう帰るの?」

 ママは残念そうにしている。

「はい。すみません。買い物して、夕飯を作らなきゃいけないので」

「あら、お手伝い? えらいね」

「ありがとうございます」

 あれ……? 作り笑いしてる……。

 褒められたのに、嬉しそうじゃない。

「ありがとうございます」も、どこか心がこもっていないように感じる。最低限の礼儀として言っただけのような。

「お母さんも助かるだろうね。本当、母としては子どもに手伝ってほしいものよ」

「そうなんですね。ごめんなさい、もう帰らなきゃ。今日はありがとうございました」

 優くんは、話を無理やり終わらせた。

「送りましょうか? 道わかりませんよね」

「いや、覚えたから平気」

 雫が提案すると、優くんは首を横に振った。

 覚えたって、ここに来るのは今日が初めてですよね? そんなに簡単に覚えられるものですか? ……と思ったけれど、この人、凄腕殺し屋だったな。

 道順は一度で覚えなきゃ、命取りになる。いつでも案内役がいるとは限らないし、いきなり任務を与えられることもあるから、普通の記憶力だと殺し屋なんか務まらない。

「一応、送ります」

 優くんの言葉を信じていないわけではない。けれど、万が一のこともあるから。たとえば、迷子になって一晩中帰れないとか。そんなこと、ありえないでしょうけど。やっぱり、心配にはなりますよね。

「……わかったよ。学校まででいいから」

 優くんは、やっとうなずいた。

 そういうことで、優くんの意見通り、学校まで送ることに。

 道を歩きながら、聞いてみる。

「ママの話をすること、嫌ですか?」

 優くんは、目をまたたいた。

 少し首をかしげて「なんで?」と質問に質問で返す。

「寂しそうというか、悲しそうというか……。ネガティブな感じがしたので。もしかして、何かあったんですか?」

 優くんは苦笑する。困った顔をして、小さく息をはいた。

「人の事情に、土足で踏み込むのは良くないよ?」

 優しい声音だけれど、雫を見る目は冷たい。

「ごめんなさい。でも、優くんばかり抱え込むのは、苦しいですよ」

「僕ばかり、ね……。別に大したことじゃない」

 どこか遠くを見るように、目を細めた。

 視線の先をたどってみる。時刻はまだ5時台だというのに、すっかり暗くなっているせいで、どこを見ているのかわからない。もしかすると、どこも見ていないのかもしれない。

 優くんは、またひとつ、小さく息をつく。

「夏絵手になら、話してもいいかな……」

 誰かに向けて、問いかけるようにつぶやいた。きっと独り言だけど、そんなふうには聞こえなかった。

 優くんは雫に視線を移す。

「……あのとき、お母さんの手伝いって話だったよな。僕、お母さんがいないんだ。5歳のときに病気で死んじゃったって、お父さんとお兄ちゃんは言ってた。顔も声も、よく覚えてない。お母さんとの思い出は、ほとんど残ってなくて……だから、夏絵手のお母さんの話、あまりピンとこなかった」

 話しながら、優くんは足元を見た。無意識に、うつむいてしまうのだろう。いい気分じゃないときは、うつむいてしまいがちだから。こうして家族の話をすることが、苦しいのではないでしょうか……。

「あと、夕飯作りのこと。絶対に作らないといけないことはない。宅配たのんでもいいし、外食でもいい。お金はかかるけど、そんなに大金にはならない。今はお父さんと2人暮らしだけど、お父さんは全く帰ってこないから、実質1人暮らしなんだよ。料理、洗濯、掃除、他にも色々自分でやってる。さすがに、光熱費みたいな毎月必ず支払うものは、お父さんが払ってるみたいだけどね。……とりあえず、お母さんの話をするのが嫌なわけではないから。そこは勘違いしないでほしいな」

 淡々と、言葉につまることなく話す。

 でも、表情も声音も弱々しくて、見ていられない。

「……もう、ここでいいよ。送ってくれてありがとう」

 優くんはぎこちなくほほ笑むと、道の先へ進もうとする。

「待ってください」

 手を伸ばして、彼の手をつかんだ。

「お願いです。無理しないでください」

 何してるんですか。後輩や雫に気を配って、自分は1人ぼっちじゃないですか。

 誰かのネガティブな話を聞くだけで疲れてしまうのに、あなたは共感して寄り添って……。誰かの心を軽くするために、自分の心を重くしている。

 誰かの相談は聞くくせに、自分の悩みは何1つ相談しない。今の話だって「悩み」として話すことはできたはずなのに、現状を報告するだけみたいに話し終えてしまった。

「泣いたっていいんです。苦しいなら、助けを求めてもいいのですよ」

「…………話したら楽になることは知ってる。でも、僕に相談された人が悲しくなるのは嫌だ。僕のせいで誰かがつらそうにしているのを見たくない」

 優くんは、首を横に振る。

 表情が暗い。空は暗くなっているのに、顔色が悪いことがわかる。

「僕は大丈夫。平気だよ。だから、夏絵手は自分のことを考えて」

 雫の手をそっと振りほどくと、こちらに向けて手を振った。

「また明日。学校で会おう」

 そう言ったときの優くんは、いつもと変わらない、明るい男の子だった。

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